カタヌキ

マツシタ コウキ

真相は…

-どうしてこんなことになった。


 そんな言葉が頭の中で反射し続ける。頑丈な鉄格子で出入口を塞いでいる部屋の片隅で、僕は項垂れていた。


 反対側の壁にある小窓から朝日が差し込んできて、小鳥の囀る声が聞こえる。この状態のままでどれくらい時間が経ったのかは分からない。そんな僕は今、心の中で二人の自分と戦っている最中である。


 ここに閉じ込められてから1日しか経っていないものの、もう限界を迎えていた。「死んでしまった方が楽だ」と主張してくる自分。そんな主張に反対する自分。「ここで死んでしまったら、両親が悲しむよ」と必死に説得してくる。


 どちらの自分に委ねようか、決着がつかずに何時間も時間が経っている。しかし、たった今、僕は決心した。僕はゆっくりと顔を上げてから、身体を起こしていく。


「もう楽になろう」


 僕は死ぬことを選んだ。服を脱ぎ、脱いだ服をヒモのように捩じってから横に伸ばす。そして、首に巻いていく。


 巻かれた服の両端を、両手で掴み、横に精いっぱい引こうとする。そんな時、あの日の出来事が頭によぎった。3日前の夜、僕は勤め先の近くにある公園にいた。そこで、。巻き込まれたといったものの、それが何なのかは分からない。


 どうしてあの公園にいたのか、そこで何をしていたのかも、思い出すことができないのだ。ただ分かっているのは、足元に二つに割れたピンク色の板が落ちていたことだけだった。それがこの状況に関係しているはずだ。どうしてそう考えているのかは、僕にも説明ができない。「直感」、なんとなくそう思っただけでは、説明になっていないだろう。しかし、それ以外に言う言葉がないのだ。


 あれやこれやと考え続けたものの、もうどうでもいい。これ以上、考えるのは止めにしよう。服を掴む手に力を込めると、頭の中で両親の姿が浮かび上がった。教師になると報告した時、とても嬉しそうにしていた両親。大学卒業を機に、独り立ちする時に仕事の成功と健康を願ってくれた両親の姿が浮かんで、両目から涙が出てくる。


「父さん、母さん。ごめん、こんな息子で」


 謝罪の言葉と同時に、涙が頬を伝っていく。視界がぼやけてきながら、僕は服の両端を思いっきり引っ張った。


「ガッ…、ああ…」


 首に強い圧迫感がかかり、息ができなくなる。防衛反応のせいか、勝手に力を緩めようとする作用が働く。しかし、それでも僕は力を緩めることはなかった。


* * *


 僕の名前は、佐藤和幸さとう かずゆき。今の仕事に就いてから、まだ3カ月程だ。世間から見れば、まだまだこれからと期待される身である。その期待に応えるために頑張っていく人が大半だろう。しかし、今の僕はそんな人たちになろうとは思わない。


 7月28日。時刻は午後22時。僕は今、誰もいない暗い公園の中にいる。この公園は、中央に休息するための東屋があったり、端には市民会館、子供が遊べるように遊具があったりと、地元の人に人気のある場所だ。

 

 公園の端に林立している一本の樹の前に立ち、僕はその場に座り込んだ。木元に草が生えていない地面に右頬を付ける。


伊藤いとうさん…」


 僕は愛する女性の名前を囁く。そのまま顔を付け続けていると、悲しい気持ちが大きくなっていく。


-どうして、こうなったんだろう。


 人生の理不尽さを呪う。3日前までは人生を楽しく過ごしていたのに、たった一度の出来事で、こんなにも絶望を味わうことになるとは。


 僕は足元に置いた黒いリュックサックから縄を取り出した。2日前に、駅近くのホームセンターで購入したものだ。すぐに使おうと思ったのだが、実行できなかった。死を恐れる気持ちと葛藤していたからだった。しかし、僕はもう決心した。このままずっと、状況がよくなることなんてないと諦めたからだ。


 縄を持ったまま、ゆっくりと立ち上がる。縄を上に投げ、枝にひっかける。垂れ下がってきた縄の先を掴み、輪を作る。もう片方の縄を輪の中に通す。そして、輪を作っている縄の下をくぐらせて、輪の上から通していく。最後に、縄の両方を引くと、もやい結びが完成した。ネットで調べてみたら、大きな力にも耐えるとのことだった。


 僕は出来上がった縄の輪を首に通す。縄の硬い感触が伝わってくる。両目をゆっくりと閉じて、そのまま両足を地面から離そうとした時だった。

 

「ちょっと、そこのお兄さん」


 僕はカッと両目を開いて、目の前に立つ人物を凝視する。そこには、青い法被を見に包み、白い狐の仮面をつけた男が懐中電灯を持って立っていた。


-いつの間に。さっきまで、誰もいなかったはずなのに。


「死のうとしてるんですか」


 男の問いかけに、どう答えればいいのか分からなかった。このまま何も言わずに去って行ったら、警察に通報されるのではないか。それだと、後々面倒なことになってしまう。


「いや、その…」


「せっかくですから、遊んでいきませんか」


「はっ?」


 予想外の言葉に、僕は面を食らった。てっきり、止めるように説得されるのかと思っていた。男は、僕の表情なんか気にする様子も見せず、後ろを指さした。男が差し示した方向を見ると、一つの黄色い明かりが見えた。


