第7話 幼馴染の怒りと自己紹介
タバサがにこにこと微笑みながら美羽を見つめて「私の名前はムーです」とゆっくり発音する。
それを聞きながら口と舌をぎこちなく動かしながら美羽も真似て繰り返すが「わたすのにゃまえはゆーでし」と幼子よりも拙い物になった。
「なんじゃそりゃ。才能無しだな」
「そんなことないわよ!さっきよりは良くなったわ。ムーその調子でもう一回」
ギロリと息子を睨んだ後で美羽に指を一本立てて見せながら大きく頷く。
それを合図に顔全体を動かして喋ると「わたし、の、なーまえ、みゅーです」となんとかまともな言葉にはなった。
「やった!できたじゃない!」
手を叩いてタバサが喜ぶと、どうやら伝わったのだと美羽が目を輝かせて再度「わたしの、なまえ、みゅう、です」と嬉しそうに口にする。
忘れないようにと何度も練習する姿に苦笑いしてイヴリールは野菜のスープをパンと一緒に流し込む。
朝の仕事を終わらせてから朝食のかたわら言葉の勉強をするのは、一日の限られた時間の中で多くの仕事をこさなければならないからだ。
無駄な時間など無く、美羽の勉強の為に割ける僅かな時間は食事の時ぐらいだった。
「自己紹介は止めてさっさと食え」
「なによ!いいじゃん。村の人たちと仲良くなれるきっかけになるんだから。挨拶と自己紹介は人間の基本的なコミュニケーションなんだから」
スカフマをスプーンで避けてファミノイアを乗せて口に運ぶ美羽を半眼で眺め「好き嫌いすんな。子どもか」と指摘する。
びくりと反応した所為でファミノイアは無様にテーブルに落下し、更に転がって床に落ちた。
「てめっ!俺達が精魂込めて作った野菜を落とすとは、俺と喧嘩したいのか!?」
「うっ、そんなつもり全くないし!拾えば三秒ルールで食べれるから」
美羽が椅子をずらして床に手を伸ばし黄味色のファミノイアを拾うと、そのまま口に入れようとしたので慌ててタバサが止めた。
「だめよ。ムー。お腹壊すから」
言葉だけでなく首を振ってから指で己の腹を示してもう一度「だめ」と繰り返す。
数日の間で身振り手振りと簡単な単語から、美羽は「だめ」と「いい」という言葉は覚えているようだ。
あまりにも真剣な表情で「だめだ」と言われて戸惑いながら美羽は頷いて、手の中のファミノイアの処遇に困っている様子にタバサが優しく受け取って席を立つ。
「すみません。ありがとうございます」
肩を落として謝罪する美羽に「いいのよ」と返答する辺り、タバサも美羽の言葉の「すみません」と「ありがとう」の意味と単語は理解しているようだった。
「お前のとこでは落ちた物を平気で食べるぐらい食べ物に困ってんのか?」
「え?いや、逆かなぁ。毎日廃棄される食べ物が沢山あるって聞くし、出された物を全部食べずに残す事も多いし。美味しくなかったら手を着けないし、料理の中に異物があったら問題になる上に直ぐ処分だし。食べる人がいる、いないに関わらずお店は準備して売れ残れば捨てるから。ありがたいとか感謝とか感じないようなとこだよ」
決して裕福ではない生活をして、日々最低限食べていければ幸せだとされるイヴリール達の暮らしとは真逆である。
食料を捨てるという感覚が理解できずに怒りを覚えるほどだ。
料理になる素材を作る者達の苦労をなんだと思っているのか。
「うわっ。怒らないでよ。私の実家は田舎だったから子どもの時は近所で取れた野菜とか貰って食べて美味しいなとか、あのおじちゃんが作った野菜だから残さず食べなさいってお母さんに言われてちゃんと感謝とかして食べてたんだけどね。
やっぱり都会に出て独り暮らししてるとスーパーに当たり前のように売ってある物を買って、仕事で忙しくて放っておいた冷蔵庫に残ってた野菜が干乾びたりすると捨てちゃうわで、なんだか有難いなって思えなくなってきちゃうんだってば」
眉を下げて言い訳を述べている美羽はだんだんと目を伏せて見るからに反省していると分かる顔で俯いてしまう。
「自分の事で一生懸命で、その野菜の向こうに一生懸命に畑を耕して毎日水やりしたり草むしりしたりして世話をしてくれているイヴみたいな人たちがいるなんて思いやれなくなっちゃって」
不自然に言葉を切りなにかを噛み締めるようにしてから絞り出すように零した言葉は「ほんと。どうかしてるよね」だった。
「ほんとにお前のいたとこはどうかしてる。理解不能だ。お前みたいな子どもが独りで都会とやらで生活して仕事してるんだからな」
「ちょっと。何度も言ってるけど私は子どもじゃなくてちゃんと成人した大人なんです!」
聞き捨てならないと顔を上げて反論してくる美羽に木の椀の中のスカフマを指差して見せる。
