第17話 臆病者の言い訳
向かい合っているリーガースは静かで、戦うために構えているとは思えないほど穏やかな空気を纏っている。
拍子抜けするぐらいの気迫の無さにイヴリールは困惑し、このまま見つめ合っていても埒が明かないと焦りすらする。
だが相手がどんな戦い方をするのかも解らず、飛び込んで行くことに対する恐さがあるので迂闊に動くことができない。
「……情けない」
とんだ臆病者だ。
勝たなければ後が無いイヴリールにとって引くことは負けを意味し、美羽を永遠に失うことになるのに。
知らなかったとはいえ他の竜族に好きな女を譲るなど考えたくも無い。
「二度と御免だ」
目の前の雄と美羽が熱い抱擁をし、口づけを交わし、柔らかな胸や細い腰をその手が這い回り寝台で抱き合うことを想像したら怒りのあまりリーガースを引き裂いて殺してしまいそうだ。
「良い目だ。ゾクゾクする」
くすりとリーガースが笑みを深くする。
それでも穏やかさは健在で、それが余裕を感じさせイヴリールを苛立ちよりも恐怖に陥れた。
どうすればいい?
隙など無い相手に対してどうやって戦えばいいのか分からない。
戦い方を知らないイヴリールは本当にリーガースを殺してしまうかもしれないし、逆に引き際をしらないので命を失う事になるかもしれない。
「なにやってんだっ」
負ければ美羽を失うのだ。
生きていても他の女を愛することもできず、他の雄の物になった美羽は子を産んで異世界帰るかもしれないのだ。
例えこちらで生きることを選んだとしてもイヴリールには手の届かない女になる。
それならば生きていても一緒だ。
自分の命の心配をしてどうする。
負けるのならばいっそ、死んだほうがましだろう。
「来ないのなら、こっちから!」
「頑張れ!イヴ兄ちゃん!」
アリウムの声援が飛ぶ。
今初めて聞いた気がするが、弟はきっと何度も声を張り上げてくれていたに違いない。少し頭が冷静になったのだと思うと自然と笑みが浮かぶ。
リーガースが眉を寄せて右足を少し下げた。
戦い方が分からないのはお互い様だ。
遠慮するな。
腹を探り合うよりも、ぶつかって知って行く方が竜族らしく、そしてなにより自分らしいじゃないか。
「行くぞっ!」
力を小出しにするという小技もできないので最初から全力で行く。
拳を握り、地を蹴って距離を縮めリーガースへと打ち込む。
待ち構えていた相手に難なく避けられ、逆に掌底を脇腹に叩き込まれると内臓がびくりと跳ねて腸がうねった。
気持ち悪さに下がりそうになった脚を鼓舞して留まり、左の肘を抉るように跳ね上げた。
顎を狙った攻撃は左手で跳ね除けられ、また右の掌底が顎を掠めて脳を揺らす。
二、三歩後ろにたたらを踏んで退り、回る視界に堪らず目を閉じる。
空気を震わせる笑い声と気配が近づいてきてアリウムが悲鳴を上げた。
慌てて目蓋を開けようとするが間に合わない。
黒い闇の匂いがすぐそこまで来ている。
「へえ」
感心するようなリーガースの吐息のような声にイヴリールは片目だけで睨みつけた。
頭がくらくらしているのは変わらないが、お陰で余計なことを考えずにいられる。
どう戦おうとか難しいことに頭を使うよりも、本能のまま動いた方が上手くいくのだと無意識に両腕に黒竜の力を集めてリーガースの蹴りを受け止めたことから学ぶ。
竜とは本来暴力的で獰猛な生き物だ。
考えるよりもその荒ぶる力を本能のままに揮う者。
イヴリールの身の内に満ちる力は父ウィンロウから与えられた黒竜の力だが、吸い取っていた時は気持ちが悪くて怖気が走ったが今はその事実が頼もしく感じる。
独りではないのだと。
必ず美羽を連れて黒竜の里に戻ってこいと励ましてくれたウィンロウ。
自分もタバサを口説き落とすから何も心配せずに行ってこいと送り出してくれた。
父も今、愛する女をもう一度手に入れようと必死で戦っている。
──そう思うと負けられないだろ。
イヴリールは頭を空っぽにして何度も何度も殴りかかった。
その度にのらりくらりと躱して時折反撃していたリーガースが途中から表情を消し、防戦一方になっている。
無我夢中で全力で向かってくる相手に圧されているようだ。
「くっ!」
下がるのを止めてリーガースは左足を地面に滑らせて足を払ってきた。
飛び跳ねて避け、その流れで右脚を腹部に目掛けて蹴り出すと確かな手ごたえの後でリーガースが仰け反った。
続けて右左と拳を繰りだし、顎を叩くと体制を崩して赤い地に膝を着く。
「…………やってくれるね」
ぐいと口元を拭って顔を上げたその瞳には冷静さも穏やかさも無い。
麗しい顔は怒りの感情で引き締まり、じわりと染み出してくる黒い力が目に見える形でリーガースを包む。
本気だ。
