第3話 恐れる親の心と子の郷愁
タバサは手際よく女の手当てをしてからにこりと微笑んで「終わったわよ」と声をかけた。
女は反射で笑顔を返して頷く。
言葉が解らないから返答に困り適当に頷いたのだろう。
「変わった子ね」
枝を引き抜く時に一頻りギャーギャー喚いた後は力尽きたのか寝台の上でぐったりとしている。
化膿止めの軟膏と麻布を当てて包帯で巻いただけの治療では、傷が膿む事もその結果高熱と痛みが襲う事も覚悟しておかなければならない。
猟師小屋として使われていた小さな小屋は屋根裏にイヴリールが眠り、一階の奥に衝立を置いて目隠しをして寝台を置いてタバサが寝ている。
玄関入ってすぐの左側に小さな調理台があり、鍋と食材が並べられ、床に置かれた水瓶の中には飲み水が溜められていた。
これは近くの川から毎日汲んでくる物で、数あるイヴリールの仕事の中のひとつでもある。
「変わってるって言うか……無防備っていうか」
「あの恰好じゃあんたじゃなくても目のやり場に困って動揺するわよ。途中で押し倒さなかっただけ誉めてあげるわ」
「誉めるとこ、そこかよ」
「あら?それ以外のどこに誉める所があったのか教えてもらえる?」
眉を跳ね上げてタバサは赤銅色の緩く波打った髪を結び直しながら息子を睨む。
無造作に束ねて淡い黄色のスカーフを被り直しイヴリールと同じ紫色の瞳を女が寝ている寝台へと向けた。
「叫んでた言葉は聞いたことない物だったわ。よっぽど遠い所から来たのね」
「詳しい話も今はできないだろうし。落ち着いてから聞く事にする」
「そうね。バダムとクララには悪いけど、また面倒抱え込むことになりそう」
タバサの中では事情によっては女を居候させるつもりだと決めているようだ。どこの誰かも解らない、言葉も通じない相手を。
「……面倒見る余裕も、義理も無いだろ」
「そうかもしれないけど、あの子と会話をできるのは今の所あんただけよ。それなのに見捨てるの?」
確かに現状では女と会話をできるのはイヴリールだけだ。
自分が見捨てれば女は途端に自分の意思を伝えることができなくなり、周りからは好奇の目と疎ましい目で見られ孤立する。
得体の知れない人間を集落に受け入れる村や町は少ない。
言葉を話せるのならば素性を隠して信用を勝ち得る事も可能かもしれないが、女の操る言葉を理解できる者などいない。
いや。
「俺と同じ竜族に運よく出会えれば問題ないだろ」
不貞腐れたイヴリールを横目で見てからため息を吐くとタバサは「運よく出会える可能性はかなり低いけどね」と棘のある声で同意する。
「いっその事竜族に託しちまえば良いんだよ。俺達があの女を匿えばまた村の奴らになんて言われるか」
「生涯一人の女を愛すると誓いながら、あっさり浮気して子供まで作っちゃうような竜族にあの子を預けるなんて!そんな酷い事をよくも言えるわね!」
軟膏を塗った際に拭った手拭いを怒りに任せて息子に投げつけタバサは女の敵だと言わんばかりに目を剥く。
「あそこは男しかいない無法地帯よ!そんな所に女の子を入れたらどうなるかっ」
ぶるりと震えてタバサが息を飲む。
「いや。竜族は男ばっかりだけど、伴侶の女性だって一緒に住んでるんだし。無法地帯ってのとはちょっと違うだろ」
「飢えた雄竜が子孫を残すために人里に下りてきて人族の女を攫って行くって昔話は古来より語り継がれてきた真実よ」
かくいう私もたぶらかされて竜族の住まう国へと渡った愚か者だけど、と悔やむように続けてイヴリールを指差した。
「いつあんたが村の女の子に手を出して竜族の国へ連れ戻るかもしれないと怯える母の気持ちを、あんたはちっとも理解してない」
「……じゃあその、女と見れば見境ない竜族の俺がいるここで、あの女をここに住まわせるのは矛盾してんじゃないのか?」
イヴリールがふいっと顔を横向けるとタバサは「バカね」と小さく笑ったようだった。
