三.りく

 

 

 りくが城下の剣術道場に通い始めたのは、十五の頃のことだった。

 これも父の勧めで、母はりくに剣術を学ばせることに良い顔はしなかった。どうせ通うなら華や琴のほうが見栄えが良く、名家の子女との交流も深まる。りくがいずれ嫁ぐ時にも、おなごとしての教養を身に付けるほうがよほど役立つと母は考えていたらしかった。

 りくも男ばかりの剣術道場に入門するのは乗気ではなかったが、父の考えは母やりくとは少し違っていたようで、兄の勝之介が通う道場へ入門することになったのである。

 兄の通っていた笹谷道場は鯉川町の堀のそばにあり、鯉川橋を渡ってすぐの足軽屋敷が並ぶ一角にあった。

 門弟の数も多くはなく、老齢の師範が一刀流を教える道場だった。

 入門を許されて暫くは毎日のように兄と連立って通った。

 白井麟十郎とは、その道場で初めて顔を合わせたのである。

 麟十郎はりくより六つ上で、兄の勝之介と同年だったが、剣術はからきしだった。

 りくが入門して三月も経つと、りくのほうが麟十郎から一本取れるようになってしまったのである。

 城下にいくつかある剣術道場の中でも、他所に比して目立たった功績のない、地味で鄙びた道場だ。

 門弟も下士の家の者が殆どで、作法だけでも身につけたい、或いは親や上役に言われて仕方なく、格好だけでも剣術道場に入門しておきたいという者が多かった。或いは逆で、そういう者が集まってしまったために、道場の名が廃れたのかもしれない。

 兎も角も、そうした中にあってさえ、麟十郎は一際弱い剣士だった。

 ところが麟十郎は全く上達しないながらも、熱心に道場に通い続けていた。しかし、りくと立ち合うとそのたびに負け続けてもいたのである。

 そんなことが一、二年も続き、りくはすっかり麟十郎を見下げるようになった。

 何度か挨拶を交わしたこともあったが、それ以上のことはない。

 或いはりくに先を越されたことを内心で恨みに思っているのではないかと感じるほどに、余所余所しい振る舞いだった印象が強かった。

 今も時折道場へは赴くが、りくが麟十郎と会話をすることは滅多にない。

 丈左衛門がりくの縁談を口の端に乗せたのはつい最近で、その相手が麟十郎だと知ったときの落胆は言葉に表し難いものだった。

 容姿も取り立てて秀麗なわけでなく、真面目なだけが取り柄の男だ。丈左衛門が麟十郎のどこをそれほどまでに見込んでいるのか、りくには理解し難かった。

 

   ***

 

 真冬の道場の凍てつく寒さの中、上がった息が白く漂った。

 素足の裏の感覚を奪う冷たい床板を踏み締め、りくは気合と共に竹刀を振り下ろした。

 空を斬る音がしたと同時に相手の竹刀がそれを受けて弾き、その切っ先がりくの小手を狙う。しまったと思った時には、勝負は既についていた。小手を打った竹刀はりくの目には追えぬ速さで、胴をも打っていたのである。

 防具を着けていても尚、強かに打ち込まれた胴が痺れ、ぐっと息を詰まらせたりくの足はよろめいた。均衡を崩しそうになったが、りくは何とか踏み止まる。

 一礼して下がると、今立ち合ったばかりの相手、片桐孫六はにんまりと笑った。

「今日はいつもの威勢が感じられなんだぞ。何ぞあったのか」

 孫六がりくに声を掛けたのは、稽古を終えて道場を出る直前のことだった。

 りくよりも二つほど上だが、りくが稽古に出る度に気さくに声を掛けてくるこの男は、勘定方として城に出仕している。

 目鼻立ちのくっきりとした顔にいつも人好きのする笑顔を浮かべ、誰にも如才なく接する。

 そういう孫六を、りくは少なからず好もしく思っていた。

 汗をかいた肌を拭い、手拭地を首にかけ直す仕草は、真冬の寒さなどは微塵も感じていない様子である。

「いえ、特に何もありませんよ」

「そうは見えんな。りくどのは嘘が下手だ。何かを誤魔化そうというときほど、相手の目をじっと見る」

 鋭く指摘され、りくはぎくりとした。

 まさに今も孫六の双眸を直視していたからだ。

「縁談が纏まったと話に聞いたが、そうなるともう此処へも通えなくなるのか」

「別に、私は承諾しておりません。お相手の方もきっとお断りなさいます」

 稽古着の入った包みと竹刀を抱え直し、りくが下駄に足を掛けると、ちょうど道場の冠木門を潜って来る白井麟十郎の姿が見えた。

 門までは三、四間ほどしかなく、或いは今の話を聞かれたかと焦ったが、麟十郎は此方に顔を向けると軽く一礼し、そのまま何か言うでもなく母屋のあるほうへ向かって行ってしまった。

 今し方のその顔には特に何の色も見出だせなかったが、道場内でりくが孫六と話をしていると、侮蔑を含んだような目で見てくることがあった。年頃のおなごが人目も憚らず男と談笑しているのを、はしたないと思っているのだろう。りくには寧ろ、麟十郎のそうした視線のほうが不躾であると思えてならない。 

 孫六はりくの縁談相手が麟十郎だとは知らぬと見えて、やはり軽く会釈を返し、それ以上の声を掛けることもなかった。

「あの人が此処へ来ることも、もう無いかもしれんな」

 後から入門した孫六やりくにも追い越され、その類稀な弱さから、道場の名物のような存在だった。道場主の笹谷進五右衛門も温厚な人物で、門弟の数こそ少ないが、そうした道場主の気質を慕って訪ねてくる者も身分の別を問わず多いようだった。

 麟十郎が道場でなく真っ直ぐに母屋へ向かったのは、きっと城下から沢代へ移る挨拶にでも訪れたものだろうと思われた。

 

 

 【四.へ続く】

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