4章:過去からのバトン

「終わった…」

私は思わず呟く。今までに感じたことのない達成感が心を穏やかにした。

昨日、発狂してからの今日は、朝から本当に落ち着かなかった。

運良く金曜日の授業でノートを取った教科が数学だけだった事と、そっけない対応をしてしまった向日葵が、何も気にしていなかった事に心が軽くなった。

「お疲れー」優花が微笑む。

「ありがとー」

こんなに感情任せに動いてしまう私に、根気よく向き合ってくれる優花だか、もしかしたら逆に何も感じていないんじゃないかと不安になる。

でも優しい事に変わりはない。

「よく頑張ったな」

背後から声がした。

「あ…」また幻想が現れた。私は隙を見て優花から離れる。

人気の少ない特別教室がある校舎の1階に、私は笑人を連れて行った。

「また現れたね」

誰もいない薄暗い廊下に、私の声だけが響く。

「もう次はないよ」

笑人の声は、酷く掠れていた。

もう次はない、その言葉から連想させられる現実に私は心底怯えた。

「…もう会えないの…?」

彼はゆっくりと首をコクリと動かした。

「もう用は済んだから」

「どういうこと…」

笑人は何らかの事情があって私の前に現れていた、ということなのか。

「いずれ分かるよ」

さっきから笑人は私と目を合わせない。本心を隠している。

「私は悲しいよ。だって幽霊にまでなって現れてくれてたのに、もう次はないって…」

私の声も掠れた。でもまだ言わなければいけない事がある。

「ー大好き」

笑人はビクッと肩を震わす。でもこれで良かった。

笑人の心に響く言葉を伝えられただけで、私に「悔い」は残らない。

「俺は…」

続きを聞きたい。でもそれを言ってしまったらー。

笑人はグッと唇を噛み締めた。それ以上、自分の思いを口に出さないようにしている。 

「言わなくていいよ」 

私は優しく語りかけた。

ー言わなくて良い。続きはもう分かってる。

「ー私は生きるよ」

笑人はゆっくりと顔を上げた。少し揺らいだ瞳が私を捉える。

彼が亡くなる前日、私に伝えてくれた願い。

ー俺は光羽が生きていてくれたら、それでいいよ。

「うん。じゃあ安心だ」

笑人はそれ以上、口を開かなかった。

そして目の前からー消えた。


どれくらいの時間が経ったのだろう。

おそらく数分しか経っていないのに、何時間もここにいるみたいだった。

今は放課後だ。もう帰ればいいのに、私はこの場から動けずにいた。

目から雫が滴り落ちた。

ー私は泣いている。

自覚した瞬間、もうダメだった。

「うっ…う…っ」

咄嗟にしゃがみ込んだ私は、泣き声を誰かに聞かれないように口を塞いだ。

笑人が、亡くなってからも会いに来てくれた。そして辛い期間を数日だったけれど、見守ってくれていた。

優しいのに、本当に優しいのに、もうこの世にいない。

そんな残酷な現実を、自分の不甲斐なさを、私は呪った。

一生許さない。

ーそんな時だ。天から降ってきた、君の声。

「どうしたの」

癒やしの意味を持つ「葉」を持った彼はー。

「天葉…?」

「光羽」

あまりの衝撃に動けなくなった私に、天葉は声をかけてくれた。

廊下の真ん中でしゃがんでいたとはいえ、泣いていた私に、彼は壁際へ寄るように誘導した。

しばらくすると天葉が口を開いた。

「何かあったの?」

彼の優しい声に、一瞬心が揺らいだ。でも笑人の事は話したくない。

私はコクリと頷き、腕の中に顔を埋めた。

「そっか」

それ以上追求してこないのは、おそらく私が今泣いている理由に心当たりがあるからだろう。

そういえば…天葉も小学校5年生の時、不登校の時期があった。

もしかしたら、他の生徒よりも私の気持ちを理解してくれそうな気がする。

他の人とは違って、辛い思いをしている人に対しての関わり方に慣れがある。

天葉には誠実な対応をしよう。そう思った直後に出た言葉は謝罪だった。

「ごめんね…」

「いや、大丈夫」彼は即座に返す。

