第5話 紳士とは男に非ず
半日かけて取ってきたトチノカの実が功を奏したのか。
女は夜には意識が戻り甘い果実を口にしてから熱冷ましの丸薬を飲んだ。
そして高熱は嘘のように下がり次の日には起き上がって足を引きずりながらもテーブルにつくまでになった。
脅威の回復力である。
看病と助けてくれた事についての感謝のあとで女はオオギリミウと名乗った。
かなり奇妙な名だとタバサとイヴリールが困惑していると、オオギリは“大切”と書いてそう読み、それは名字という物であるとまた聞いたことも無い様な事を口走る。
それではオオギリと呼べばいいのかと思っていたら、名前はミウで美しい羽と書くのだと慌てて説明してきた。
だがまずミウという発音自体が難しく、呼ぼうにも「ムー」とか「ミュウ」となってしまい、ほとほと困りきっていると、女――美羽――は妥協して呼びやすいように呼んで欲しいと苦笑した。
ほっとしたタバサが「じゃあムーって呼ぶわ」とイヴリールを通して伝えると美羽は「そうしてください」と頷いた。
タバサは美羽の元気な姿を見てにこにこと機嫌がいいが、忙しく立ち働く後ろをついて回る女の「これなに?」「あれは?」という質問攻めにあっているイヴリールの苛立ちは限界点を越えるのも時間の問題である。
「お前いい加減にしろ!怪我もまだ治ってない癖に俺の後ろをついて回りやがって!おとなしくしとけ!」
耐えかねて声を荒げるとキョトンとした顔で首を傾げる。そしてすぐにパチンと手を叩いて笑う。
「なに?心配してくれてるの?大丈夫。足を下につけなければ痛くないし」
「仕事の邪魔だって言ってんだよ!」
畑の草取りを中断して振り返って怒鳴りつけると黒い瞳を瞬かせてから美羽が怯み、すぐにむっとした表情で「仕方ないじゃない」と言い返してくる。
麻の長袖シャツに臙脂色のスカートを穿き白いエプロンを着けた美羽はすっかりこの家に馴染み、短い黒い髪を紺色のスカーフで覆っている姿は最初にしていた恰好よりずっと似合っていた。
なにより露出が少ないのがいい。
「手伝いたくてもしゃがんだら体重かかって痛いからできないし、言葉分かるのイヴだけなんだからさ」
不貞腐れた顔で睨まれて、二、三日で馴染んだ図太い神経で失念していたが美羽なりに不安感を抱いているのだと思い至る。
その事に気付いてしまうときつい言葉で追い払うのも哀れでイヴリールは畑の外を指差して「おとなしく座ってろ。それから黙ってろ」と近くにいるのは許可した。
「黙ってろって、感じ悪いなぁ」
ぶつぶつ文句を言いながらも、ひょこひょこと畝の間を外へと向かって歩いて行くのを横目で見届けながら草をむしる。
畑と地面との間には僅かだが段差があり地面の方が少し高い。
美羽はそれに気付いていないようなので声をかけてやろうと口を開いたが面倒だなと思っていたせいか遅れた。
「おい、そこ段差が――」
「うっ!ひゃあ、イテーッ!!」
言い終わる前に美羽が段差に足を取られて前のめりになる。それを回避しようと右足を地面につけたのが悪かった。
叫び声を上げてのけ反り、無様にスカフマの上に倒れ込んだ。
「お前なっ!」
「痛い!痛いよ!マジやばいって。痛すぎる。この現実感ハンパない感じ泣ける!もう!なんで!?」
「何やってんだよ……本当に」
泥とスカフマの葉っぱ塗れになりながら半泣きで右膝を抱えて悶えている美羽に近寄りため息を吐く。
ジタバタと藻掻くので足首まであるスカートが捲れ上がってあられもない姿になっているのを自覚していない。
「いい加減にしろっ!」
手を伸ばしてスカートの裾を掴み思いきり引き下げると何故か「やだっ!」と悲鳴を上げて両手を突き出してイヴリールの頭を押してきた。
相変わらず意味不明である。
「落ち着け!嫌とか言ってる場合か!」
「やなもんは嫌なのー!放してー!」
「煩い!黙れっ。じっとしてろって」
美羽の手首を掴んで退けさせ暴れる身体を押えるように体重をかけた。
