本編
長女のモイラが初めて言葉らしい言葉を発したのは、一歳三カ月のころだった。
モイラは、子育て支援センターで会う子たちよりも明らかにおしゃべりが遅れていたが、私も夫も「いつかは話してくれるだろう」と、のんびり構えていた。
しかし、やはり我が子が最初に口にする言葉が何になるのかは、親として気になるもので。モイラがふにゃふにゃと何かをしゃべるたびに、夫婦二人でひっそりと耳を澄ませていた。
それは、突然のことだった。いつものように、リビングで絵本の読み聞かせをしていたとき。モイラがジッと、どこかを見つめはじめたのだ。そのとき読んでいたのは、モイラが大好きな、あおむしの絵本。いつもは、よそ見なんてしないのに。どうしたんだろうと、私はモイラの視線をたどった。
しかし、そこにはなんの変哲もない、我が家の低い天井が広がっているだけ。脳内で首を傾げながらも、私は絵本の続きを読もうとした。するとモイラが、ふっくらとした右手をあげて、いったのだ。
「くさい」
「え?」
「くさいっ、くさいっ」
「も、モイラ?」
意味もわからず、いっているのか。あるいは、夫がたまにみている動画サイトの影響だろうか。「まだモイラには見せたくない」と、あれほどいったのに、さっそくマネをしはじめてしまったじゃないか。
モイラが初めていう言葉は「ママ」か「パパ」、どちらだろうね、とよく話していたのに。その結果が、これ。がっかりだ。
まあ、はじめから諦めるしかなかったのだろう。今は、テレビ、ラジオ、パソコン、スマホと情報があふれる世の中なのだ。よその家でも、こういうことはあるのかもしれない。我が家だけが特別、なんてことはないのだろう。
だが、夫にどう伝えるか迷った。愛しの愛娘のはじめて発した言葉が「くさい」だなんて、ショックを受けるかもしれない。ただでさえ「大きくなっても、嫌わないでくれよ」と、今から娘に泣きついている夫だ。
さんざん悩んで、結局、真実はふせることにいた。
夜、夫が帰ってくると、私は申し訳なさそうに、耳打ちした。
「モイラ、しゃべったっ」
「えっ、本当? なんていってた?」
「バナナ、っていったよ。ふふ、モイラの大好物だもんね」
「あらら。大好物に負けたかあ。動画は、撮れた?」
「ごめん、一瞬だったからさあ」
「だよなあ」
今は、これでいい。いつかは、笑い話になる思い出だ。
その日がくるまで、夫には黙っておこう、と思った。
最近、モイラが泣くことが増えた。
機嫌よく遊んでいると思ったら、急に泣きはじめる。
オムツもミルクも問題ないので、とにかく抱っこをして、あやす毎日。
「モイラ。大丈夫だよー。ママ、いるよー」
「くさいっ、くさいっ」
モイラはそういって、とにかく泣いた。なぜそんなことをいうのかは、わからない。
モイラが泣くので、生ゴミはいつも真空パックに入れて、ゴミの日まで冷凍庫にしまった。ゴミ箱にも消臭剤をつけた。洗剤も柔軟剤も、無臭のものに変えた。
あとはいったい、何がにおっているというんだろう。くまなく家中を探すが、これといったものはこれ以上思い当たらない。
「モイラ、どうして泣くの? 何がくさいの? ママに教えて?」
「くさい……くさい……」
モイラはずっと、泣くばっかりだ。何がくさいのか、教えてくれない。
もう少ししゃべれるようになるまで、耐えるしかないのだろうか。
「病院に連れて行ったほうがいいのかな」
夜、夫にたずねる。しかし夫は手を洗いながら「でもなあ」と、渋る。
「そんなににおいに敏感なら、このあいだ三人でいったカレー屋のスパイスカレーとかにも、いいそうじゃないか?」
「だって、それは食べ物じゃないっ」
「カレー屋を出たあともさ、ベビーカーひいてたのに、うっかり喫煙所のそばを通り過ぎちゃっただろ」
黙ってうなずく、私。
「タバコ吸ってる人がいたけど、モイラはくさいなんていわなかったよな」
たしかにタバコは服にうつるくらい、においが強い。でも、モイラは何もいわなかった。
「ただ、においに敏感ってわけじゃないってこと?」
「うん。モイラはさ、うちのなかでしか〝くさい〟っていわない気がするんだよ。うちのなかのどこかに、モイラのきらいなにおいがあるんだと思う」
でも、だったら何が嫌なんだろう?
