『なるべく早く、帰ってきて』

CHOPI

『なるべく早く、帰ってきて』

 遠くでカミナリの音がする。これは一雨来そうだな、と思ってベランダになびいている洗濯物を慌てて取り込んだ。成人した二人分の洗濯物の量はそこそこあって、それでも何とか雨が降り出す前に取り込み終えたことに安堵する。するとテーブルの上、置いたスマホが震えてメッセージが入ったことを知らせる。

『大丈夫?』

 彼氏からの短いメッセージ。それがちょっとだけ……、いや、ウソ。かなり嬉しくて、だけどあなたにだから言える、メッセージを返す。

『大丈夫、じゃない、から』

『なるべく早く、帰ってきて』


******


 窓を叩きつける音がして、視線をそちらへと向ける。


 ――あぁ、朝、天気予報で言っていた通りだ


 音の原因は、夏特有の夕立だ。思っていたよりも外が薄暗くなっていることに、この時ようやく気が付いた。机の上、雑に置いていたスマホの雨雲レーダーを起動して1時間後までの雲の流れを見れば、とりあえず1時間後には雨雲はここから消えそうだった。


 ――……タイミング悪い。もうあと少しで書き終わるっていうのに


 居残りの理由である学級日誌を少しだけ睨んだ。書き終わったところで直ぐに学校を出れないじゃないか、なんて傘を忘れた自分を棚に上げてちょっとだけ不機嫌になる。本当は二人で日直であるはずの隣の席の子は、帰りのHRが終わった直後に『明日私が日誌書くから、今日の分はお願いして良い?』と交渉してきた。


「うん、いいよ」

 ――どうせ、私が断る、なんて選択肢を持たないこと。わかっているクセに


「じゃ、よろしく!」

 そう言ってその子は走って帰っていった。明日もきっと上手いこと言われて私が日誌を書くんだろう。だってもうこのやり取り、新学期以降ずっと繰り返してきているんだから。……なんでこう、上手く生きられる人たちに使われてしまう側に生まれてきたんだろう、なんて。その子が教室を出て行ったのを確認して、一人でため息をついた。



 ……本当にたまたま、女子トイレの前を通った時。中から数人が談笑する声が聞こえて、その中の一人が私の名前を出したのが聞こえて思わず立ち止まってしまった。

『あの子、去年も同じクラスだったけど、頼んだこと、絶対断ってこないよ』

『え、じゃあ日直一緒になる私、超ラッキーじゃん?』

『エー、いいなー』

 アハハッ、聞こえてきた笑い声に咄嗟にそこから走って逃げた。


 ――悔しい。苦しい


 そう思うのに、だけど弱い私は、そういう生き方しかできないことも事実だった。生まれてから17年。笑って“いい子を演じる”ことが、私が何とか見つけた生存方法だったから。



 日誌を書き終えて一人、窓の外を眺めていた。すると遠くの方、わずかばかり光が走るのが見える。続いて聞こえた『ゴロゴロ……』と言うまだ弱い音に驚愕する。


 ――最悪だ。カミナリ、じゃん


 小さい頃の嫌な思い出が頭をよぎる。光って、音が鳴る。あまりに近くに落ちたカミナリは、地震のように建物を揺らした。恐怖心があまりにも大きくて、泣くことすらできなかったことが鮮明に思い出される。



 あの日も確か、今日と同じだった。私はまだ小学生で。だけど同じように日直で、日誌を押し付けられて。その時から“いい子を演じる”ことで生きてきた私は、あの日だって例外では無く断れなくて、だから一人教室に残って日誌を書いていた。……あの日は、その後は、どうしたんだっけ。頭が真っ白になって、何も思いだせない。



 思考は停止しているのに、感覚は嫌に過敏になっているんだろう。身体は固まっているのに、嫌な汗が額から流れる感覚だけは鮮明で。視界に入った手が少し震えていて、落ち着けと自分に言い聞かせながら自分の肩を抱いた。


 ――大丈夫。まだ、遠い


 頭ではそう理解しているのに、心が上手くついてこない。一度『怖い』と思ってしまった以上、全て恐怖心に支配されてしまう。一人教室で動けなくなっていたら、前方のドアから急に誰か入ってきた。


「うわっ! びっくりした、まだ残ってたんだ」

 その言葉に顔を上げると、私は一体どれくらい酷い顔をしていたんだろう。あまり話したこともない男子だったにもかかわらず、『え、大丈夫?』とその子から心配そうに声をかけられた。


 ――大丈夫


 そう言葉にしたいのに、喉の奥に言葉が張り付いて上手く音が紡ぎだせない。代わりに出てきたのはヒュッ、という呼吸音。同時にまた、外が一瞬光るのがわかる。過剰に光に反応してしまった私を見て、その子は察したように私の机の前へ来て、目の前にある椅子に座って話しかけてくる。


「カミナリ、ダメなの?」

 あまりに優しいその聞き方に、“いい子を演じる”ことをしない、“私”が外へと出そうになる。


 ――たすけて、こわい


 だけど今までしてきた“いい子を演じる”ことが、その子に対して『心配をかけちゃダメ』と私を制御する。なにも言葉にできず、ただその子を見返すことしかできない私に、その子は『大丈夫だから』と言う。不意に感じた頭への重みと、視界に入っているその子の腕がこちらに伸びているという事実。途端に視界がぼやけたかと思えば、一瞬にしてクリアになって。パチパチ、何度か瞬きをしたら、頬を何かが伝っていって。



 不意に思いだした、かつての光景の続き。小学生で泣くことも出来ずに固まっていた私は、日誌を持ってこないことを不審に思った担任に見つけてもらうまで、教室で一人ずっと動けずにいた。

『どうしたの?』

 担任のその声に私はようやく『あ、先生。遅くなってごめんなさい』と言う返事と共に日誌を渡して、何とか“いい子を演じる”ことが出来て、急いで帰路についたんだ。



「え、あ、え!? 大丈夫!? 泣くほどダメ!?」

 その子の言葉で自分が泣いていることを知る。今泣いているのは、誰なんだろう。……もしかしたらあの日、泣けなかった“私”が今になって、ようやくホッとしたのかもしれない、なんて。


 目の前で慌てているその子を見て、まだ怖くて仕方ないのにちょっとだけ笑えてしまって。久しぶり……、いや、もしかすると初めてかもしれない、と思った。生存方法であるはずの“いい子を演じる”ことが出来ない、そのままの“私”で。他人と話してみたいと、そう思ったのは。


******


 ……ねぇ? あの日、あの時、あの教室で。

 “いい子を演じる”ことが出来なかった、“私”を見つけてくれて、ありがとう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『なるべく早く、帰ってきて』 CHOPI @CHOPI

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説