土の香りとスカフマの匂いが強くなり、美羽の黒い瞳に怯えが滲んでいるのを見た途端、血が滾る。
震える唇を前歯がきゅっと噛み、眉間に力を入れて必死で睨んでくるがイヴリールを恐れているのが手に取るように伝わって。
畝に倒れている美羽の腰から上は低くなり、手首を顔の横に押さえつけると胸部が逸らされてシャツの下にある膨らみが浮かび上がる。
触れたいという欲望を見抜いたのか身じろいで美羽は咎めるように「イヴ」と名を呼んだ。
「お前が悪い……」
「なにそれ?そりゃ段差にも気づかない私の目は節穴かもしれないけど!こんな風に押し倒された状態のどこに私に落ち度があるのよ」
「倒れたのはお前の所為で俺は押し倒してはいない」
「じゃあなんで私の上にイヴがいるのよ!」
「…………成り行き?」
「ふざけんなー!どけろ!さっさと!」
猛然と抗議を始めた美羽のスカーフに指をかけて鼻までずり下ろし、イヴリールは身を起こして立ち上がると手と膝に着いた土を払い落とした。
「ちょっとなにすんのよっ」
突然視界を覆った紺色のスカーフに四苦八苦しながら地面に手を着いて起き、それからスカーフを押し上げて苦い顔をしている美羽が立つためにイヴリールは手を差し出す。
その手を胡散臭そうに見つめた後で、自力では無理だと判断した美羽は渋々手を重ねてきた。
「イヴは紳士じゃないなぁ」
「なんだ、その紳士とやらは」
引き上げながらまた謎の言葉を繰り出した美羽に視線を向けると「紳士のこと?」首を傾げて困惑顔をする。
「うーん。なんかこう、気品のある礼儀正しい男の人の事かな。知的で優しく、思いやり溢れる行動のできる人を紳士って呼ぶの」
「気品、礼儀、知的、優しさ、思いやり」
「イヴはいつも怒鳴ってて紳士的じゃない」
服についた泥や草を払い落としながら責める声に、確かに自分のさっきの行動には思いやりも優しさも無かったと反省した。
だが乱れたスカートを整えようとしたのは礼儀正しい行為にはならないのか?
そう問うと驚いた様に美羽は「あれ、そうだったの?てっきりスカートを引きずりおろそうとしているのかと思った」と返答したので「ばかっ!逆だ」と突っ込んでイヴリールは草むしりを再開する。
確かに引きずりおろそうとしていると思えば抵抗もするだろう。
己の行動を振り返るともっといい方法があったかもしれないと反省しつつ、だが咄嗟の時には大した事は出来ないのだと言い訳しながら黙々と作業を続けていると「イヴ」と優しい声が呼んだので顔を上げた。
「グリッド」
「怪我をしたって聞いて、そろそろ熱も引いて元気になったかなと思って様子見にきたんだけど」
大丈夫そうだねと微笑んでグリッドは畑の縁に腰かけている美羽を見て「こんにちは」と声をかける。
途端に目を泳がせて縋るようにこちらを見たので「グリッドだ。お前を一番最初に見つけて助けてくれた男だ」と説明すると慌てて立ち上がり頭を下げた。
「あの時はありがとうございました。右も左も解らず困っていた私を助けて下さった恩は二度と忘れません」
「え?なに?ちょっと――!」
顔を上げた美羽はぐっと拳を握りしめて眉間に力を入れるとグリッドににじり寄り勢いよく顔を近づける。
自分より背の高いグリッドの顔に例の挨拶をするつもりならば背伸びをしなくてはならない。
だが今は右足の裏に傷を負っている。
さっと立ち上がって駆け寄り、たじろいでいるグリッドの腕の中にまたしても「あれ?そうだった!イタタっ!」と叫んで倒れ込む所を寸での所で後ろから肘を掴んで引き寄せた。
「美羽!お前なにやって――」
怒りに任せて叱り飛ばすと、美羽がガシッとイヴリールの胸のシャツを両手で握り締めて嬉しそうに破顔した。
「おい!俺は怒ってるんだぞっ!?」
「だって!私の名前、呼んだじゃない!ムーでもミュウでもなく美羽って」
「あ、しまった」
自分の口を呪いながらイヴリールは美羽の手を少し乱暴に振り解く。
「呼べるなら呼んでよ。ちゃんと。おいとかお前とかじゃなくてさ」
