第6話 竜族は天災のひとつ
「ねえ、私に言葉を教えてよ」
屋根裏へと上る梯子の途中で美羽が唐突に寝転がっているイヴリールに懇願してくる。
熱が冷めて起き上がれるようになってからタバサの命令で今まで使っていた屋根裏を美羽に差し出す事となり、梯子の下の糸紡ぎや粉挽きなどの大きな道具を置いてある場所を片付けて敷き藁の上にシーツを被せた簡易寝台を作る羽目になった。便所へ続く扉があるわ、玄関からは丸見えだわで落ち着かないがこの際文句は言ってはいられない。
「面倒臭い」
「面倒臭いってんまりじゃない?このままじゃ私イヴとしか喋れないじゃん」
梯子の桟にしがみ付いて美羽は不服そうな顔でこちらを見ている。
眉間に皺が寄っているのはよく見ようと目を凝らしているせいなのか、睨んでいるのか判断に困るがイヴは首の後ろを撫でながら起き上がり大きなため息を吐きだした。
「イヴは私が周りをウロチョロするの迷惑なんでしょ?それなら言葉を教えて」
「今でも母さんとは身振り手振りで会話してんだろ」
「それじゃ全然私の気持ちは相手に伝わらないの!もっと沢山お喋りして、お礼を言って、色んなことを教えてもらいたいのに」
初めて美羽が来た時タバサが言ったように、言葉は理解できなくても最低限の意思は伝えようと努力を惜しまなければ伝わるのだ。
でもそれでは足りないのだと美羽は言う。
「だって不安なんだよ。恐いんだもん。イヴとしか言葉が通じないなんて。
もしイヴのいない時に何かあったら?例えばタバサさんに何かあって、私しかいなくて助けを求めに村に行っても何があったのか誰にも教えられない。助けられないんだよ?」
そんなのは嫌だと強い口調で頭を振るので「しょうがないな」と応じるしかなかった。
「やった!じゃあ今から教えて」
「はあっ!?」
両手両脚を縦の桟の外側に移動させ、滑り降りるようにして下りてくると美羽は右足裏を下に着かないようにしながら寝台の上に飛び乗った。
「お前なっ!仮にも女が男の寝台の上に簡単に上がってくんな!」
「なに言ってんの。私が今使ってる屋根裏のベッドもイヴが使ってたやつなんでしょ?今更細かい事言わなーい」
「それとこれとは訳が違うだろがっ」
「違わないよ。一緒。それに私みたいな美人でも可愛くもない女を相手にするより、村の綺麗な女の子の方がイヴだって良いでしょ?」
被っていた紺色のスカーフに手を伸ばしながら美羽はへらへらと笑う。
締りの無い顔を睨んでイヴリールはその手を掴んだ。
「取るなよ」
「え?取るなって、この頭の布の事?」
「お前それを男の前で取る意味知ってるか?」
「う、えっと知らない、です」
女が髪を覆うように頭にスカーフを纏うのには理由がある。
勿論それを美羽が知っているはずが無いのは短い髪を恥ずかしげもなく晒していたことから分かっていた。
「女の髪は男を惑わす物だと言われている。特に髪の根元のある頭部を家族以外に見せるという行為は裸を見せる事と同義だ」
「ええっと、つまり、男の前でこれを取る事は裸を見せるのと同じくらい恥ずかしい事とされているってこと?」
「男を誘う時に女はスカーフを外す仕草をする。何をされても文句は言えないって事だな」
「うえっ。や、これは違くて!」
知らなかったし、と赤面して慌てる美羽の手を離して「分かったら人前で外すな」と念押ししてイヴリールは枕のある位置まで下がり胡坐をかいた。
「分かりました。以後気を付けます」
正坐をして美羽は小さくなりながら謝罪し「やっぱり違うんだな……」と呟いた。
その声があまりにも頼りなく不安げだったので、励ますべきか元気づけるべきか悩んで結局黙った。
「ここは私の住んでた所とは違いすぎるよ。言葉だって英語でもなければロシア語でもないし、フランス語でもない。文化も生活習慣も違う。価値観も見た目も違う。畑で採れる野菜は似てるのに名前が違うし、味もちょっと違う。テレビも電気もパソコンも無い。包丁はあるけど最終的に食事を作るのはガスじゃなくて暖炉だし水洗トイレも紙も水道もお風呂も無いなんて、」
語尾を震わせながら大きく息を吸い込むと嗚咽が漏れて美羽は悔しそうに顔を歪めた。泣くまいと頬に力を入れて何度も息継ぎをして震える喉を押え込むと、ぐいっと目元を拭ってから左手でスカートを握り締める。
