猫背と絵画

桜枝 巧

猫背と絵画

 猫背の似合うひとだった。

 彼女と出会ったカフェは、自由に本棚の本が読めることをウリにしていた。

 なにせ、本棚が壁沿いにぎっしりと積まれているのだ。ダニエル・キイスの隣によしもとばなながいた。その隣は『仕事で使えるExcel術』だった。

 僕はアイスコーヒーを飲みながらいくつかの本を手に取り、めくり、そして戻した。

 レジと僕のいる奥の席の間にはスライド式の扉があって、どこか隔絶した空間のように思えた。

 まるでひとつの絵画の中に迷い込んだような、そんな気さえした。

 店員からは遠い位置にある1人用のテーブル席で、本を片手にうつらうつらするのは心地よかった。

 エアコンは無かったが、部屋の中は汗ばむほどでもなかった。申し訳程度の扇風機が、微かな音を立てながら首を振っていた。

 平日の昼下がりとだけあって、人は少なかった。扉の向こうにはケーキを味わう客がいくらかいたが、奥の席には僕しかいなかった。

 蝉の鳴き声だけが忙しなく夏を知らせていた。

 だから、キイ、と扉の方から音がしても僕はしばらくそちらを見なかった。むしろ、ひとり占めできていた空間を邪魔されたくなくて、目を閉じた。

 そのうちタイプ音が聞こえてきて、僕はうっすら目を開けた。

 テーブルのアイスコーヒーはまだ僅かに香りを残していた。

  薄くなったそれを一口飲んでから、僕は音の先をうかがった。

 ちょうど、僕の斜め前のカウンター席に、彼女はいた。

 僕は無言で、小さく息を吸った。

 猫背だった。

 テーブルが低いこともあって、彼女はやや屈む形でノートパソコンに向かっていた。

 脊椎というのはこのように曲がるのか、と頷きたくなるくらい、それは見事な曲線を描いていた。

 髪は団子状にまとめられていて、その首筋がはっきり見えた。

 小さく角張った頚椎は、頭を、首を、そして全身を支えていた。まるで、1本糸が伸びて天井から吊り下げられているような有様だった。

 何を書いているのかは分からなかったが、必死であることは彼女の猫背から見て取れた。彼女は時折スマートフォンで何かを検索し、またPCに打ち込んだ。

 それはひとつの美術作品として、完成しているようにも思えた。

 彼女ほど首から背中にかけての曲線を美しく描ける者は、そうそういないだろう。

 僕はアイスコーヒーの最後の一口を飲んだ。

 あまり彼女を眺めている訳にもいかず、伝票を持って立ち上がった。

 僕はもう彼女を見なかった。

 軋んだ音を立てる扉をスライドさせながら考える。

 仮に僕が彼女に話しかけたとしよう。

 話題はなんでもいい。「お仕事ですか、大変ですね」とか、「雰囲気の良いカフェですよね」とか。なんなら、ナンセンスにも「美しい猫背ですね」とか言ってもいい。

 しかしその瞬間、彼女は「現実」に帰ってしまうに違いなかった。

 どんな気の利いた事だろうと、つまらない話だろうと、美しい曲線はただの猫背へと成り下がってしまう。僕の中で、彼女は「ただ興味が湧いて話しかけた客」になる。

 ひょうとしたら、それは彼女にとっての僕も同様かもしれない。

 たまたまいた先客。アイスコーヒーを飲みながら、本を捲っている。それは一種の物語になりうるかもしれないし、ただのノイズかもしれなかった。

ひどちらにせよ、接点ができれば現実に帰ってしまうような危うさを、僕も持っていた。

 絵画だ、と僕は思った。

 絵画と現実の境界を、僕らは誰しも持っている。そこに優劣はなく、貴賎はない。

 ただ、壊れやすいかそこに在るかの違いだった。

 僕は店員に紙幣を渡しながら彼女がいるはずの扉を眺めた。

 名前も顔も知らない頚椎のことを思った。

 彼女が扉から出てくることは無かった。それは僕の中で不変に成り果てていた。絵の具の乾ききったキャンパスのようだった。

 舌にはアイスコーヒーの苦味が残っていた。

 僕は安心して店を出た。

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猫背と絵画 桜枝 巧 @ouetakumi

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