好き嫌いしているようでは子どもと判じられても仕方が無いのだと恐い顔をして告げれば、渋々スプーンを動かして朱色のスカフマを掬い美羽が頬張った。
「どうだ?美味いだろう」
一瞬首を横に振りかけ、慌てて縦に振ると咀嚼もそこそこに飲み込んだ。
水の入った木のコップを引き寄せて口の中の洗浄も兼ねて飲み干し、美羽が眉間に皺を寄せて椅子の背凭れに背中を預ける。
「うー……これ見た目が人参なくせに、予想を反して苦いんだもん。人参は甘いものだって認識があるからそのギャップに舌と頭と胃がついていけないんだよね」
「お前の所ではスカフマは甘いのか?」
「お菓子に混ぜたり、ジュース作るぐらいには甘いかな」
「……興味あるな」
健康維持に効果があると薬草師が認めている程の優良野菜だが、スカフマは苦みの所為でどもに嫌われている。
美羽のいう人参が甘く、同じ効果があるのならば是非手に入れて村の子どもたちに食べさせてやりたい。
「イヴって野菜オタク?」
「なんだ?なんか今悪口を言われたような気がするが、気のせいか?」
「悪口じゃないって。誉め言葉」
「……ほんとか?」
疑いの目を向けると美羽はいつものへらりとした笑いを浮かべて二度続けて頷く。
いまいちこういう顔で笑う時は信用できない。
笑って誤魔化そうという下心が透けて見えるのはイヴリールの気のせいではないだろう。
「ほらほら、早く食べて頂戴。片付かないから」
タバサが戻って中断していた食事を済ませるようにと催促する。
自身もスプーンを掴んでせっせと朝食のスープと硬いパンを胃の中におさめていく。
母にならってイヴリールも無駄口は叩かずに再開させパンをスープで流し込むと手を合わせて今日の糧となってくれた食料に感謝をして立ち上がる。
美羽も慌てて手を動かし全て食べきると「御馳走様でした」と手を合わせて礼を言うと食器を手に立つ。
調理台の上に乗せてある二つの桶の手前側に食器を入れていると、美羽から「私が洗うからイヴは他のお仕事してよ」と言われて押し退けられた。
「珍しいな」
「だって他の仕事はお手伝いできないから、これぐらいはしないとね」
「働かざる者食うべからず、か?」
これは美羽の世界のことわざと言われる物らしく、働こうとしない怠惰な人間は食べることを許されず、食べたいのならば働いてその権利を得なくてはならないという広く知られた教えらしい。
こちらの世界では基本的に勤勉に働く者が多いので、そういった教えは聞いたことが無いが美羽のいた場所では怠惰な者が多いのだろう。
わざわざそんな教えを広めねばならぬほどなのだから。
「そういうこと。私は食べ物だけじゃなくて家も服もお世話になってるんだから、怪我が治ったら精一杯働かせてもらわなきゃなってちゃんと思ってるよ」
掌を振って追い出され、イヴリールは食器洗いを美羽に任せて外へと出た。
まずは川に行って水汲みをして、薪を割り、昨日罠を仕掛けた森の中に確認に行かねばならない。
いつもの道をいつものように下って川岸に近づき、さらさらと流れる水面に手桶を差し入れたところで風の音の中に枝葉を荒っぽく踏んで近づいてくる足音に気付いてため息を吐く。
「イヴ!」
怒気を孕んだ声にうんざりしながら顔を上げると、幼馴染が柳眉を逆立てて川への小道をやって来る。
気の強そうな顔立ちは怒りを宿すと凄みだけでなく美しさも増すから不思議だ。
「どんだけ暇なんだ、お前は」
「暇じゃないわよ!」
何度か滑りそうになりながら下ってきたローラはイヴの前に立つとキッと睨み上げてきた。
「わざわざ村外れに住んでる俺を怒鳴りに来るんだ。暇だとしか思えないだろ」
「暇じゃないけどどうしても言いたいことだから来たのよっ!一体どういうことなの?あの女いつまで図々しくイヴの所に厄介になるつもりなのよ!」
「……言葉を理解して喋れるようになるまでだな」
「どうしてイヴがそこまでしてやらなきゃならないの!?」
声高なローラの言葉にイヴリールは左耳を塞ぎながら横を向く。
朝の爽やかな空間を台無しにする形相と勢いをどうやって鎮めるか考え、それが不可能である事に思い至ると後は諦めの境地だ。
「どうしてって言うが、俺になんとかしろって言ったのはバダム小父さんだろ」
「お父さんはあの女を追い出してくれって頼んだの!面倒見ろとは言ってないわ!」
「小父さんはあいつがうちに居る事に反対はしなかった」
「それはっ」
ローラの青い瞳に苛立ちと嫌悪が揺らめいて口籠る。
その対象が父親であるバダムになのか美羽になのか解らないが、大人しくなったので両方の手桶に水を汲んで歩き出す。悔しそうな顔で川を睨んでから幼馴染は後を追ってついてくる。
しばらく無言で歩いていたローラが「イヴはそれでいいの?」と問う。
「なにがだ?」