「あそこに、屋台がありますから」


 男はそのまま、明かりの方へ向かって行った。呆気に取られながらも、僕は首にかけた縄を外していた。一度止められてしまうと、もう一度実行しようという気にならなかったからだ。僕は黙って男の後を付いて行った。




「ささ、どうぞ。座ってください」


 男が店の入り口に置かれたパイプ椅子に座るように促してくる。そう勧められたものの、僕はためらっていた。


 店の入り口には、白い看板がかかっており、黒い大きな文字で「オマツリ」と書かれている。しかし、どこにもお祭りらしきものなんてない。射的のように、商品を置くための棚も、小さな銃が置いてあるわけでもない。金魚すくいのように、金魚がいっぱい入ったビニールプールとポイがあるわけでもない。店の中には、木製の長机とパイプ椅子があるだけで、ぱっと見では何の屋台なのかも分からない。


 それに、夜10時を過ぎた時間に誰もいない公園で一人で屋台を開いているなんておかしい。


「実は、あなたにとっておきの遊びがあるんです」


 訝しんでいる僕をよそに、男は話を始めた。男は長机の向かいに移動し、しゃがみ込んで何かを探り始めた。


-僕にとっておきの遊び?一体、何を。


 額からにじみ出る汗を、服の長袖で拭う。自殺しようとしていた人間を宥めることもなく、一体何をさせたいのかと疑問を抱いていると、男がゆっくりと立ち上がった。


「これですよ。懐かしいでしょう」


 男の右手には、切手より少し大きいサイズのピンク色の板が一枚乗っている。一目見て、それが何なのか分かった。


「型抜き、ですか?」


「そうです。懐かしいでしょう」


「でも、


「そうなんです。この型抜きは、特殊でしてね」


「特殊?」


「実際に持ってみてください」


 言っていることが理解できないままだが、僕は渋々従う。


「死んでしまった人に会えたら、嬉しいですよね」


「はっ?」


「あなたがもう一度会いたいと思う人物を強く思い浮かべてください」


「どういうことですか」


「まあ、とりあえず思い浮かべてください」


 僕の質問に答えるもなく、続きを促してくる。さっきから、全く理解ができない。少しくらい説明があってもいいだろうにと心の中で文句を言う。


 型抜きを手に持ってから、頭の中である人物の名前を思い浮かべる。その人物の名前と同時に、髪型や体型といった特徴が自然と浮かび上がってくる。その時だった。手に持っていた型抜きに一つの切り込みが浮かび上がってきた。その一つが、線となって直線や曲線を描いていき、やがてある形を成した。


「これは…」


 驚きのあまり、僕は唖然としていた。何もしていないのに、勝手に形が浮かび上がってくるなんて。


 表面に描かれていたのは、女だった。肩まで伸びた長髪といい、リボンが結んでいある服に加え、スカートといった外見から、女だと分かるように細かく掘られている。それだけではなかった。


「この大きな目も筋の通った鼻も、彼女にそっくりだ」


 目と鼻、口と顔のパーツにまで細部に掘られており、それが僕の大切な女性だとすぐに分かる。口元のホクロなんかもそうだ。


「これを見事に切り抜けば、また会えますよ」


「そんなことが…」


 にわかには信じられなかった。勝手に掘り込みが出来上がっていったものもそうだが、本当に自分が望んでいた人物が形となって現れるなんて。


「どうです?やってみませんか」


 男の言葉に、心が揺れる。


-本当に彼女が出てきたら、またやり直せる。あの時のことだって…。


 成功した時の想像が膨らみ、生きることへの希望が見えてくる。


「あの、お代は」


「お代は結構です」


「それはさすがに」


 僕は慌てて、ポケットから財布を取り出す。財布を出して、払う意志を見せたつもりだったが、男は首を横に振った。


「その代わり、


「代償?」


 普段聞き慣れない言葉に、僕は少し恐怖を抱く。


「あなたの大切なモノが失われます」


「大切なモノ?それは、一体」


「さぁ?それは私にも分かりません」


 男の回答に、不安が押し寄せてくる。「代償」、それが一体何なのか分からないとなれば、より恐ろしく感じる。それは、「身体の一部」なのか、「命」なのかと何から何まで候補が上がっていく。しかし、僕はここで今の自分の状態を思い返す。

 

-そうだ。僕にはもう、失って怖いモノなんてないんだ。


 そう考え直した途端、気持ちが軽くなったような気がした。重く考えなくてもいい。だって、すでに失ってしまったから、ここで死のうとしていたんだ。それに、


「やらせてください」


「ありがとうございます。では、これをどうぞ」


 男は押しピンを差し出した。僕はそれを受け取り、机に置かれた型抜きを見つめる。


「無事に成功しますように」


 それが開始の合図かのように、男は両手を打ち鳴らした。僕は、右手に押しピンを持って、型抜きに視線を固定する。


-また、会える。そうすれば、きっと…。


 愛おしい彼女の笑顔が頭に浮かび上がる。僕に笑顔で接してくれる彼女を思い出すだけでも、幸せな気分になれる。そんな彼女をもう一度見ることができる、そんな期待を胸に、僕は女の左足から左肩までを削っていくことにした。