「あんたはあの好色なウィンたちとは違う。普通の竜族とは違って人族の世界で大きくなった、理性や人族の決まりごとを守れる貴重な竜族なんだから」
「その割には信用してないような事さっき言ったよな」
「黙りなさい!これは覆す事の出来ない母の命令です!あの子の事情がはっきり分かって、どうしたいのか言えるようになるまでここで預かります」
タバサには言葉を操れない女を放り出す事は到底できるはずも無く、そして覚悟を決めた母に刃向う事もイヴリールには許されていない。
「返事は?」と求められてできる事があるとしたら「はい」と首肯するだけなのは幼い頃より刻まれた教育の賜物である。
「さて。そうと決まればあの子の服を用意しないと」
壁際に置いている木箱の衣装箱へと向かう母の後ろ姿をチラリと見てからため息を吐く。
そういえば春先の不安定な寒さでタバサが風邪を引いて、最後の熱冷ましを使ってしまったことを思いした。
今宵熱が出るだろう奇妙な女のために一仕事しなくてはならない。
「じゃあ俺はグリッドのとこに行って熱冷ましの薬草貰ってくる」
「あ!ついでにスカフマとファミノイアを畑から引っこ抜いてクララのとこに持って行って、あの子しばらくうちで預かるって伝えてきて」
気の進まぬ用事で出かけようとしているのにタバサは更に嫌な仕事を押し付けてきた。
「なんで俺がっ」
「母はこの子の看病をしなくてはいけないからよ」
「言葉分からないくせに!」
「イヴ、人はね、言葉など無くても意思疎通はできるのよ」
眉を寄せ少し困った顔をしてタバサは言い聞かせるようにゆっくりと話す。
こういう時はまるで子ども扱いされているかのようで神経が逆なでされるが、ぐっと堪えて「最低限の、だろ」とだけ返すととタバサはにこりと微笑んだ。
「それで十分でしょ。さあ無駄口叩いてないでさっさと行く!」
追い立てられてイヴリールは衝立の外へと飛び出した。
そしてがっくりと肩を落として玄関へと足を踏み出すとタバサが女の枕もとに移動したのか、優しく「貴女は運の良い子ね。言葉の分かるイヴと出会えたんだもの」と囁いた声が聞こえた。
意味は分からないだろうに。
母の優しい声と顔の表情から察したのか女が小さく「ありがとう」と答えたのが耳に届いた時、何故か無性に心がざわついてイヴリールは足音をわざと立てて床を進んで扉を開けた。
玄関扉の右横には薪を積んで置いている。そして左横には農具が置かれ、そこから籠を取り肩に担ぐと薪置き場の前を進み小屋の裏手にある畑へと向かった。
畑は狭いが母子が人食べるだけの野菜を作る分には十分だ。
今はスカフマとファミノイア、ジャリングとカタンが収穫されるのを待っている。
青々とした葉が茂る中タバサに言われたスカフマとファミノイアの植わっている場所へと分け入り、ふわふわとした細い葉がついた茎の下から赤い色の頭が土の中から出しているスカフマの付け根を掴んで引っこ抜く。
土を払って肩越しに籠に入れ、更に二本抜いて葉が枯れかけているファミノイアの方へと移動する。
畝の外側から手を使って二株分掘り返すと子どもの握り拳くらいの薄茶色の実を拾い集めて駕籠へ入れて立ち上がった。
ついでに香りが強い球形の実、ジャリングも三個ほど抜く。
「これぐらいでいいか」
手の泥を払ってから小屋の横を通って村へと続く唯一の道をもう一度歩く。
木々が思い思いに枝を伸ばしているので道の上には影が落ち、涼やかな風も通り抜けていた。
こうしているといつもの日常と変わらないのに確実に面倒事を抱え込み、更に女から事情も聞けないままバダムの所へと報告へ行かねばならないのだと思うとやはり気が重い。
太陽がゆっくりと傾いてその力を弱めて行くのを見てイヴリールは白竜が治める光あふれる国を思う。
そこは夜の少ない所で天空にあると聞いたことがある。
