第4話 日常に訪れた非日常
蝋燭の火がゆらりと揺れて壁に浮かび上がるイヴリールの影も大きく揺れた。
床に座り込んで消毒効果と患部を冷やす効果のある薬草を合わせて磨り潰しながらそっと顔を上げて寝台を見る。
熱で上気した頬。
女の体中から吹き出た汗。
呼吸は荒く「痛い」「苦しい」といったうわ言を熱に浮かされながら時折呻くが意識は無いようだ。
あったとしても朦朧としていてここが何処なのか、今自分の状況がどんなに危険なのか分からないだろう。
女の足元の上掛けを捲って布で巻かれた右足を確認すると、傷口を押えている麻布を赤黒く濡らした血が包帯にまで染み出していた。
足首までぱんぱんに腫れ上がり土気色になった肌が丈の長い夜着の裾が乱れて膝まで見えている。
「ふざけんなっ」
こんな時にまでチラリと見える腿の内側に目がいく自分に正直情けなさと苛立ちが募る。
これではタバサの言う通り節操のない獣じゃないか。
両手で髪をぐちゃぐちゃにして目を閉じ俯いた耳に「おか……あ、さん。たす、けて。苦し」と啜り泣く声が聞こえ胸の辺りがゾワリと動く。
風変わりで聞いたことも無い様な言葉を操るこの女にも母がいて、父がいるのだと当たり前の事に気づき、家族の与り知らぬ所で命を落とそうとしている事が急に哀れに思えてきた。
「くそっ。俺はなにやってんだ」
両頬を思いきり掌で叩きつけて気持ちを切り替えると、イヴリールは手を伸ばして上掛けを脛の半ばまで下し包帯を外した。
湿った包帯を一纏めにして床に置き当て布をそっと取る。
水桶の中から濡らした布を軽く絞ってから傷口を拭うと血は止まりかけていたが、黄色っぽい膿が出ていてジュクジュクとしていた。
腫れて熱を持った足に化膿止めの軟膏を塗ると女が短い悲鳴を上げて身を捩る。
「痛いだろうが我慢してくれ。死にたくないだろ」
合わせた薬草を新しい麻布に塗りつけて患部に張りつけ、新しい包帯で巻き上掛けを綺麗に掛けてやる。
水桶の中に血で汚れた包帯と麻布を浸けて立ち上がり女を見やると、涙と汗でぐちゃぐちゃになった醜い顔がそこにはあった。
肩で息をする苦しそうな呼吸の仕方に熱冷ましを飲ませた方がいいのだとは分かっていたが、丸薬は意識が無いと飲むのは難しい。
いっそ叩き起こして無理矢理飲ませるかとも思ったが不憫に思え、今は眠らせておこうと水桶を抱えてイヴリールは家を出て川へと向かった。
川は村とは逆方向の小道―—家を出て左側―—へと進んだ先にある。
闇に沈む森の中は獣の気配と虫の音で静かなくせに騒がしい。
木々の隙間から欠けた月が見え、無数の星の輝きがまるで嘲笑うかのように瞬いている。
なんて、遠い。
記憶の中にある黒竜の里はこの地の宵闇よりも濃く深く、月の大きさも比較にならないぐらいに大きく近かった。
そして星は手の届く場所で光り、優しく温かな輝きで満たしてくれた。
黒竜は闇を操る能力を持つ。
人族の治める広大な大地を覆う夜の闇など穀粒であるイヴリールの視界を遮る事などできない。
「得た物より失った物の方が大きいな」
危なげなく川までの緩やかな下りの小道を辿りさらさらと清い音を立てる水辺へと近づいた。
桶の中の水を包帯と麻布を押えて飛び出さないように捨て、新たに水を汲むとその中で布類を揉み洗いする。
何度も繰り返して擦り洗っても染みついた黒い色は落ちないが、濯いだ水には赤い色が出なくなった所で硬く絞って桶を空にしてそこに入れ再び家への道を登って行く。
戻りたい。
そう強く願うのは竜族である本能からなのか、失われた物に対する劣等感なのか。
竜族の力はそこの場所で育まれる。それぞれの種族が生まれる土地にはその力への影響力を強く宿した場所であり、それゆえその力を保持し強く放出する場所を竜族は己の国として治め護っている。
黒竜は闇と安寧の場所である黒の里。
青竜は豊かな水の流れる清涼な国である青の里。
赤竜は火山の地熱の恵みと常夏の大地である赤の里。
緑竜は穏やかな風の吹く草原の広がる緑の里。
黄竜は豊かな大地と木々に囲まれた黄の里。
白竜は光あふれる天空にある白の里。
そこで生まれ育つからこそ多くの力を持ち、豊かで奔放な生き方をする。
イヴリールは五歳で里を出たので彼の国の恩恵を十分に受けておらず、己の力の使い方も、またどれほどの能力が備わっているのかも分からない。
あのままあそこで育っていれば得られていたはずの物に焦がれ、嫉妬を抱いている自分の愚かさや浅ましさに嫌悪しながらも、やはり竜族としての誇りが少しばかりあるせいで諦められずにいるのだ。
今更戻った所でイヴリールが手に入れることができる物など少ないというのに。
扉を開ける音が何故か耳に残った。
消えかけた蝋燭の灯りがまた大きく揺れて衝立の向こうの黄色い光が不安定にぶれた。
テーブルの上に桶を乗せてイヴリールは衝立から顔を覗かせて女の様子を窺う。
眉を寄せて顔を顰めて眠る目の端からまた涙が溢れて流れる。
開かれた唇の隙間から白い歯が見えてどこかあどけなく見えた。
大人なのか子どもなのか未だに分からない女の容姿には見苦しさと共に親近感すら感じられ、厄介事だと思っているはずなのに情のような物が芽生えている事に気づき愕然とする。