 ガリッ、ガリッ。押しピンで型抜きを削る音だけが僕の耳に入っている。


 削り始めてから、どのくらい経っただろうか。ある程度削れたところで、僕は押しピンを置いた。深く息を吐きだすと、彼女の左半身付近に積もっていた粉が吹き飛んでいった。


 小学生以来にやった型抜きが、こんなに疲れるものだとは思ってもみなかった。どのくらいの加減でやればいいのかはやってみないと分からないし、ちょっとでも気が抜けて力が加われば、簡単に割れてしまう。それに、難しい部類である「傘」よりも複雑な形をしている「人」を切り抜くなんて、久しぶりにやる者が挑むレベルではないと、ここになってようやく気づいた。


 押しピンを机に置き、型抜きを手に持つ。深くまで削った左半身から、余白部分をゆっくりと引き剥がそうとする。この作業に移って、僕はさっきの作業よりも緊張していた。どのくらいの力で切り離せばいいのか、引っ張る方向はこっちでいいのか、最善な方法が分からないからだ。それに、ここで失敗すれば、今までの苦労が台無しになってしまう。


「ふぅ…」


 深く息を吐きだし、心を落ち着ける。僕は彼女の左半身についている余白部分を親指と人差し指でつまんだ。指先の力に加減をつけながら、下にゆっくり曲げる。


 本当にこのくらいの力でいいのか、この方向でいいのか。そう思いながらも、僕は作業を続ける。


 パキッ。


 余白部分が上手く剝がれ、彼女の左半身の切り取りに成功した。僕は安堵のため息を吐いた。


「お客様、上手ですね」


「ありがとうございます」


 男に褒められて嬉しかった。次は右半身、と押しピンの先を溝に当てようとした時だった。


「ところで、この女性とはどういった関係で」


 突然の質問に、僕は動きを止めた。頭に答えが浮かんでいるものの、口に出すのが恥ずかしかった。


「す、好きだったんです」


 最初の言葉が、思わずつっかえてしまう。


「そうなんですか」


「ある日からずっと、彼女のことが頭から離れなくて」


「いいですね。これを見る限り、相当な美人さんだったんでしょうね」


 男は、彼女が描かれた型抜きに視線を向けている。他人に自分の好きな女性のことを褒められると、なんだか嬉しくなる。今は、こんなことしている場合じゃないのに思いながらも、僕は男と話を続ける。繊細な作業で少し疲れていたから、ちょうどいいタイミングだ。


「僕、中学校の先生をしているんです。あっち方面の中学校なんですけど」


 僕は後ろを向き、林立している樹の方を指を差した。男は、僕が指の先で示した先をじっと見つめると、何を示しているのかが分かったかのように短い声を発した。


「ああ、二中ですか?」


「そうです。彼女とも、そこで会いまして」


「そうだったんですか」


「僕、嫌がらせを受けてたんです。このふっくらした体型と眼鏡をかけてるから、『陰キャ先生』なんて生徒から呼ばれてまして」


 僕は少し突き出している自分の腹に手を当てながら、自虐の笑みを浮かべる。


「子供は悪意があるとも知らずに、ひどいあだ名をつけますからね」


「それに気が弱いから、怒るに怒れないっていうのもありますし。強気に出られないもんで、昔っから」


「何をされたんですか」


 この男の質問には、答えづらかった。思い出すだけでも、精神に負担がかかるから。しかし、さっきから自分の辛い状況を他人に話すことで気持ちが少し軽くなっていく気がするのは、どうしてだろうか。


「授業中に大声で話す、消しゴムのカスを投げる。一番ひどかったのは、廊下を歩いていた時に、後ろから思いっきりお尻を蹴られたことです」


「野蛮ですね、最近の中学生は」


 男が呆れたように、ため息を吐いた。


「そんな時、彼女が助けてくれたんです。「授業に出る気がないなら、出て行って。みんなの迷惑なのよ」って、その時はみんな目を見開いていましたね」


「たくましいですね」


「はい。その時の彼女のたくましさと、美しさに…。彼女は校内でも成績優秀で、可愛い女生徒だって評判でしたからね」


「…あなたは、自分の生徒に惚れたんですね」


 男の一言に、僕は少しイラつきを覚えた。


「いけないことですか。教師が生徒を好きになるのは」


「いえ。そういうわけでは」


 男は慌てるでもなく、冷静に答えた。僕は腕組をし、お互いの腕を掴む。


「まぁ、世間からはタブー視されてますけどね。でもね、実際にそういうことになったら、そんなのはどうでもよく感じるんです。だって、彼女のことが好きなんだから。通りかかったら、笑顔で挨拶してくれるし、廊下で僕に積極的に話しかけてくれたし。絶対に、僕に好意があったんだ。僕たちは両思いだったんだ!なのに…」


 握る力が強まっていく。ここで、僕は我に返った。他人の言葉に触発され、勝手に熱くなっている自分が恥ずかしく思えてくる。


「すみません。勝手に熱くなってしまって」


「いいんですよ。私こそ、失礼しました」


 そう言うと、男は頭を下げた。僕も男に倣って、頭を下げた。男は頭を上げると、机の上に置かれた型抜きに視線を向けた。


「でも、この型抜きに出てきたってことは」


 男が言った言葉に、僕はゆっくりと頷いた。


「3日前に死んでしまいました」


「3日前、ですか」


 その言葉を最後に、男は何も発しなくなった。さっきまでの居心地の悪さに拍車がかかり、僕は何を言えばいいのか分からなくなった。


「じゃあ、続きをやりますね」


 何も解決策が浮かばず、僕は押しピンを持った。作業に取り組めば、この居心地の悪い空気から逃れるように。




 ガリッ、ガリッ。彼女の右半身の溝を丁寧に削っていく。やはり、この作業は疲れる。力の加減に気を付け、力がこもりすぎないように常に集中力を持続させなくてはいけない。そんな作業も、もうすぐで終わる。


