百物語が終わるとき

かかしのクロウリー

青行燈についての考察

 さて、次は僕の番だね、これで長かったこの会も最後だ。


 こほん。ええと、まずはみんなに言いたいことがある。この度の怪談会に来てくれて、本当にありがとう。まさか本当に百話語りきることができるとは、思ってもいなかったよ。 どの話も個性的で、不気味で、背筋が凍るような……素晴らしい怪談だった。


 今日の怪談会は、百物語の形式に則って進めていった。皆も知っての通り、百物語というのは文字通りに百の怪談を語る会合に、儀式めいた様式をあてたものだ。特に今回は部屋の中に百本のろうそくを立て、一話語るごとにひとつずつ吹き消してゆくという江戸後期のスタイルに倣って執り行わせてもらった。

 そして、じっくり九時間かけて九十九話を語り終えたところだ。残るろうそくはあと一本。これが最後の話なんだが……


 ああ、ごめんごめん。前置きが長くなってしまったね。でもこれは大事なことなんだ。これから話す内容と深く関係しているから、ちゃんと聞いてくれると嬉しいよ。


 とはいえ、必要な前置きはこのくらいかな。では百話目に入らせてもらう。タイトルは「青行燈についての考察」だ。




 百物語の百話目を語り終え、最後の灯が消えたとき、本物の怪異が姿を現す……そんな話を聞いたことがあるかな。今の僕たちの状況に置き換えて語るなら、まさしく今みんなの中心にある、最後のろうそくを吹き消せば、僕たちは「本物の怪異」とご対面する。そういう怪談話だ。


 その「本物の怪異」とは何か?という話だが、それは「青行燈あおあんどん」という名で知られている妖怪だ。色の青に、照明器具の行燈で、青行燈と書く。


 僕はこの妖怪の名前を、初期の百物語の形式に由来すると考える。古い記録によれば、初期の百物語ではろうそくではなく行燈を使っていたのだそうだ。そして、その際使う行燈には青い紙が張ってあったとも云われている。

 そんな青行燈だが、名前こそは知られているものの、それが何をするかは実はよくわかっていない。「百物語の終わりに現れる」とされる一方で、具体的に何をする存在で、どのような姿なのか。その一切が謎なのだ。


 正確に言えば、百物語が終わったときに何が起こったのか、という逸話はないわけじゃない。百物語の終わりに天井から巨大な蜘蛛が現れたとか、物が降ってきたとかいう話はあるが、それは「青行燈」ではなく「百物語の怪異」として括られることが多い。まあ、天井裏から降りてきた化け蜘蛛に「青行燈」なんて名前はつけないだろうし、これらは独立した別の怪談、妖怪と考えるのがいいだろう。

 姿に関しては、江戸時代の有名な妖怪画家・鳥山石燕とりやませきえんの絵画では、青行燈は鬼女の姿で描かれている。しかし、この姿に関する一次出展はなく、彼の創作であると考えられる。


 つまり、青行燈の実像は、としているわけだ。たった一つの、風に揺れる小さな灯に照らされているかのように、ぼんやりと、曖昧模糊としてその正体は分からない。わからないがゆえに好奇心をそそり、人々はその正体を垣間見るために怪談話を集める……そういう存在なんじゃないかな、と、僕はそう思っていたんだ。



 。そう、思っていたんだな。実は、今はそうじゃないんだ。



 話は変わるけれど、メタフィクションという言葉を知っているかな。例えば、舞台上の役者が観客に語り掛けたり、漫画の登場人物が作者の絵の出来を揶揄する表現を、一種のギャグ表現として一度は見たことがあるのではないかと思う。こういう「フィクションの中で、自身のフィクション性について言及する」ことをメタフィクションという。


 怪談は、時にメタフィクション的な性質を露骨に表すことがある。例えば、小泉八雲の「茶碗の中」がそれだ.「茶碗の中」は幽霊譚だが、話の途中に前触れもなく唐突に終わってしまう。そして、「話の続きは分かりません、ご想像にお任せします」と終わってしまうのだ。また、有名なネット怪談のひとつ「リアル」では、ネタバレを含むため詳述は避けるが、物語全体にある仕掛けが施されている。


 あるいは逆に、物語の読者や聞き手を物語の世界に引きずり込み、フィクションとノンフィクションの境界線を破壊するものも数多くある。怪談「カシマレイコ」や「紫鏡」は、この話の内容を知るものに呪いをかける。さっきの例とは対照的に、物語が聞き手の側にはみ出してくるのではなく、聞き手を物語の中に取り込んでしまうわけだ。最近ではむしろ、単純なフィクションよりもこちらの類の怪談の方が多いくらいかもしれない。