「便利なコンビニも、電車もないし車も走ってない。空気は綺麗で、豊かな森が広がるこの土地は地球上の田舎を探してもきっとどこにも無いんだよね。ここには日本なんて小さな島国は存在しないし、私の家もどこにもない。この世界で私だけが地球という星の日本人なんだと思ったらすごく恐くて、寂しいじゃないの!」
まるで八つ当たりだ。
涙で瞳を潤ませながら激しい怒りをぶつけてくる。
美羽とてイヴリールを責めてもどうにもならないと分かっているはずだ。
「なんの為にここに私はいるの?どうして私なの?理由があっても無くても納得できないし、こんな仕打ちをされるほどの悪い事なんて私したことない!確かにここずっと悪い事ばっかり起こってて、最終的な罰がワケ分からない所に飛ばされるってどれぐらいの罪を犯せば与えられるのよ!」
────まずい、泣く。
ふうぅっとため息とも嘆きとも取れる声を洩らして、美羽は両拳を寝台に叩きつけた。
シーツの下は藁なので埋もれるように沈む。額を拳の上に乗せて前屈みになっている美羽の背中が大きく波打つように動いた。
頼りない程薄い身体が絶望と悲しみに苦しんでいるのを目の前で見ながら、気の利いた言葉のひとつも言えない情けなさにイヴリールは俯く。
美羽が言っていた英語やテレビやパソコン、ガスやコンビニも電車という単語も聞いたことも無い。
ましてや住んでいたという地球という星の事も日本という島国の事もここでは誰ひとり知っている者はいないだろう。
この世界に美羽はたった独り。
「今のお前の家はここだろ」
出て行って欲しいと思っていたはずなのに、口から出てきた言葉は真逆の物で自分でも驚愕するほどだったが紛れも無い本心だった。
同情か、憐みか。
分からないが人族の治める大地で、その括りの中に属する事の出来ない美羽が何故か自分と重なって見えて他人事とは思えなかった。
「ここがお前の居た場所とは違ったとしても、この世界でのお前の家はここだ」
動いていた背中がピタリと止まり、のろのろと顔が上げられる。
泣いていたのだと思っていたが美羽の頬に涙の跡は無かった。ただ濡れた黒い瞳と無防備に小さく開かれた唇が目に入った時、喉に煮え滾った湯を流し込まれたかのように熱い痛みと息苦しさが襲い必死で目を反らす。
「イヴは……」
掠れ押し殺した声を出し美羽がゆっくりと上半身を起こして座り直すと困ったように小首を傾げる。
「私に早く出て行ってもらいたいのかと思ってた」
気付かれていたのかと目を剥くとその様子に「やっぱりね」と苦笑した。美羽は眉を寄せてじっと壁の方を眺め、何事か思案している。
鈍いのかと思っていたら、意外と鋭い。
「そうだよ、思ってたよ!悪いか!」
手を伸ばして深い皺を刻んでいる眉間に親指を当てて、ぐいぐいと解しながら白状すると「なに?ちょっと痛いよ!」と美羽は額を覆う手を退けようと抵抗した。
「そんな険しい顔してたら、こっちが不愉快だ。ただでさえ見られない顔してんのに」
「へ?そんな恐い顔してた?うん?今さりげなく私がブスだって言ったでしょ!」
「お前が言ったんだろうが。美人でも可愛くも無いって」
「うー!言ったけどさ!そんなにはっきり言われたら傷つく。ブスにはブスのプライドがあるんだからね!」
「なんじゃそりゃ。まあ見てくれはちょっとあれでも、女なら誰でもいいって野郎はいっぱいいる。言葉を話せるようになるまではここにいろ」
言い終えて照れ隠しで額を指で弾いてから手を引くと、美羽はその場所を擦って痛みを散らしながら「ほんっとイヴは紳士じゃない!でも、ありがとう」と微笑んだ。その笑顔が妙に可愛く見えて頭を掻く。
「あのな……。ちょっと言いにくいんだが」
「なに?」
「俺とお前だけじゃ言葉の勉強できない」
「はあ?なんで?どういうこと?」
面倒だが竜族の習性と能力についてまずは説明しなくてはならないだろう。
多分美羽の住んでいた世界には竜族は存在していないと思われる。
「俺だけがセロ村でお前と喋ることができるのは、俺が人族じゃなく竜族だからだ」
きょとんとした顔で「竜族?」と繰り返すのでやはり知らないようだ。
「今いるここはグリュライトって呼ばれる人族の住む大地だ。基本的に人族だけが居住している。グリュライトはかなり広くて人族の中で使われる言語は数えきれないほどらしい。色んな顔立ちや肌の色もいるから、中にはお前みたいな顔をしている人族の土地もあるかもな。それこそ言葉も違えば文化も服装も、習慣も変わる。俺はセロ村と黒竜の里しか知らないから詳しい話はできないけど」