 ある程度まで深く削り終わったところで、僕は切り離す工程に移る。深呼吸をし、正常よりも速く鼓動を打っている心臓を落ち着けようとする。この工程は、削る作業よりも緊張する。しかし、一回目に比べれば緊張の度合いは小さくなっていた。どのくらいの力加減で引っ張ればいいのか、コツをつかんだ気がしたからだ。


 人差し指と親指で彼女の右半身の周りについた余白部分をつまむ。そして、下の方にゆっくりと引っ張っていく。


 パキッ。


 柔らかい板の割れる音が、僕たちがいる店の中に響き渡った。


「すごいですね。ここまで、成功させるとは。お見事です」


 男は感激したように、手を叩いている。


「…ありがとうございます」


 僕は適当に返事をした。さっきまでの居心地の悪さのことを思い返すと、接するのが気まずかったからだ。


 左手に付けた腕時計を見ると、午後22時30分を過ぎていた。この型抜きをしてから、すでに30分は経っていた。1時間は過ぎていると思っていたが、そうでもなかったようだ。


「野暮なことを聞くようで、申し訳ないんですが。彼女はどうして、亡くなったんですか」


 男の質問に対し、僕はどう答えようか迷い始める。僕は、


「部活の後に、事故にあったんです」


「事故ですか。ここ最近、そんな事故あったかな…」


-これ以上、詮索しないでくれ。


 僕は心の中で、必死に懇願する。とっさに思いついた嘘で信じてもらえるようにと。


「それは気の毒ですね。まだお若いのに…」


-よし。


「ところで、先生。今日、スポーツされてたんですか」


「えっ?」


 ほっと安堵の息を吐こうとした時に、また別の質問がやってきた。男が右手の人差し指で僕の服を差しているのに気づいて、慌てて答えようとする。


「ああ、軟式テニス部の顧問をやっているもんですから」


 水色のスポーツウェアに視線を固定しながら、僕は苦笑いを浮かべた。


「テニスですか。テニスってずっと外で走ったりするわけじゃないですか。7


 この言葉を聞いて僕は上着の袖に目を向けた。とにかく嘘の理由を述べないと、僕は必死に考え続ける。


「ネ、ネコに引っかかれてしまいまして。家に一匹いるんですけど、なかなかに凶暴でして。傷跡見せたら生徒たちに心配されちゃうし、ね」


「…なるほど」


 男は納得したような返事をした。しかし、声音から完全に納得しているようには聞こえなかった。白いお面の内側では、どんな表情を浮かべているのだろうか。


-さっきから、なんのつもりなんだ。


 男の数々の質問に、どんな意図があるのか分からず、僕は不安になる。もしかして感づかれている?そんな不安があったもののすぐに一蹴した。ぼろが出るようなことは何も言ってないはずだから。


 これ以上詮索されるのも困る。僕は押しピンを手に持って男に告げる。


「最後の仕上げに移りますね」


「はい。ちなみに、最後の一部分で失敗される方が多いので、気を付けてくださいね」


 僕は頷き、押しピンを彼女の頭部周辺の溝に当てる。




 ガリッ、ガリッ。彼女の頭部辺りの溝を深く削っていく。あともう少しで、彼女にもう一度会える、この期待が気持ちを前進させていた。


「そろそろ終わりそうですね」


 作業中に男が話しかけてきた。


「そうですね」


 僕は男に視線を向けることなく、返事をした。これ以上、この男と話していると嫌な気しかしないのだ。


 十分な深さまで削ったところで、僕は最後の作業に移ろうと、押しピンを机に置いた。


「ところで、面白い話があるんですけど」


 まるでタイミングを見計らったのように、男が再び声をかけてくる。


「私、刑事ドラマとか好きでね。そのおかげで、犯罪関連に興味があるんですよ」


「…」


-悪趣味だな。


 僕は無視を決め込んだ。作業に集中していて、聞こえていませんとアピールするように、型抜きの余白部分をつまむ。


「で、殺人事件の犯人って、現場に戻ってくる人が大半らしいんですよ」


「えっ」


 型抜きをつまんでいる指に、思わず力がこもる。しまった、と思ったものの割れずにすんだ。


「どうしたんですか、そんなに驚かれて」


 僕は目を見開いたまま、男に視線を向ける。


「急にそんな話されたら、びっくりするでしょう」


「これは失礼しました。でも、すごい反応でしたね。


「は?」


「で、続きなんですけど」


 この男は、僕が密かに怒りを抱いているのに気づいていないのだろうか。男は僕に気遣う様子もなく、話を進めていく。


「埋めた死体が誰かに掘り起こされてたら、どうしよう。そんな恐怖から、確かめられずにはいられなくなるんですって」


「…」


「報道番組でもたまにあるじゃないですか。殺人現場近くで何人かに取材をしてみたら、その中に犯人がいたっていう」


 訥々と語られる男の話に、僕は焦りを抱き始めていた。


「まぁ、バレたら捕まりますし。あっ、話が変わるんですけど、ここ最近、この公園でうろちょろしている男がいるって話聞いたんですよ。3日前から…、だったかな」


「…!」


 男の言葉一つ一つが、心臓をぎゅっと締め付けていく。


「その人の特徴が、小太りで丸縁の眼鏡をかけた20代くらいの男だそうでして」


「…」


「おや、奇遇だなぁ。あなたに似ているような…」


「…違います」


 か細い声で、僕は男の言葉を否定した。


「もしかして、あなたですか?」


「違う!」

 