 そしてその最たるものこそが、怪談「牛の首」だ。「牛の首」の内容を語ると、物語そのものに染み付いた呪いによって、語ったもの聞いたものはみな命を落とすという。ゆえにこの物語を知るものは現代にはおらず、今や誰もその全容を知ることは出来ない……そういう話だ。全体的な構造は「カシマレイコ」や「紫鏡」と同一だが、まるきり中身が失伝していて、その内容はすべて読者の想像力に委ねられるというのが面白い。


「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という句を知っているかな。恐ろしい幽霊を目撃したと思い、好奇心に駆られ近づいてみると、実はそれはただの風に揺れるススキ……大したことのない見間違いに過ぎなかった。という俳句だ。なんとも教訓めいた一句だが、逆に言えば「正体を確かめることのできない幽霊は怖い」という事でもある。


「クトゥルフの呼び声」の著者として有名なアメリカ怪奇小説の大家、ハワード・フィリップス・ラブクラフトに曰く、「人間の最も古い感情は恐怖である。とりわけ、未知のものへの恐怖である」のだという。牛の首とは、言い換えれば混じりけのない純粋な「未知」だ。ゆえに不気味で、ゆえに恐ろしい。あるべきものがそこにないのっぺらぼうのような、強烈な違和感だけで構成された物語構造のがらんどう。それがこの物語、「牛の首」なのだろうね。


 ……ん?百物語の話とメタフィクションの話がどう関係するのかって?もちろん、その話をこれからしようと思っていたんだよ。そうだね、メタフィクションと怪談の関係性についての話はこのくらいにして、一旦百物語の話に戻ろうか。

 ろうそくがだいぶ短くなっているし、どっちみちそう長くは話せないだろうから。



 お気づきの通り、百物語、ないし青行燈もまた、一種のメタフィクション的な要素を内包した怪談だ。なにせ、百物語の終わりに、語り手兼聞き手である我々は、最終的に青行燈の起こす怪奇現象に巻き込まれることになっているのだから。


 これもまた「カシマレイコ」、「紫鏡」、ないし「牛の首」と同じ仕組みの、物語の読者や聞き手を物語の世界の構成要素にしてしまう物語だと言えるだろう。



 何故、僕がこんなに勿体ぶった話し方をしているのか、そろそろわかってもらえたかな?

 恐ろしいんだよ。この物語を語り終えた後に起こることが。だから、できるだけ長く長く話を引き延ばしているんだ。意味ありげに倒置法を使ったり、反復表現を使ったりしながらね。


 そして何よりも恐ろしいのは──先ほど「未知への恐怖」についての話とは矛盾するが──この後何が起こるのか、僕はもうということだ。いや、恐ろしいというよりは、絶望しているに近いかな。いうなれば、幽霊の正体が気になって近づいたら本物の幽霊だった、みたいな話だ。


 青行燈も百物語もたかが怪談話だろうに、と思うかい? ばかばかしいと笑うかい? 君たちは信じていないかもしれないけれど、僕はが実際に起こると心の底から信じているんだ。狂人の戯言と思ってもらっても構わない。別に君たちは時間に追われているわけじゃあないだろう? 繰り返しになるが、とりあえず最後まで聞いてほしい。



 さて、話をどう引き延ばそうか……そうだな、青行燈にちなんで、「青」の話をしよう。


 先ほど言った通り、初期の百物語では、青い紙を張った行燈で部屋を青く照らしながら物語を語ったそうだ。何故、赤でも緑でもなく青なのだろうか。不思議に思わないかい。


 青というのは、古くは広い意味を持つ言葉だった。そもそも「あお」という言葉の語源を知っているかな。日本語の色名の中で、「黄色い」のように「○○色い」ではなく、「青い」のように「○○い」と形容詞に変化させることができる色名は、標準語では四つしかない。その四つこそ、日本で最も古い色名であると言われている。つまり、赤い、白い、黒い、青い、この四色だ。意外に思うかもしれないが、黄色や緑色は後から加わったものなんだよ。


 あかは「あか」るい色だから「あか」。くろは「くら」いから「くろ」。しろは目立つから「いちじるしい」とか「しるし」とおなじ語源の「しろ」。そしてあおは「あわ」いから「あを」。つまり先ほどの質問、「青の語源とは何か」の答えは「淡いから青」だ。黄色やピンクなどの目立つ色は当時は「あか」や「しろ」に分類され、暗くもなく明るくもなく派手でもない、灰色とか緑色とか茶色のような、その他のぼんやりした色を青に分類していたそうだ。その曖昧模糊さは、一定の物語を持たず正体のわからない青行燈の逸話と通じるところがある。そう思うのは、果たして僕だけかな?