分かっていたが知らぬふりで聞き返せば背後で怒りを再燃させる気配に失敗した事を覚る。
「お父さんはイヴが村の女の子と一緒になるよりも、何処から来たか分からないあの女と婚姻してくれれば安心だって思ってる。でもそれでいいの?」
地を這う様な低い声にイヴのうなじがピリピリとして落ち着かない。
「俺の一存で決められる事じゃない。俺にも選ぶ権利があって、あいつも選ぶ権利がある。言葉を覚えたらここを出て行く可能性もあるんだ」
「イヴ!」
後ろから腕を引かれてイヴリールは仕方なく歩を止める。
振り返ったローラは今にも泣きそうな顔で怒っていた。
「村の大人たちはみんなイヴを良く思ってないかもしれないけど、女の子たちは違う。みんなイヴを格好良いって言ってるし、イヴが望めば誰だってそれに応えるぐらいには好意を抱いてるんだから」
「そう言われても、お前以外とまともに話したことも無い俺には名前も顔も分からないんだが」
村には年頃の娘が十三人いるが会話をしたことがあるのはローラのみで、挨拶すらしたことも無い女とどうやって親しくなるのか。
それにとても好意を抱かれているとは思えない。
「みんな話したがってる。仲良くなりたいって思ってるけど、親が許さないのよ。それにイヴの方が近づけないようにしてるじゃない」
イヴリールと親しく口をきけば激しく叱責されるのだ。分かっていてこちらから声をかける事などできるはずが無い。
自分が竜族だという事実が人族の中へと入って行けない枷となっているのは自覚している。
「俺はこの村で伴侶を見つけるつもりはない」
今まで住まわせてもらえた恩に報いるためにもそれは決めていたことだった。
これはずっと幼馴染であるローラには伝えていた事だったのに、改めて口にすると目を見開いて酷く狼狽し傷ついた顔をする。
「…………あの女は村の女じゃないからいいの?」
「そうは言ってない」
「同じ事よ!」
女という生き物はすぐに感情的になる。
一緒に居ると疲れるばかりで、こんな気苦労をするぐらいならば伴侶などいらないと心の底から思う。
竜族は雄だけの生物なので繁殖に対して強い危機感と意欲を持っているらしいが、里から出たイヴリールにはその本能は薄いのかもしれない。
「お前、もうここには来るな」
「なんでよ!」
「小父さんが心配する」
肩を動かしてローラの手を外し、強く言い含めると顔を真っ赤にして「あんなやつ死ぬほど心配すればいいのよ!」と怒鳴りイヴリールの横を擦り抜けてずんずんと坂を登って行く。
愛する娘の暴言を気の毒に思いながらイヴリールも足早に家へと向かう。
ローラが玄関前に差し掛かった所で中から美羽が桶を抱えて出てきて気づき、首を傾げた後で「あ、おはよござます」とたどたどしい挨拶で呼びかけた。
弾かれたように立ち止まりギロリと美羽を睨むローラの視線をあのへらへら笑いで受け流すのだから相当胆が据わっている。
「わ、たしみゅうです。なまえ」
順序が前後したが間違ってはいない。
言えたことに満足して破顔しローラの返答を待っている。
「こんな不細工どこがいいのよ。言っておくけど私は名乗ったりはしないし、慣れ合ったりもしないからね!イヴにあんたは不釣り合いなんだから!優しくしてもらえるのはあんたが惨めで可哀相だからで、特別でもなんでもないんだから勘違いすんじゃないわよ!」
「うっ、えっと。あの、早口すぎて聞き取れないんだけど」
ローラの矢継ぎ早の言葉に美羽がたじろいで助けを求めるように視線を彷徨わせてこちらを向いたが、イヴリールと視線が合う事は無く困ったように背後の扉を振り返った。
「さっさと言葉を覚えて出て行きなさいよね!」
捨て台詞を残してローラは村へと戻る道を進んで行く。
その後ろ姿をぼんやりと眺めながら、グリッドの言葉を思い出す。
目が不自由なのかもしれない。
それは確かな実感となってイヴリールに動揺と不安を覚えさせる。
言葉を理解し話せるようになっても、目に障害のある女を受け入れてくれるような場所があるだろうか。
もし美羽がこの家を出て行くと決断した時にタバサもイヴリールも心配で素直に祝背中を押してやれる自信がない。
重い石を胸に沈めたような感覚に頭がくらりとする。
一歩前進して新たな不安要素を抱え込むことになるとは、本当に面倒な女だ。
美羽が桶を抱えて食器洗いに使った水を家の横へと持って行き、捨てて戻ってくる段になってようやくイヴリールに気付いた。
「おわっ!いつからそこにいたの?」
呑気な顔で驚いている美羽に舌打ちをして「うるさい」と吐き捨ててさっさと中へと入った。
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