 僕は勢いよく立ち上がり、男をにらみつけた。しかし、僕はひるんでしまった。仮面の内側から覗く視線が、恐ろしく見えたからだ。


「まぁまぁ、なんとなくそう言っただけですよ。


「だ、だって!急にそんなこと言われたら、誰だって…」


「笑い飛ばす人が大半だと思うんですがね」


 男が小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。さっきから、息が荒くなってきている。落ち着け、落ち着けと、頭の中で何度も唱え続ける。


「もう止めましょうよ、そんな話」


「私、考えてみたんです。どうして、あなたがここにいたのかって」


 男は僕の忠告を無視し、話を続ける。


「まず、あなたと彼女は軟式テニスだったんですよね。それで、あなたは彼女が死んだのが3日前だと言った。3日前にあなたと彼女に何かがあった。そして、最終的に彼女を殺してしまったとか?」


「違う!」


「まぁ、何が原因かは知りませんが。この公園は、ご覧の通り、草木が生い茂ってます。あそこに何本か生えている大きな木の下にもです。なのに、さっきあなたがいた木の下は、どういうわけか草が生えていなかった。どうしてですかね」


「違う…、僕じゃない」


。そう考えられるんですよね」


「僕はたまたま、あの木の下で死のうと…」


「そうですか。そうだ、袖めくってもらえませんか?」


「はっ?」


。それに、服とかに猫の毛が付いていないから。ダメですか?」 


 僕は観念したかのように両手を机について、項垂れた。


-違う。あの子が、あんなことを言わなければ…。


 僕に向けた彼女の表情が思い浮かぶ。まるで怪物を見ているかのように、おびえていた目。それと同時に、3日前の出来事が頭の中で再生され始める。


* * *


 7月25日の午後14時半。生徒たちはすでに夏休みに入り、校舎はいつもより静かだった。しかし、校舎前にあるテニスコートでは、ラケットがボールを打つ音と部員たちの掛け声が飛び交っている。


 太陽が照りつけ、熱い気候の中で十数人の生徒が練習に励んでいる。足下のかごからボールを取って、向かいのコートに打ち込む一人の生徒。そのボールを打ち返そうとする一人の生徒と、後ろで順番を待っている何人かの生徒に加え、打ち返されたボールを拾い、ラケットのガットに乗せていく生徒達がいる。


 みんなが練習に励んでいる中、僕は一人の女生徒を見つめていた。


伊藤いとうさん。今日も可愛いなぁ。


 長髪を後ろに結んだポニーテールの彼女は、飛んできたボールを打ち返している。ラケットを振った時に揺れる髪が、さらに魅力的に見える。




 僕が彼女に恋したのは、2カ月前の5月だった。赴任してから、まだ1カ月ということに加え、新人だったこともあって生徒たちになめられていた。


 授業中に大声で話す、生徒たちに背を向けると消しゴムのカスを投げられると思い出すだけでも嫌な気分になる。一番最悪だったのは、廊下を歩いていると、後ろから急に尻を蹴られたことだった。


 これらの仕打ちを受けて、僕は自分の人生が嫌になった。中学校、高校の時からほとんど変わっていない。ただ、昔と違うのは生徒ではなく、自分が教師であるということ。教師であるにもかかわらず、生徒の時と同じ扱いを受けるなんて、なんて無様なんだ。


 この件を学年主任に相談したが、「今の生徒なりの馴染み方ってやつですよ」と僕の顔を見ずにそう言っただけだった。ここの教師はみな、指導を暴力として見られ、学校から追い出されることに怯えているのだ。だから、生徒の厄介ごとには無関心を貫いている。僕はもう学校の職員には相談しないと、このことで決心した。


 そう決心したものの、僕の学校生活が変わるわけではない。憂鬱な気分で学校に向かうも、ある日をきっかけに一変することになる。


 5月の中旬。いつものように教壇に立っていると、後ろから3人の男子生徒の大きな声が飛び交う。その行動にもう我慢できず、怒鳴りつけようと思った時だった。一人の女子が突然立ち上がった。


「授業に出る気がないなら、出て行って。みんなの迷惑なのよ」


伊藤いとうさん…」


 彼女は、きょとんとした顔でいる3人の男子を睨みつけている。他の男子たちも同じような表情だった。しかし、女子たちは違っていた。他の女子たちもみな、我慢の限界を迎えていたようだった。伊藤いとうさんと同じ表情を浮かべている。


 教室内が静寂に包まれ、緊張感が走る。それからしばらくして、3人の男子は、バツが悪そうに教室を出て行った。出て行ったのを見て、女子たちが安堵したように表情を崩した。伊藤いとうさんは、僕の方を振り返って言った。


「先生、続きをお願いします」


「あ、ああ」


 僕は慌てて、返事を返す。彼女は、僕に笑顔を向けた。その瞬間、彼女に猛烈な好意を抱き始めていた。


-なんて、可愛いんだ。


 校内でも可愛いと評判の子が、僕を助けてくれるなんて。まして、僕に笑顔を向けてくれている。しかし、どうして僕を助けてくれたのだろうか。そんな疑問が生じたものの、すぐに僕なりの答えが浮かび上がった。