 これは日本語に限った話ではなく、世界中のほとんどの言語では、まず赤、白、黒、という分類が最初に生まれ、その後に青、緑、黄色、茶色、灰色などの区別が生まれたということが分かっているのだそうだ。


 そして日本語でもまたご多分に漏れず、「あを」という大きなくくりの中から緑や灰色、茶色といった色が現れたことで「赤でも黒でも白でもないその他の色たち」であった青から少しづつ色が独立していって、残ったのがブルー……今でいうところの青なのだそうだ。


 つまり、青という色名の意味は、「その他あわいいろ」の中でもさらにその他、まだよくわからない色という意味であるという訳だ。

 まるで、古来謎とされてきた様々な現象の正体が科学の力で正体を暴かれていく中で、まだ科学現象として名付けられなかったものが「隠れていて見えないもの」という意味の「オカルト」という言葉であらわされるのと同ように……。

 青がそんなにもぞんざいに扱われてきたのには、実は理由がある。青という色は有名な色の中でも、思いのほか珍しい部類の色だからだ。


 なにせ自然界の中で、本当に青いものはそう多くはない。青空、青い海、竜胆りんどうのような青い花、ラピスラズリのような青い希少な石。一部の魚。以上だ。あとはせいぜい肌を透かして見える静脈や、死体の肌の色が青に見えなくもないくらいか。藍染のための汁は加工品だから、自然物とは言い難いだろうし、除外させてもらうよ。


 さて、そうなると、青というのは昔の人にとってはもっぱら空と海の色だったわけだ。つまり、この世界の背景の色。この世のものではない色。透明とニアイコールな、無限遠のものの持つ色。あるいは死体の色。


 異説として、「青」は「藍」と同じ語源であり、「会う」や「間」に通ずるという説もある。現世と異界を遮り隠すオクルードヴェールの色、と言うわけだね。

 だから、僕はこう思うんだ。青行燈の青とは、この世のものではないものの色で、この世の果ての色でもあるんじゃあないかと。海の底、空の果てにある、この世ならざる死者の国の色。「ここから先は何もない」を現す色。それこそ、物語の終わりを飾るに相応しい色じゃないか……とね。




 ……さて、ずいぶんと長々と語ってしまったけれど、この話がどこに着地するか、もう想像がついたかな。まだならば、想像する時間をあげよう。こんな話を聞いてくれているんだ。恐ろしいことを想像するのは好きだろう。


 必要なことはすべて話したよ。できるだけ長く考えてほしい。君たちが考えている間は、僕はこの話の語り手で居続けられるのだから。















 うん、そうか。それが君の答えか。


 なら答え合わせといこう。


 ろうそくが消えかけている。もはや吹き消すまでもないね。


 青い光がすぐそこに見えるのがわかるかい。それは第四の壁だよ。あそこから先は物語の外側だ。そしてそこに僕たちは行けない。



 そう、僕たちがいるのは、いわば物語の最後のページなんだ。僕らは初めから語り手・聞き手でなく、登場人物だった。

 だから、僕らはもう少しでいなくなる。フィクションだからね。そしてすぐに忘れられて消えていくんだ。


 これが青行燈だよ。要するに青行燈とは最後のピリオドなんだ。文字通りの物語の終わり、一つの世界の終わりさ。


 ほら、もう数スクロールだ。すぐに終わる。

 もうすぐだ。





「茶碗の中」は、その途中で物語が唐突に終わってしまう。




「牛の首」は、物語の世界と話し手・聞き手の世界の間の境界線を壊す物語だ。




「青」。越えられない境界線の色。




 ろうそくの光が揺らめいているね。それが消えた時が物語の終わりだ。物語が終われば、僕らは不要になる。完結した物語の登場人物は死んでいるわけでも生きているわけでもない。最初からいないんだよ。物語なんだから。


 ああ、火が消える……って言うと「死神」みたいだね、知っているかな。有名な落語なんだけれど。詳しく語りたいけれど、どうもそのためにはこの物語に残された余白はあまりに狭い。……これはフェルマーの最終定理のパロディだよ。



 もっと話を引き延ばしたいけれど、そんなことをしても物語は終わりに近づくだけだ。悩ましいけれど、その悩みももうすぐ終わる。



 ろうそくの灯が揺らぐ。

 話の種はもう尽きた。

 あと8行で結末だ。

 百物語が終わる。

 青行燈が来る。

 火が消える。

 君たちも。

 物語も。

 僕も。

 青。

 。

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