生ゴミも洗剤も、におわないように対策している。他ににおうようなものなんて、思いつかない。
「えっと、とりあえず、何か食べる?」
帰ってきたばかりの夫に、夜食をたずねながら、冷蔵庫を開けた。
とたん、モイラがぐずりだす。あわてて、夫がモイラを抱きに行った。
「モイラ! 大丈夫だよ。ママもパパもいるよー」
夫がモイラを抱きながら、私のもとへと歩いてくる。モイラに私の顔を見せようとしているのだ。
瞬間、モイラの鳴き声が、悲鳴に変わる。まるで目の前でひどいことが行われているかのような、耳をつんざく声。
「モイラッ、どうしたんだ? お腹が空いたのか?」
「さっきあげたばかり! オムツも濡れてない。眠いのかな? ああ、もうわからない」
私は、頭を抱える。
冷蔵庫が開けっぱなしになっていた。ため息をつきながら、やけくそ気味にバタンと閉じる。
すると、モイラのぐずりが毒気をぬかれたように、スッとおさまっていく。夫が「あれ……」と、つぶやいた。
「冷蔵庫、開けて」
「え?」
「ちょっと、開けてみて」
いわれたとおりに、私は冷蔵庫を開ける。スイッチが入ったように、モイラが夫の腕のなかで、じたばたと暴れ出す。
「くさいっ、くさいっ」
「も、モイラ……?」
思い返すと、モイラが泣くのはいつも、冷蔵庫を開けたときだったように思われた。
モイラが昼寝をはじめ、一人のんびりおやつでも食べようかと、開けたとき。
買い出しに行こうと冷蔵庫の中身を確認しようとしたときや、夫の夜食を作ろうとしたとき。
モイラは、爆発したように泣き出すのだ。
ブーン、と冷蔵庫のモーター音が、新築一戸建てのキッチンに響く。
この家は、モイラが生まれたときに、ローンを組んで買ったものだ。家を買うのに無理をしたので、家具はほとんどリサイクルショップで買った中古品だった。今どきは、すぐにものを買い替える人たちが多いのか、目立った傷もなく、きれいなものばかりだったのでありがたかった。
この冷蔵庫も、そうだ。観音開きの、有名メーカーのもの。年式も新しく、目立った汚れもない。
くさいわけが、なかった。
「モイラ? これが、くさいのか?」
夫が、冷蔵庫にモイラを近づける。するとモイラは、狂ったように泣き出した。
「くさいいいいい! くさいいいいいい!」
「モイラ! もう閉める! 大丈夫、もう閉めるからね!」
冷蔵庫を閉めようと、私はドアに力を込めた。しかし、閉まらない。いつもしている動作なのに。子どもの頃からやり慣れた行為なのに、うまくできない。
ドアが壊れた? そんなはずない。この一瞬で、ドアの繋ぎ目に、接着剤でも入れられたかのように、かっちりと動かない。
「ど、どうした?」
「閉まらない」
モイラが泣いている。苦しそうに。閉めなくちゃ。気持ちは焦っていくばかりだ。手汗で、取っ手を掴む指先が滑りはじめる。
モイラがからだをのけぞらけ、よだれを垂らしながら叫ぶ。
「くさいいいいいい! ああああああ!」
夫がモイラを私に預け、閉めようとしてくれる。やはり閉まらない。
夫の顔は真っ青だった。肩で息をしている。私の心臓も、早鐘のように打ちつけていた。
その時、ぷん、と鼻をつく悪臭が部屋に流れはじめる。生ゴミが発酵したような、腐った川のような、思わず鼻をつまみたくなるにおいに、吐きそうになる。
隣で、ドサッと何かが倒れる音がする。夫が、口から泡を吹いて床に転がっていた。
声をかけようとするが、喉が開かない。自分自身も、モイラを抱えているだけで精一杯だった。冷蔵庫の冷気が、私の足首をひやりとなでた。ああ、くさい。きもちわるい。
私は、泣き叫ぶモイラを必死に抱きしめた。
ごろん、と床で何かが転がる音がする。夫だろうか、と床を見下ろす。
「ひいっ」
肉のかたまりが落ちていた。四角い型に押し込められたように、手と足がていねいに折りたたまれた、人間のかたまりだ。顔は両ひざの間に入れられていて、見えない。皮膚は真っ白で、完全に凍りついていた。
どこから転がってきたのだろう。私は冷蔵庫のなかを確認する。今日、買い物に行ってきたはずなのに、食材がひとつも入っていない。
ちょうど、人ひとり入るぶんのスペースがぽっかりと空いていた。
「くさいいい! くさあああいいいいい!」
モイラが泣いている。夫も倒れてしまった。閉めなくちゃ。この冷蔵庫を。お願い、閉まって。ああ、冷蔵庫の冷気が、部屋中に浸透していく。何もかも、冷やされていく。
二十年ほど前、一枚の行方不明者のポスターがこのへんで出回った。ポスターは、未だに近所の掲示板のすみに貼られている。
このあいだ、たまたまそれを見かけたことを薄れゆく意識のなか、私は思い出していた。
ポスターの行方不明者が着用している服と、肉のかたまりが着ている服が似ている。二十年ほど前に流行った、有名メーカーの服だ。
それにしても、冷える。目の前の箱に入って、この寒さから逃れなくては……。
おわり
くさい 中靍 水雲|𝘔𝘖𝘡𝘜𝘒𝘜 𝘕𝘈𝘒𝘈𝘛𝘚𝘜 @iwashiwaiwai
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