-そうだ。




 その一件以降、授業が終わった後、廊下ですれ違う度に、彼女は僕の目を見て挨拶を返してくれる。さらに、突然後ろから声をかけられ、授業で分からないところがあるから教えてほしいと相談してくれるようにまでなった。


 それから1カ月と過ごしていく中で、僕は学校に行くのが楽しくなった。以前に比べて、男子生徒の嫌がらせも頻度が減り、廊下ですれ違う時くらいにしかちょっかいを出さなくなった。ちょっかいを出してくるのは、嫌だけど、暴力を振るわれなくなっただけマシになった。それに、こんな幸せな気持ちでいると、どうでもよくさえ思えてくるのだ。




 彼女のことが気になってから、2カ月。今日、7月25日は彼女の誕生日なのだ。生徒名簿を見て、それが分かった時から決めていたことがある。彼女に告白すると。


 時刻は午後15時。僕が集まるようにと、大きな掛け声を上げると、部員全員が集まってきた。3時間に及ぶ練習が終わり、生徒たちの表情には疲れの色が見える。


「今日はお疲れさまでした。明日も練習がありますので、帰ったらしっかり休んでください。では、気を付けて帰るように」


「ありがとうございました」


 部員たちがお辞儀をすると、僕もそれに応じる。そして、皆がその場から離れていき、校舎の方へ向かっていく。皆と同じように離れていく伊藤いとうさんを見つけ、僕は後を追う。


伊藤いとうさん。ごめん、この後、ちょっといいかな」


「はい、何でしょうか」


「後で、2年4組まで来てもらえるかな。ちょっと手伝ってほしいことがあって」


「分かりました」


「自分の担当しているクラスの子の方が、お願いしやすくて。ごめんね」


「全然大丈夫ですよ」


 笑いながらそう言うと、彼女は承諾してくれた。彼女は踵を返し、校舎の方へ向かった。


-よし、上手くいった。


 最初は不安があったものの、上手くいったことに安堵した。僕はそのまま職員室へと向かった。




 僕は2階にある2年4組の教室に向かっていた。その教室の中に、伊藤いとうさんが待っていた。


「あっ、先生。何を手伝えばいいですか」


「ああ、それなんだけど。ごめん、先生嘘ついた」


「えっ?どういうことですか」

 

 彼女は目をぱちくりさせている。いつもより早く鼓動している心臓を落ち着けるように、僕は深呼吸をした。彼女と二人きりになれたこの状況、僕は勇気を出して実行に移す。早く、この気持ちを伝えたい。

 

「君のことが好きです。2ヶ月前、僕を助けてくれたあの日からずっと。だから、付き合ってください」


 緊張で身体が震えながら、僕はズボンのポケットから小包を取り出す。小包の中には、ブレスレットが入っている。そして、それを彼女に捧げるように、手のひらに載せる。


「それと、誕生日おめでとう」


 言いきったことに僕は安堵する。告白というのは、こんなにも緊張するものなのかと初めて実感した。僕は彼女の顔に視線を向ける。きっと、嬉しそうな表情を浮かべているに違いない。しかし、それは違っていた。


「ごめんなさい。私、先生とそんな関係になるつもりは」


「えっ」


 彼女は、バケモノを見てしまったかのような表情で僕を見ている。僕から逃げるように、彼女は一歩ずつ後ろに下がっていく。近くにあった机にぶつかると、とても驚いたように机に一瞬目を向けた後、再び僕に目を向けた。


「ど、どうして?だって、君も僕のこと」


「私はそんな気持ちじゃありません。私にとっては、あなたはただの先生です。恋愛対象にはなりません」


 彼女は唇を震わせながら、理由を言った。その言葉を聞いて、僕の頭の中は悲しい気持ちで埋め尽くされていく。


-どうして?僕も、君もお互いのことが好きだったはずなのに。


「ずっと、ずっと好きなんだったんだ!あの時、僕を助けてくれた時から」


 感情的になり、僕は彼女の手首をつかんだ。


「やめて!離して!」


 必死に抵抗する彼女を見て、頭の中で何かが切れる音がした。


-どうして?どうして、こんなに嫌がるの。僕がチビで、デブだから?眼鏡をかけて、オタクっぽいから?でも、僕にだけ笑顔を向けてくれたじゃないか。僕の授業を熱心に聞いてくれたじゃないか。助けてくれたのだって、僕のことが好きだからだろ?