自分が五つまで住んでいた黒竜の地は逆に日のある時間が少なく、闇の中に星のような光が舞う国だった。
イヴリールはあの国が好きだ。
静かで、安らかな時が流れるあの場所が。
「あのクソ親父が余所の女なんかに手を出さなけりゃ」
舌打ちしても現状が変化するわけでは無い。
父であるウィンロウが母タバサ一筋だったのは子供のイヴリールですら分かるほどで、そんな愛妻家の父がなぜふらりと人族の住む土地へと降り、どんな経緯で行きずりの女と関係を持ったのか理解に苦しむ。
男は愛情がそこになくても女を抱ける。
これは村一番の女たらしジョーが笑いながら言った言葉だが、そこには確かに真実もある。
魅力的な女性が誘って来たら初めて会った相手とでも寝台を共にできるのは男の子孫を残そうという本能が働くからだろう。
だが。
ウィンロウは人族ではない。
母に父が言った通り生涯一人の女しか愛さないのが竜族の男で、他の女に幾ら誘われ、泣いて乞われたとしても浮気などしない。たった一晩の一刻だとしても肌を合わせるような行為に及ぶとは考えられない――はずなのに。
「子どもまで作りやがって!」
竜族の子どもを産むことは人族の女にとっては負担が大きく、どんなに強靭な身体に恵まれていようとも二度の出産は難しく確実に命を落とす。
つまり兄弟がいるという事は余所に女を作り、その女に子どもを産ませた不実の男として言いふらしているような物。
タバサはあの国で自尊心を踏み躙られ、同情した黒竜たちの手を借り国を出て故郷へと帰ってきた。
自分は決して父のようにはならない。
あんな惨めな思いを母にさせた父をイヴリールは恨んでいる。
「一人の女も幸せにできないような男が、他に手を出すなんて有り得ない」
太陽が沈む方を睨んでウィンロウを責めるがその声が彼の国へと届くことはない。
竜族が治める地は人族の治めるこの広大な大地とは別の次元にあるのだから。
毒づきながら歩いていたらいつの間にか村の入り口を通り越していた。
「やべっ」
グリッドの家は入口から入って右奥の森の近くにある。
このまま真っ直ぐ行ってしまえばバダムの家の方へと向かってしまう。慌てて右へと道を折れて進むと民家からは煮炊きする良い匂いがしてきた。
肩に担いだ籠の重さを思い、やはり先にクララへと野菜を届けて報告をしてきた方がよかったかもしれないとチラリと過ったが頭を振って進む。
柵で囲まれた家が見えてきてイヴリールは早足で近づいた。
腰の高さの木の門を押し開けて中へと入ると薬草を栽培している畑と果実のなる樹が多い庭に出る。
ちょうど洗濯物を取り込んでいたグリッドの母が「どうしたの?薬が入用なの?」と気づいて声をかけてくれた。
「熱冷ましの薬が欲しくて」
「熱冷まし?タバサ風邪でも引いたの?」
乾いた衣服と布を山盛りにした籠を抱えて心配そうな顔で尋ねてくる。
手短に迷い込んできた怪しい女が怪我をしたことを伝えると「ああ、グリッドが見つけてきた不思議な子のことね」と了解し、玄関に向かって「クラップ!」と旦那を呼びながら入って行った。
その後ろに続くと奥の方から白いエプロンを着けた中年男が出てきた所だった。柔和な笑顔はグリッドと同じでイヴリールを見てもその表情や態度は変わらない。
「やあ、イヴ。どうしたんだい?」
「今タバサの所にいるグリッドが連れてきた女の子が怪我したらしくて、熱冷ましが欲しいって」
「怪我?化膿止めの軟膏は?」
「まだあるから。熱冷ましだけ」
「そうか。すぐ用意するから、ちょっと待ってて」
必要なことを聞き終えてクラップは作業部屋へと戻っていく。
ほどなくして優秀な薬師は熱冷ましの丸薬を用意して手渡してくれた。礼を言い、代わりにスカフマとファミノイアとジャリングを置いて外へ出た。