「なんなんだよ、一体」
この女と出会ってからずっと動揺しっぱなしだ。
動揺ついでに枕元まで近づいて濡らした布で顔を拭ってやるぐらいの事までした。
その布がさっき傷口を拭って川で洗ってきた布だったのは黙っていれば分からない。大丈夫だ。ちゃんと洗って綺麗にしてきたんだから。
言い訳をしてイヴリールは床に座り込むとふっと息を吹きかけて蝋燭の灯りを消した。
♦ ♦ ♦
どんな理由があろうともこなさなければならない事はやらなければならない。
そうしなければ快適な日々を過ごす事ができないし、食べていくことができなくなるからだ。
欠伸を噛み殺しイヴリールは雨水を溜めている大甕から水を木桶に汲んで畑の水やりを朝も明けきらぬ内から始める。
撒き終れば野菜の傍に屈みこんで今日食べる分のファミノイア、スカフマ、ジャリングと緑の葉を何重も巻いて丸くなったカタンを収穫し一旦家へと戻った。
家の左側にある家畜小屋の中に入り、カタンの虫に食われたり変色したりしている外側の葉を何枚か剥いで毟り兎と鶏に与える。
餌に夢中になっている間に雌鶏が寝床している場所の藁を除けて卵を二個取り、「今日もありがとな」と声をかけてから入口を閉めて家へ帰った。
タバサがさっき取ってきたばかりのファミノイアの皮を剥き薄黄味色の実を包丁でゴロゴロと切る。
黄味がかった朱色のスカフマは葉っぱの部分も刻んで、実の部分はファミノイアと同じ大きさへ。
ジャリングの薄皮を剥き始めたのを見ながら飲み水用の甕から木杓で水を汲んで一口飲んだ。
「イヴ。今日はトチノカの実を取って来てくれる?」
「でも今日はトミュとカランを植えるために畑を耕さなきゃだろ」
素直に行くと言えないのはその実がなっている場所までここから半日かけて森の中を行かねばならないからだ。
流石に寝不足の身体で遠出してまで取りに行くのは辛く、農作物を植えるための大切な仕事を放ってまで行く必要があるのかという反発も少しはあった。
「トウガもでしょ。でもそれは私がやっておくから。あんたはトチノカの実を取って来て。お願い」
植える作物の種類をひとつ足して訂正してくる母の背に揺れる柔らかに波打つ赤銅色の髪を眺めながらイヴリールは「分かった」とだけ答える。
畑仕事はタバサがやるからと言われれば、これ以上行きたくないとごねることはできない。
トチノカの実は赤く食べると甘酸っぱい味と香りが口いっぱいに広がる果物で、実同士がぶつかっただけでも痛んでしまう繊細な物だ。
長期保存に向かないので、沢山取って来ても無駄になる。
それでもその実を食べたいと大人から子どもまで楽しみに待っている果物のひとつでもあった。
「きっとトチノカを食べればあの子も元気になるわ。食欲が無くてもあれなら食べれるだろうし」
「……目、覚めたのか?」
床に座って寝ていたイヴリールの肩を叩いて、タバサが代わりに女の傍についている間に起きたのかと思えば母は首を振ってまだだと答えた。
「熱も高いから心配なのよ。少しでも起きてくれたら薬飲ませられるんだけど」
「叩き起こすか、丸薬を磨り潰して液状にして飲ませればいい」
「あんたね!」
腰に左手を当ててタバサが包丁をイヴリールに突き付ける。
紫の瞳を吊り上げて一歩近づいたその顔は真剣そのもので、そのまま刺されてしまいそうな気迫があった。
「ちょっ、危ないだろ!」
「誰の所為であの子が怪我したのか覚えてないならその頭、この場で斬り落として新しい頭と交換してあげるわよ!?丸薬を磨り潰した物を飲みたいのならあんたが飲みなさい!!」
「わ、分かった!俺が悪かったって!トチノカの実でもなんでも取ってくるから」
丸薬にした物を磨り潰して飲むなど誰もやりたがらない。
液状では飲みにくいからこそ丸薬にしてある物をわざわざ手を加えてとんでもなく苦く痺れる薬湯にするなど愚行としか言いようがない。
それを提案したイヴリールが悪いのだが、意識の無いまま眠り続ける女も悪い。
さっさと起きて薬を飲んで傷を癒し、素性を明らかにして欲しいと思う。
そして。
できれば出て行って欲しかった。
これ以上の問題や面倒事は困る。
それはタバサも同じだと思うが、母は突然現れた女に同情して甲斐甲斐しく世話を焼くのを楽しんでいるかのように見えた。
以前本当は女の子が欲しかったのだとクララと話していたのを聞いたことがある。
男であるイヴリールをタバサが疎ましがったり、邪険にしたことは無いが素性の解らない女を気に入っているのを見るとあれは本心だったのだろうと思う。
それなら何故竜族であるウィンロウと結婚したのだ。
竜族との間には男しか生まれないと誰もが知っているのに。
知っていて一緒になったのではないのか。
悔しい気持ちを押し殺してイヴリールは棚の中から堅い野菜を練り込んだパンを掴むと、壁に掛けられていた小さな把手の付いた籠を取り「行ってくる」とタバサの返答を聞かずに森へと出かけた。
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