 次から次へと答えようのない疑問が湧き出てくる。そんな混沌とした頭の中で、僕はいつの間にか彼女の首を掴んでいた。彼女の身体が机と共に少し後ろに下がる。


「ふざけるな。何が気に食わないんだよ」


 首を絞める力を徐々に強めていく。首を絞められ、彼女は目を大きく見開きながら、僕の手を引きはがそうとする。机の上で、「ガッ、ガッ」っと言葉になっていない、情けない声を何度も発しながら、必死に抵抗し続ける。彼女の両手の爪が僕の両腕に食いこんで、ゆっくりと下に引き裂いていく。両腕に痛みが走る中でも、僕は力を緩めることはなかった。時間が経つにつれ、彼女の抵抗が弱まっていき、爪の食い込みが浅くなっていく。そして、抵抗がなくなったところで僕は我に返った。


「…伊藤いとうさん?」


 彼女に問いかけるも、返事が返ってこない。


「起きてよ、ねぇ」


 彼女は口から泡を吹き、恐ろしいほどに両目を見開いたままでいる。その両目からは、一筋の涙が流れ出ている。そんな彼女を見て、恐怖が襲いかかってきた。


伊藤いとうさん…。ああ、うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 僕はなんて事をしてしまったんだ。目から涙があふれ出てくる。自分のしてしまったことを後悔しながら、彼女を抱きしめる。「ごめんなさい」と何度も謝りながら。




 しばらくしてから、僕は彼女を抱え込んで、校舎裏の駐車場へと向かっていた。幸いなことに、ここに来るまで誰にも見つからなかった。夏休みの間は、部活の顧問と警備員くらいしか学校に来ない。今日に限っては、テニス部と吹奏楽部だけだった。校舎から、トランペットやら木琴と様々な楽器の音が聞こえてくる。


 僕は車の後部ドアを開け、ぐったりとした彼女を後部座席に乗せる。荒い息を吐きながら、ゆっくりとドアを閉める。僕は運転席に乗り、後ろを振り返る。


「どうして、どうしてこうなった…」


 後悔の気持ちがまた大きくなって出てくる。告白を断られたくらいで、こんな凶行に走ってしまうなんてと自分を責める。しかし、その一方で告白を断って、僕を怒らせた彼女にも原因があるのではという気持ちも生じて、頭が混乱している。僕は彼女に引っかかれ、血を流している両腕の傷を見ながら、恐怖に震える。


 そんなことよりも考えなければならないことがある。彼女をどう処理するかを。僕はハンドルに顔を埋め、考え続ける。


 そんな時、僕の頭の中にある場所が浮かんだ。この学校の近くにある公園。そうだ、そこがいい。そこは大きいし、彼女を隠すにはいい場所だろう。しかし、実行するにはまだ早すぎる。誰もいない時間帯、夜の10時を過ぎた辺りにしよう。


 僕は後ろを振り返って、彼女を見る。女性らしい細長い足から、発達している胸へ視線を向けていく中、僕はなんだか性的興奮を覚えていた。


-夜十時までは、僕の家に。どうせなら、この際…。


* * *


 3日前の出来事の再生が終わり、僕は目の前に立つ男の顔を見つめる。頭の中に次々と言い訳が浮かび、僕はそれらを全部ぶちまける。


「違う!殺す気なんてなかったんだ。ただ、僕の愛が、どうして彼女に伝わらなかったのか、理解ができなくって。彼女に分かってもらおうと、教えようとして、それで…」


「人を殺したことに変わりはありませんよ。いくら言い訳をしても」


 男の冷たい一言が、突き刺さった。僕は弁明を止め、その場で膝をついて項垂れる。そうだ、いくら何を言っても過去が変わることはない。


「罪悪感に苛まれて、死のうとしたんですね。彼女が眠る、あの木で」


 男が左方向を指さす。その方向にある木を見て、僕はゆっくりと頷いた。枝に首つり用の縄が引っかかったままの、あの木を。僕はその木を見つめたまま、つぶやいた。


「警察に通報しますか?」


「いえ、私はあなたを警察に突き出そうとは思いません」


「えっ?」


 予想外の返事に、僕はゆっくりと男の方へ視線を変える。


「ただあなたが、


「…どういうことですか」


「成功させれば、あなたの望む未来がある。でも、失敗すればそれは叶わない。そのどちらかに興味があるだけです」


「…」


 成功すれば、望む未来が手に入る。僕が望んでいる未来とは、3日前のことを謝って、彼女と再び学校生活を過ごすことだ。しかし、あんなことをしてしまっては、もう取り返しがつかないのではないか。許してくれるだろうかという不安もある。

 

 それでも、僕はその未来にすがるしかなかった。この遊びをやらなければ、僕はもう人生の終わりの一歩前から引き下がることはできないのだから。成功して、僕の凶行を無かったことにする。そして、彼女ともう一度やり直すんだ。

 

「…続きを、最後の仕上げに入ります」


「どうぞ」


 僕は立ち上がって、長机の上にある型抜きを手に取る。彼女の頭部付近の溝は十分な深さまでにまで削ってある。彼女の頭部付近の余白部分を掴み、引きはがそうと力を込める。しかし、掴んだ手が震え始め、なかなか実行に移せない。


 ただ切り離せばいいだけなのに、最後の仕上げに移ってから、緊張の度合いがこれまでとは大きく違っていることに気づかされる。それでも、僕はやるしかない。


 パキッ。


「あっ」


 小気味いい音と共に、頭部の一部分が、余白部分と混じって切り離されてしまった。左手に持った、頭部の一部が欠損している彼女をただ見つめる。手の震えが止まらず、両手から型抜きが地面に落ちていく。「カツン」という普段なら落としたことに気づかないであろうこの小さい音が、やけに大きく聞こえた。