言葉を切って理解しているか様子を窺うと美羽は真剣な顔で聞いており、先を促すように大きく頷いた。
「竜族は人族の住む大地とは違う場所にそれぞれの国を持っている。竜族は白、赤、緑、黄、青、黒の六種類。その種族別に里がある。その里はグリュライトの大地とは接しているが重なってはいない」
「接しているけど重なってないって……どういうこと?」
「同じ空間に存在しない。でも繋がっている場所があるからそこからは出入りは可能だ」
「ん?ん?よく分かんない」
「そこら辺は別に知っておく必要はないから気にするな。覚えておかなきゃならないのは、そこを出入りできるのは竜族だけだと言う事だな」
「じゃあ人族は竜族の国には行けないってこと?」
「そうだ。でも竜族と一緒なら超える事はできる」
「へぇ竜族って特別なんだね」
その目に羨望を滲ませて美羽がへらりと笑う。
「特別というより特殊なんだよ。ここから本題だ。竜族には雄しかいない」
「雄?男だけ?どうやって子孫を残すの?両性、だったら雄とは言わないか。分裂?クローン?それとも老化で死ぬ間際になったら急速に若返って赤ちゃんに逆戻りするとか?」
「……意外と想像力豊かだな」
それほどでもと照れているのを呆れながら眺めていると、馬鹿にされているのだと気づいてあっという間に不貞腐れた。
「成体になって時期がきたら里から出てグリュライトを訪れ、竜族と婚姻を結んでも構わないと思ってくれる相手がいれば連れて行って子を産んでもらうんだ」
「連れて行くって竜族の国に?」
「そうだ。だから竜族は繁殖の為に人族の女を攫って行く天災のひとつだと恐れられている」
「でも……同意の上でなんでしょ?」
天災だなんて大げさなんじゃないかと言いたげな美羽に首を竦めて説明を続ける。
「家族はそうは思わない。追いかけて行って連れ戻そうにも人族は接点を超えられないからな。どんな生活をしているのか、孫の顔も見れないし、幸せなのかも分からないんだ。もしかしたら子どもを産んだ後で娘は竜族に喰われているかもしれないなんて怯える。人は自分の目で見た物しか信じないからな。元気にしていると伝えられても受け入れられないさ」
「その家族を時々連れて行って会わせるとかできないわけ?」
「竜族も恐いんだよ。親や兄弟に会えば里心がついてグリュライトに帰りたいと言い出すかもしれないから」
「言わないかもしれなのに?そもそもそれって互いに信じ合えてないってことなんじゃないの?」
器小っちゃいな!なんて呆れているが、運命の相手ともいえる伴侶を失うかもしれない恐怖は美羽にはおそらく理解できないだろう。
「人族は心の底から竜族を忌み嫌ってるんだ。だから生涯ひとりの女しか愛せない性質だと伝えても信じてくれない。まあ例外もいるけどな」
「例外?」
「それは今は止めとく。つまり竜族は様々な言語が溢れ返っているこのグリュライトで伴侶を見つける為にあちこち飛び回る。同意と愛を勝ち得る為に言葉を使えないのは障害でしかないだろ?だから竜族は繁殖の為の能力としてどんな言語も理解できるし、話せるようになってる」
「便利だね」
「よって勝手に変換される言語は第三者を介さなければお前に教えることは不可能って事」
セロ村で使用されている言葉を話そうとして話しているわけでは無いのと同様に、美羽の国の言葉をイヴリールは意識して話しているわけではない。
どちらの言語も同じように喋っているだけなので、美羽の前でここの言葉を喋ろうとしてもできないのだ。
話す対象によって勝手に変換される言葉はこういう時に不都合なのだと知る。
「明日母さんを入れて、ここの言葉を話してもらいながら教えるから」
「便利なんだか、不便なんだか。でもその力のお陰で私は話し相手をイヴがしてくれるんだもんね。感謝しなきゃだな。うん」
おとなしく立ち上がり寝台を下りた美羽は「じゃあ明日からよろしくね」と頭を下げてから梯子を上って行く。
その小さな足が屋根裏に消えたのを見届けてイヴリールは脱力して倒れ込んだ。
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