「やなこった」
「なんでよ!」
顔を真っ赤にして怒る美羽を指差してグリッドに「こいつムー、もしくはミュウな」と紹介する。「ちがーう!」否定する美羽をチラリと見てグリッドは水色の瞳に疑念を抱きながら「ほんとに?なんかすごく怒ってるよ。彼女」と苦笑い。
「いいんだよ。どっちにしたって発音できなきゃ意味ないしな」
「イヴは出来てたみたいだけど?」
「俺のは、特殊能力だから論外だろ」
「呼んであげたらいいのに」
「いやだね」
「素直じゃないなぁ」
どちらにせよイヴリールが美羽の名前を呼べるのは竜族の能力のひとつのお陰で、ちゃんと発音できるのは自分が特別だからではない。
言葉を理解できて名前をちゃんと呼べるイヴリールに美羽が感激して勘違いする事があっては困る。
ただでさえ懐かれているのに。
「俺は紳士じゃないからな」
「ん?なにそれ」
「なんか品があって礼儀正しくて優しくて思いやりのある、しかも知的な男の事らしいぞ」
「え?そんなの男じゃないよ」
なにそれと笑い飛ばすグリッドの優しげな面立ちや、柔らかい話し方、それから細やかな気の使い方のできる性格を思えば紳士とは彼のような男の事かもしれない。
「おい。いたぞ。紳士」
振り返って美羽にグリッドを示したがぷいっと横を向いて家の方へと歩いて行った。
その後ろ姿をなんとなく二人で見ていると、小屋を通り越して薪割りの切株の所に行きあたり驚いてから方向を転換して玄関の方へと去って行く。
「あいつ、本当にどこ見て歩いてんだか」
呆れているとグリッドが「気になるね」と真剣な声音で呟いたので、なにがだと視線で先を促す。
顎に指を当てて暫く思案した後で小さく頷いてイヴリールを見た。
「もしかしたら彼女、目が見えてないのかもしれない」
「は?そんなわけ」
「勿論全くって訳じゃなくて。見えにくいのかなと。だから顔を判別する為には顔を近づけなきゃならないのだと仮定したら、あの不思議な挨拶の説明にはなるかな」
「まさか――」
言われてみればさっき躓いた段差も、家を通り過ぎてしまってから気付いた様子からも美羽の目が不自由なのだと言われれば納得はできる。
誰なのかを判断する為に顔をよく見ようと近づける仕草も、大胆なのか繊細なのかも分からない行動も全てはその所為。
「可哀相にね。言葉も目も不自由だなんて」
澄んだ水色の瞳に美羽への同情を滲ませてグリッドはイヴリールの右腕をポンと叩いた。
顔を向けると眉を下げてから「イヴが力になってあげないとね」とからかう様な弾んだ声で力づける。
「なんで俺が」
「そう言いながらイヴは人がいいから。結局振り回されて面倒を見る羽目になるよ」
「冗談じゃない」
「あの子。ミュウだっけ?可愛い子じゃないか。せいぜい振り回されればいいよ」
「お前な――。グリッドがあんなのを拾ってくるから俺が迷惑して」
「それはごめんってば」
すかさず謝ってグリッドは持っていた籠を差し出した。その中には黄色の丸い果実が入っている。
「母さんが持ってけって。この前の野菜の御礼だってさ」
「あれは熱冷ましの分だろ」
「いいから。結構責任感じてるんだよ。おれ達。イヴにミュウを押し付けちゃったからさ」
そう言われたら有難く受け取るしかない。
確かに一人増えたので食料は幾らあっても困らないからだ。あの居候はまだ働けないので、仕事の邪魔をした上に人一倍食べる厄介者である。
「助かるわ」
「うん。じゃまた来るから。あの子の目の事少し気にしておいてよ」
「……分かった」
手を振って帰って行くグリッドを見送ってから籠を持って家に入ると、タバサと美羽が仲良く包丁片手にファミノイアの皮むきを楽しそうにやっていた。
そのその手つきを見る限りでは目に障害があるとは思えない。
しばらく注意して見ておく必要があるなと思いながら籠を持って二人に近づいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます