第17話 生のヴァイオリンを弾くということ
それから数日が経った。
気まずくて奏とは喋っていない。すれ違っても俯くだけなので、こちらからも声をかけづらい状況だ。
とはいえ、ヴァイオリンの練習を欠かすわけにはいかないので、俺は練習室にこもっていつものメニューをこなすこととした。
音階練習とエチュードをそれぞれ一時間ずつやり、ヴィエニャフスキの『華麗なるポロネーズ第二番』を練習した。
計3時間はぶっ続けで練習したので、疲れてきた。コロナが若干収まって留学していた時代は、一日15時間練習を一週間継続したこともあった。さすがに無理があるので、ヴェルクマイスター先生に止められたが。
本当はもっと練習したいし、もっと演奏したいのだが、肉体がある以上、そうもいかない。
「ムーサイ上でなら、永遠に弾いてられるのかな……」
脳波をヘッドギアに集約し、VR空間での動きに変換するパルナッソス社製のヘッドギア。これによって、寝たままでも電脳空間で仮想のヴァイオリンを弾き続けることはできる。疲れることはほぼない。さすがに何日、何週間とぶっ通しで弾いたら精神は摩耗するだろうが……
でもそれじゃあなんか違うな。
生身の肉体をコントロールして、木材とニスの感触を肌で感じながらヴァイオリンを弾くのも、醍醐味の一つだろう。ムーサイで活動するようになってから、如実にそれを感じるようになった。
ヴァイオリンを弾くというと、芸術的な側面に囚われる奴が多い。いかに楽譜に忠実に弾くか、作曲家の意図をどのように解釈するか、いかに自分の個性を織り交ぜるか、などだ。
だがそれ以前に、ヴァイオリンを弾くという行為は非常に繊細な『運動』でもある。自分の身体を思い通りにコントロールすることが出来なければ、芸術性云々の話はできないのだ。
ゆえに、『芸術』と『運動』のどちらかに偏り過ぎてもいけない。そこが難しくもあり面白いところだ。
だが、ムーサイでAIアシストに頼ってヴァイオリンを弾くことは、『運動』の側面を完全に無視することでもある。そう考えると、どんどん楽で簡略化された行為になっている気がする。
皆が標準装備のヴァイオリンを使い(見た目では個性を出せるようだが)、技術面ではAIに頼って演奏をする時代の到来。まさしく、どこでもマニュアル通りに作られた同じ味のそれなりに美味いものが食える、ファストフード店のようだ。
ヴァイオリンまでファストフードと化してしまうのは、なんだか寂しい。生身で木のヴァイオリンを弾くのも、一部の物好きだけになってしまうのだろうか。
そんな余計なことを考えてしまったが、俺はすぐに集中力を取り戻し、練習を再開した。
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