やっと本気になったリーガースに恐怖より歓喜を覚える。
「美羽は、渡さない」
他の誰にも。
全体を包んでいた黒い力は収縮を始めて徐々にリーガースの両手に集まってきた。紫色の光を走らせながら、限界まで凝縮されている。
「碌に戦い方を知らないと甘く見てたけど、やっぱりウィンさんの息子だ。肉弾戦では敵わないね」
頬を歪めて笑うと酷薄な印象になった。
竜族としての能力も経験も圧倒的にリーガースの方が上だ。
侮っていてくれた方がイヴリールには勝ち目があったが、もう相手は下手な手加減などせずに向かってくるだろう。
「空中戦と長距離からの攻撃の方が得意だから、そうさせてもらうよ」
ふわりと浮いてリーガースはあっという間に高みへと上る。
わざわざ相手の得意の舞台で戦うのはどうなのかと追いかけるか迷っていると「兄ちゃん!来るよ!」とアリウムが切羽詰った声で注意を呼びかけた。
はっと顔を上げると目の前に闇の球が次々と落下してくる。
球は地面にぶつかった後消えるが、衝撃で抉られた跡が威力の程を教え、飛び散る砂と石の攻撃が襲い、目を開けているのが難しい。
躱しても次から次へと降ってくる闇球から逃れることはできない。
肩に、脚に、腹に腕にと当たり、その都度骨が軋み衣服と肌を裂いた。
止むことの無い攻撃にイヴリールは歯軋りし、何処までも容赦の無い執拗な痛みに耐えるが、防御しそこなった闇の球が胸で弾け、紫の光が頬を斬り裂いた所で後ろに倒れ込んだ。
硬い地面の衝撃と痛みから意識が薄れてゆく。
「兄ちゃん!イヴ兄ちゃん!」
泣き叫ぶ声が聞こえる。
鱗が全部剥がれ成体まであと少しだとはしゃいでいたアリウムが子どものように泣きじゃくっているのを見て顔を歪め苦笑した。
弟をあんなに泣かせて、心配かけて情けない兄だ。
慰めてやりたくても指の先すら動かない。
「ア、リウム」
罅割れた声を出すために開けた口から熱の籠った空気が入って来てひりひりと喉を焼いた。
また力が蠢く気配がしてアリウムは蒼白になり「リー!お願い!もう止めて!」と天を仰いで懇願する。
「だ、めだ。アム……まだ、終わりじゃ、ない。美羽を」
諦めたくは無い。
「そんなこと言ってたら、兄ちゃん死んじゃうよ!」
イヴリールに駆け寄ろうとしたアリウムをウィルが腕を掴んで止めさせる。灰青色の理知的な瞳が探る様にこちらを見たが、直ぐに細められて逸らされた。
有難いことに戦意がまだあるうちは中断しないでいてくれるようだ。
だが動けない以上イヴリールにはリーガースの攻撃を避けることも、弾き返すこともできない。
ただ死を待つだけに等しい。
何も、できない。
目を閉じて呼吸を整える。
いつその時が来ても良いように心を落ち付かせていると不思議と安らかな気持ちになった。
本当に何もできないのか?
ふと浮かんだ疑問にイヴリールの思考が一気に加速する。
父と母のこと、弟のこと、黄竜と赤竜、そして白竜と竜の巫女のこと、緑竜のこと、自分の種である黒竜のこと。
できることなどこれしか無い。
「美羽、絶対にお前に会って連れて帰るからな」
心臓の鼓動に合わせて息をする。
こんな時だと言うのに激しく拍動するわけでもなく、いつものように規則正しく刻んでいることに励まされた。
恐れて拒絶することは簡単で、未知の物を己の中に受け入れることは難しい。
美羽はそれをやってのけた。
グリュライトでの生活も、そしてイヴリールの祝福も。
だからこそイヴリールは負けたくなかった。
近づく巨大な闇の力をそのまま全身で受け止める。
さっき味わった痛みの記憶を捨てて、呼吸をするように吸い己の力へと変えた。
リーガースの力は優しく温かで、ウィンロウの物とは違って心地良い。
枯渇していた身体はまたしても全てを吸い上げてイヴリールの身体を浮かせるほどに軽くした。
「底なしか?」
呆れたようなリーガースの声にイヴリールは笑って「飢えてるからな。力にも女にも」と答え身を起こす。
「参った。こっちは空っぽだ。これ以上は戦えないよ」
両手を上げて見せ、巫女と白竜に弱った顔を向ける。
そのまま自分は辞退してイヴリールを黒竜の代表にして欲しいと頼んだ後でアリウムに優しく微笑み退出した。
「兄ちゃん!どうなることかと」
思ったけど、イヴ兄ちゃんならきっとなんとかすると信じてたからね、と涙を拭いながらリーガースに命乞いしたことなど忘れたように微笑んだ。
その銀色の頭を抱き寄せて「ありがとな」感謝の言葉を口にする。
「なんとか会える権利は手に入れたか」
ほっと息を吐くと鈍い疲労がじわりと襲い、睡魔の攻撃を欠伸を噛み殺してなんとか防いだ。
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