「あの…、もう一回…」


 僕は唇を震わせながら、男に懇願する。


「残念でした」


 男が冷たく、そう言い放った。僕は、その場に膝をついて土下座の姿勢を取った。


「お願いします!もう一度、僕にチャンスを…」


 僕はゆっくりと顔を上げる。しかし、そこには何もなかった。それと同時に、僕は不思議な気持ちに陥った。


「あれ?」


 僕はきょろきょろと周囲を見渡す。



 この風景が、どこのものなのかは知っている。僕が勤務している中学校の近くにある公園。しかし、どうして夜23時にこんなところにいるのかが不思議なのだ。


「疲れてんのかな。さすがに休まないと」


 ここ最近、夏休みの補習やら部活とやらで、いつの間にか疲れがたまっていたのだろう。ここに来たことも思い出せないなんて、明らかに異常だ。僕は、ゆっくりと立ち上がった。その時、足元に何かが落ちているのに気づいた。二つに割れたピンク色の板を手に持って、じっと見つめる。


「なんだろう、これ」





 7月30日。自宅で補習の資料作りなどといった作業をしている時だった。


 ピンポーン。


 室内にインターホンが鳴り響き、僕はキーボードを打つ手を止めた。


「宅配かな」


 リビングの壁に掛かった時計へ目を向けると、午前9時5分と2つの針が指している。


-母さんがまた何か送ってきたのかな。

 

 母は定期的に物を送ってくれる。カレーのレトルトや缶詰といった長持ちする食料品に加え、お米だったりと生活で助かるものを月に1回送ってくる。しかし、いつもは事前にLINEで知らせてくるはずなのに、今月に限ってはどうしたものか。


 ゆっくりと立ち上がって、玄関の方へ向かう。チェーンを外し、ロックを解除する。扉を開き、外に立っていた人物たちを見て、僕は一瞬固まってしまった。


-誰?


佐藤和幸さとう かずゆきさんですね?」


「え?ああ、はい。そうですが、何か」


 こちらが驚いているのを気にせず、3人の中の一人が僕の名前を呼んだ。角刈りで、黒いスーツを着込んだ体格の良い男が3人も並んでいたら、驚いてしまう。こんな近寄りがたい雰囲気をまとった人たちが、僕に一体何の用だろうか。

 

「千葉警察の加藤かとうと言います」


 先ほど僕の名前を呼んだ、右頬に大きな傷がある男が胸ポケットから黒い手帳を取り出した。手帳が開くと、目の前に立っている人物の写真が目に映った。


「け、警察!?」


 僕は思わず、大きな声を上げてしまった。ヤクザの人かと思っていたのに、まさか警察だとは思いもしなかった。


「い、一体、何の御用でしょうか」


 心臓の鼓動が速まっていく。悪いことなんか何もしていないのに、どうしてこんなにも緊張するのだろうか。


「あなたの学校の女子生徒が1人、行方不明になったの知ってるでしょ?それが昨日、遺体で発見されたんです」


「へえ、そんなことが」


 知らなかった。僕の学校で行方不明になった生徒がいたなんて、なんだか悲しい気持ちになる。


「それで、あなたを逮捕しに来ました」


「は?」


 間抜けな声が漏れ出る。刑事の言っていることが理解できず呆然としていると、急に腕を掴まれた。その瞬間に我に返り、僕は抵抗を始めた。


「止めてください!何するんですか」


 掴まれた腕を必死に振りほどこうとするも、まったく離れない。


「おい」


 加藤かとうが後ろの二人に合図を出す。合図とともに、二人の刑事が僕の両腕を取り押さえた。僕が必死に制止を呼び掛けるも、加藤かとうは全く応じない様子だった。あろうことか、手錠を取り出して、僕の腕にカチャっと嵌めた。その瞬間に、一気に恐怖が押し寄せてきた。


「僕は何もしていない!誤認逮捕だ!」


「てめぇ、何しらばっくれてんだ。自分の生徒に手かけたくせに」


「生徒?」


 さっきまで丁寧だった言葉遣いが急に乱暴になる。加藤かとうの目には、怒りが宿っているように見えた。


伊藤早苗いとう さなえ。あんたの担当してたクラスの女の子だよ」


「イ…トウ、サナ‥エ?


 全く聞き覚えがない。すると、加藤かとうが大きなため息を吐いた。


「もういい。署でじっくり聞くからよ。行くぞ」


「待ってください!い、嫌だぁ!誰か、助けてください!」


 恐怖で、両目から涙が出てくる。必死に抵抗するも、がっちりと拘束され、僕はただ連れて行かれるだけだった。


* * *


『こちらが遺体が発見された公園です。ここは、伊藤早苗いとう さなえさんが通っていた千葉県〇〇市立第二中学校の裏手にあります。この公園で、先日から行方が分からなくなっていた伊藤早苗いとう さなえさんが、一昨日遺体で発見されました。全裸の状態で木の下に埋められており、首に何者かに絞められた跡があったとのことです。そして、遺体には容疑者の指紋と体液が付着しており、性行為に及んだものと見られます。DNA検査の結果、同じ中学校で教師である佐藤和幸さとう かずゆき容疑者のものと分かり、逮捕に至りました。死因は、首を強く絞められたことによる窒息死だと警察は発表しています。そんな佐藤さとう容疑者は「全く身に覚えがない」、「そんな生徒知らない」などと犯行を否認しています。そして、今朝、《さとう》容疑者は留置所にて首吊りを図りました。現在、病院に搬送されたとのことですが、意識不明の重体です。遺体が発見されたのは公園ですが、どこで殺害したのか、動機は何なのかと不明な点が多い中、この事件の捜査はどうなっていくのかが懸念されます』

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カタヌキ マツシタ コウキ @sarubobo6

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