天葉の穏やかな声に心を溶かされた。私は再び口を動かす。

「…泣いたのは天葉に関係のないことだから、言わなくてもいい?」

「俺にわざわざ聞くことじゃない。光羽が決めること」

「うん、そうだね…」

私はそれっきり、しばらく口を閉ざしていた。しかし天葉は、その場から立ち去るどころか私の隣にしゃがみ込んできた。

嫌悪感や緊張感は一切無かった。

「なんでこんなところに来たの?」

天葉は驚いたような顔で私を見つめる。気まずくて、さらに言葉を続けた。

「え、聞いちゃダメだった?」

「いや…、別に気分でだけど」

こんなところに気分で来る人は、私以外にはいないと思っていた。

私が来るのは1人になりたい時だ。後は疲れた時。

天葉も何か抱えているのかも知れない。私は「そうなんだ」と素っ気なく返し、深入りはしなかった。

数秒の沈黙の後、天葉ののんびりした声が聞こえた。

「学校にいるより帰った方がいいんじゃない?」

確かに、今の私の状況なら帰った方が妥当だろう。これ以上、天葉に迷惑をかける訳にもいかない。彼には今日、部活があったはずだ。

「うん。ありがとう」

お礼を述べた途端に、男子の前で泣いてしまった気まずさが私を襲った。

頭を下げ、そそくさとその場から離れた。

背後から視線を感じたが、気づかないフリをした。


   ※ ※          ※ ※


俺は部活のために校庭へ向かうまでの間、さっきまで隣にいた女子のことを考えた。

彼女はー泣いていた。

去年の後半、学校へ来ていなかったのは知っている。あんまりいい話を聞かなかったことも分かっている。

俺も小学校の時、不登校だった時期があるから、なんとなく放っておけない。

それ以外の思いなんて、関係がないー。


「俺が死んだらさ、光羽と仲良くしなよ」

俺の友達だったやつは、去年冗談めかしてこう言った。

死んだら、なんて縁起でもないこと言うなよ、ってこの時はずっと思ってた。

でもこれを俺に言ってきたやつはー本当に死んだ。

そいつは…笑人は、光羽を愛してたんだ。多分、今も。

俺は、笑人の想いまで背負ってるんだ。

ー絶対に、光羽を守る。

それが、友達だった笑人に…いや、今でも大事な友達に出来る唯一の「償い」だ。

俺は、過去に光羽の「光」を封印したー。


俺は小学校6年生の頃から光羽が好きだった。

おそらく俺の初恋だ。顔を見るたびにドキドキしたし、付き合いたいとまで思った。

でも俺の光羽に対する気持ちは歪んでいた。

好きなはずなのに、日が経つにつれ「嫌い」という感情が芽生え始めた。

大好きと大嫌いが混同してきて自分でも収集がつかなくなってきた。

だから俺は、ずっと光羽を避けていた。

誰にも光羽が好きだ、なんて言わなかったし、俺の口から光羽の話題を出すことも無かった。

おそらく親との関係が、俺の性格に問題を生じさせているのだろう。

だから、光羽から距離を置けば、この強い感情の嵐も収まると思っていた。

でも去年、笑人と出会ってしまってから、俺は変わってしまった。

正確には、心が浄化された、に近いかも知れない。

小6の頃から光羽が好き。親と仲が悪い。誰にも言えなかった、言うつもりもなかった事が、笑人にはスラスラと言えた。心に住み着いて離れなかった闇が、笑人と話している時だけは本当に落ち着いた。

光羽に対しての気持ちも、汚いものから純粋なものへと、ゆっくりと、でも確実に変わっていくのを感じた。

俺も少しづつ変わろう。そう思っていた矢先ー。

光羽が不登校になった。笑人が死んだ。

生前、笑人が言っていた光羽への気持ち。本当に大好きなんだと、言葉が態度が表情が語っていた。

そんなにキレイな心で誰かを想う。

俺には絶対に出来なかったことだ。

ー俺は変わる。笑人の想いを受け継いで、光羽を守る。

それが笑人への償いであり、光羽を救うことだからー。

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