四.遠代官

 

 

 月尾の城下に大勢の農民が大挙して押し寄せたのは、その年の春も次第に初夏へと移ろい始める頃のことだった。

 領内の者の決起かに思われたそれは、北の境を越えた先の天領から押し寄せていたのである。

 農村はどこも同じように飢餓に苦しんでいた。

 領内でもいつ暴発するか分からぬ昨今、予想に外れた天領地からの訴えに、城では対応に苦慮した。

 城はその対応に追われ、りくの父丈左衛門もまた他人事では済まず、連日その帰りは遅くなっていた。

 ある朝早くに父に呼び付けられ、近日中にも白井家に移るよう申し付けられたのは、そんな最中のことである。

「父上! 何もこのような不穏な時に、態々りくを遠代官へやることはないのではありませんか」

「そうですよ、勝之介の申す通りです。先だってのあれは一揆ではございませぬか。天領の民に倣って月尾の領民が蜂起することだってあり得るのですよ」

 兄も母も揃って異を唱えたが、父はそれを一蹴した。

「江戸の殿様へはご家老から既にご注進申し上げてある。近く御公儀の調べも入るであろう。これは我が藩にとっても他人事ではないぞ。領内の治安は百姓の暮らしの安寧と直結しておる」

 父の居室は庭に面した一角にあり、障子を開けば八重桜を配した庭が広がる。

 晴れ渡った空から注ぐ陽の光を受け、薄紅色の花が踊る。庭を眺めるだけならば、実に長閑で平穏な日だった。

「りく、よく聞け。こうした時であるからこそ、おまえは夫となる麟十郎を支えねばならぬ。麟十郎に足りぬものはおまえが補うのだ」

「麟十郎どのに足りぬ最たるものといえば、剣の腕ではありませんか」

 麟十郎について知ることなど、そう多くはない。藩士子弟が通う藩校での評判や勤めにおける評価が比較的良いらしい事は、りくの耳にも届いていたが、寡黙で何を考えているか今一つ掴めない麟十郎と上手くやっていける自信もなかった。

 丈左衛門は、咎めるような強張った声でりくの名を呼んだ。

「おまえが道場で片桐の倅と親しくしているのは知っているが、あれは駄目だ。誰にも良い顔をする者は底が知れている」

「そんな、孫六どのはいつも良くして下さいますのに」

 今でこそ父の眼鏡に適わなくとも、孫六はまだ二十歳と若い。この時点で人を決めてしまう父のほうが底が浅いではないかと、りくは内心で反発を覚えていた。

「兎も角、この情勢である。おまえは白井家に嫁入らせるが、まずは仮祝言とし、後々麟十郎の勤めが落ち着いた頃を見計らって、改めて祝言を執り行うことで話は纏まっておる。三日後には発てるよう、そのつもりで支度せよ」

「三日後だなんて、あまりに急ではありませんか」

 家族の話になど一切耳も貸さず、丈左衛門はそれだけを言い渡し、皆を下がらせたのだった。

 

   ***

 

 天領にも幕府より代官は配置されていた。

 村々で相談し、世話役を通じて貧窮する農民の暮らしを代官所に訴え続けていたという。ところが暖簾に腕押しで、袖にされ続けてきた。

 そればかりか、訴え出た者に対し厳罰に処すなどと脅しかけるような発言があったらしい。故に、隣接する月尾藩の城下に陳情したものだった。

 麟十郎の許にも藩政上層からそうした顛末が通達されてはいたが、続けて命ぜられたのは領民の動向をより一層厳しく取り締まることであった。

 藩は自領の困窮を知りながら、強行に藩財政の改革を推し進めており、同時に領民の反発を恐れてもいる。

「それでは、先日城に押しかけた者たちは、萱刈村の者ばかりで、沢代の組内から協力した者はないと申すのだな」

「勿論でございます。──ただ、ここ何年も不作の年が続き、その決起も止む無しと見ている者は多うございますな。沢代組の百姓も、もう飢えを凌ぎ切れぬところまで来ていようかと」

「………」

「ある村では蛇や蛙、虫まで獲り尽くし、それですら餓死者の出る有様。先に萱刈村が城へ強訴した一件で、組内の百姓たちも騒ぎはじめております。何某かの形で御救いを得られねば、沢代組でもまた或いは──」

 名主の男はそう続けたが、脂の浮いた顔にでっぷりと突き出た腹が語るには、今一つ説得力に欠ける話だ。

 麟十郎は眉宇を顰めて瞑目した。

 だが、沢代組に限らず領内の各所で冷害被害が報告されているのは事実で、それでも藩は年貢の減免措置に踏み切らずにいた。

 麟十郎の前任であった代官もやはり、農村集落の悲惨な様を捨て置いていたのだろう。引き継ぐ折にも、下手に肩入れしようものなら百姓連中は一層付け上がり、益々要求するようになると釘を差してもいた。

「ひとまず窮状は分かった。着任早々のことで何分現地の実情には疎いのでな、順次視察を検討しておるところだ」

 代官所の会所を訪れていたのは、麟十郎の赴任地・沢代村の名主であった。

 沢代には街道が通り、街道沿いだけは商家や旅籠が軒を連ね、農産物以外での身入りもそれなりにある。だが、僅かでも逸れれば田畑が広がり緑の深い山々に囲まれている村だ。

 この村は街道の恩恵もあり、一見するとまだ余裕がありそうにも感じられるが、百姓はそうもいかない。

 次の年を生き延びられるかはその年ごとの実りに左右され、苦しければ商家に借金を重ね、とうとう返しきれずに夜逃げする家もある。

 欠け落ちた一家が立ち帰ることは、まずなかった。

 街道を外れた村々などは酷い有様で、山がちな地形のせいで日照も短く、土も肥沃とは言い難い。ただでも厳しい環境の中で、近年続く冷害が追い打ちをかけていた。

 着任して以後、組内の村名主や世話役が入れ替わり立ち替わり代官所を訪ねてきていたが、皆口にすることは一様に不作を原因とする年貢の減免であった。

 とはいえ、藩財政も苦しい。凶作の年が続けば百姓も苦しかろうが、取り分の減る藩もそれだけ貧する。

 加えて近年は公儀の手伝い普請や高役金、他領の在番を申し付けられるなど、出費は一向に減らなかった。

 麟十郎は客人を見送った後で、会所の中庭に降りた。

 下男が庭木の手入れをするのを眺め、そのこなれた手際に見入る。

 ──頭の痛い役どころに据えられたものだ。

 麟十郎は一つ重い吐息を溢したのだった。

 

 

 【五.へ続く】

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