夕日色に染まり始めた道を次は村長の家まで急いで向かい、扉を叩くとクララが笑顔で迎えてくれた。
美人というよりは柔らかい雰囲気の癒し系で、娘のローラとは全く似ていない。
その場で残りの野菜を渡して説明するが「私から話しておいても良いけど、きっとあの人はいい顔しないから。悪いんだけどイヴから伝えてくれる?」と身体を端に寄せて扉を大きく開く。
渋々中へと入ったイヴリールの背中をポンポンッと叩いて励まして、クララは台所の方へと歩いて行った。
本日二回目の村長の部屋へと続く廊下を進むと、夕食の準備をしている良い匂いが家中に充満しており腹がぐうっと鳴る。
さっさと終わらせて帰りタバサと夕飯を食べようと奮い立たせて「小父さん。イヴだけど」と声をかけた。
「入りなさい」
どこか疲れたような返答にイヴリールの気持ちは一気に下がる。ノブを握る手になんとか力を入れてゆっくりと回し押し開いた。
部屋の中央にある向かい合った椅子の向こうにある立派な机の上は羊皮紙の束が置かれている。
村の記録を毎日つけるのも大切な村長の仕事であり、今日は書くべきことがたくさんあるに違いない。
疲れ切ったような姿のバダムにあの厄介事をしばくうちで預かることにしたと伝えるのはとても恐ろしく、面倒くさいことだった。
「どうした?あの女は何処から来た何者なのか聞いたんだろう?」
なかなか話し出さないイヴリールにぐるりと大きな目を上げて、不機嫌さを隠さずに報告を促してくる。
「それが、家に連れて行く途中で枝を踏み抜いて怪我して。詳しい事情がまだ聞けて無い。しかも」
「どうした?」
タバサからの伝言を口にするのを躊躇ったイヴリールを鋭い視線でバダムが先を促してくる。
逃げられない。
「母さんが、あの女をしばらくうちで――預かるって言ってて」
言い淀んで言葉を探したが、結局は良い言い回しを思い浮かぶ事ができずにそのまま伝えた。
バダムが顔を顰めて額を押え深いため息を吐き出すと「イヴ……」と呻くように名を呼ぶ。
「この村から出て行ってくれるように説得するのがお前の役目だったはずだ」
「俺は始めに説得できるかは分からないって」
反論しようとしたが再び大きなため息で遮られる。
「どうしてセロ村にばかりこんな厄介で面倒な事が起こるんだ」
じっとりと目を据えられてイヴリールは唇を噛んだ。
そんな事を言われてもあの女がここへと来たのは自分の所為ではない。
それでも自分がこの村にとって厄介な存在であることも、そのせいで故郷で肩身の狭い思いをしている母の姿をずっと見てきているから。
我慢しなくては。
「まあ、いいだろう。あの女の怪我が治って元気になったら、しっかりと説得してくれよ。そもそも些細な怪我が原因で死ぬ可能性も無いとはいえん」
縁起でも無い事を言い放ち、バダムは口を歪めて笑う。
「これも何かの縁かもしれないしな。お前にしかあの女の言葉は分からない。お前が一生守ってやれば問題は無いか。これで村の若い娘を持つ親は安心して暮らせると思えば、あの厄介な女を受け入れる事も悪い事ばかりではないのかもしれんな」
「…………俺の一存ではなんとも言えない」
お互い選ぶ権利はあるだろう。
無理矢理押し付けられるのも、相手の意思を無視して縁を結ぶのも本意ではない。
「しばらく様子を見ようじゃないか」
バダムが朗らかに微笑むと立ち上がり、帽子を取って頭に乗せた。
机を迂回してイヴリールの肩を叩いて「どちらへ転ぶか楽しみだな」と囁いて出て行く。
拳をきつく握り、苛立ちと不快感を押さえつけてゆっくりと息を吐いた。
バダムが悪いのではない。
彼は自分の娘であるローラがイヴリールと婚姻を結び、村を出て竜族の治める国へと行ってしまうのではないかと恐れているだけなのだから。
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