048 光り輝くためには


 残念ながら、神野帆南海に同情を誘えるような悲惨な過去があるわけではない。生きていれば誰にでも訪れるようなちょっとした悲しみに傷付いて、怯え、背を向けてしまった程度だ。死ぬに足る理由なんて、彼女には一切持ち合わせていない。


「…………」


 そんなことは、彼女自身が一番理解していた。

 ネグレクトに近い家庭環境であることや、過去にイジメを受けていた経験など、今更取り立てて語るようなものでもない。不幸自慢を始めてしまえば、いくらでも悲惨な人間がいる。


 だけど彼女は、割り切れない。


 だから強く生きようだなんて、決して思えないのだ。


「……これが、本当の夜」


 息を殺しながら、光のない世界に取り残された帆南海は、近くにいるはずの新奈の存在だけが頼りだった。だけど彼女は完璧に気配を殺しているから、どこにいるかはわからない。朝が迎えに来るまで、彼女は孤独と寄り添い続けなければならない。


 ――『無』


 時間の感覚がわからなくなるほど、夜の闇はしつこく帆南海の心を覆う。心臓の鼓動が、どくん、どくん、と神経に伝達していた。意識すればするほど、鼓動が加速していくような気がする。


 リストカットとは、緩やかに死に近付く行為である。

 だがそれは、自ら死にに逝くのとは少し違っていた。あくまで近付くだけで、決してそのラインを踏み越えることはない。根本的に、自殺という行為とは異なっているのだ。


 だからといって、死に近付いていることに変わりはない。その死の臭いにあてられて、ついラインを踏み越えてしまう者もいる。果たして自分は、どうだったのだろう。空っぽの心が、答えを見つけたがっていた。


「……怖い」


 がたがたと、身体が震えていた。本物の夜の闇は、彼女が想像していたよりも遥かに恐ろしかった。風の吹き指す音が、化物の息吹のように聞こえてくる。葉の揺れる音が、悪意の接近を予感させるのだ。


「どうせ、すぐに死ぬと思っていた」


 異世界転移して来た彼女は、目の前の展開を受け止められなかった。いつものように引きこもって、カミソリを手にして、痛みに逃げることばかり。最初から死ぬつもりであれば、化物が襲ってきても心が楽になる。すべてを諦めてしまうことが、最良だと思っていたのだ。


 だけど、物語は彼女の予想する方角に向かうことはなかった。


 今も、神野帆南海は生きている。今はもう、リストカットもしていない。


 ――あなたは何を頑張りたいの?


 新奈の言葉が、心を抉る。

 死んでいるわけでもなければ、生きているわけでもない。そのことを自覚した途端、カミソリの刃が恋しくなってしまった。



 ◆


 翌日、朝日が登るとすぐに、新奈たちは出発する。

 もう十分休んだろうと遠慮なく森の中を進む新奈だが、帆南海はついていくだけで精一杯だった。


「……はぁ、はぁっ……!!」


 結局、昨夜はリストカットしなかった。

 今までのように、答えを痛みの中に求めようとは思わなかった。


 だけどそれは、ポジティブな理由ではない。

 ただ、翌日の行軍に影響するという、酷く打算的な理由だった。


「急ぐよ」


「……え」


 何かを見つけた新奈は、音を殺しながらも加速していく。置いていかれるのではないかと危惧した帆南海は、歯を食いしばってスピードを上げる。必死に加速して、離されないようにする。


 ――何のために?


 わからない。


 ――何を期待しているの?


 わからない。


 ――何故、進む?


 わからない。


「……だけど」


 置いていかれたくはなかった。ここで足を止めてしまえば、あの日の自分に戻ってしまう。


「眩しいわ」


 ぐんぐんと前へ進む新奈の背中が、とても輝いていた。やはり、生きようと前を向く人々は、誰も彼もが眩しすぎる。現実でも、そうだった。平山聖凪や鹿島心のような、教室の中心にいるような女子は、いつだって希望に満ちている。生物として、身に纏うエネルギーが違う。


 見ていられなかった。辛かった。風が吹けば消えてしまいそうな自分の存在感を、認めたくはなかったから。教室の影で縮こまる自分を見てくれる人は、誰もいない。別にそれでも良い。話しかけないで欲しいと願いながら――一方で、それが強がりであることも理解している。


 だって、そうだろう?

 リストカットをする人間が、他人との関わりを求めていないはずがないのだから。


「……もう、限界」


 できる限りの追走を試みてみたが、やはり『狩人』の本気には敵わない。限界を悟った帆南海は、ゆっくりと減速する。力を緩めれば、身体はすぐに悲鳴を上げた。そのままぐったりと大樹によりそいながら、ずるりとその場にへたり込む。


 諦めた、わけじゃない。むしろここまで、よく頑張った。


 ――何のために?


「それを、知りたかった」


 何のために、自分は頑張るのか。

 何のために、カミソリを手放したのか。


「……あ」


 項垂れた帆南海の前に現れたのは、一匹の野ウサギだった。軽やかに視界の中を飛び跳ねる野ウサギは、自由にこの森の中を生きていた。このとき、なぜだか帆南海は、目の前の野ウサギの存在が自分よりも遥か高尚な存在のように見えていた。生きるとも死んでいるとも言えない自分と、今を生きる野ウサギ。新奈が日々狩ってきたのは、そういった存在だったのだ。


 野ウサギと目があって、彼女は言葉を吐けなかった。蛇に睨まれた蛙のように、微動だにすることができない。自然界の中で、問いかけられているような気がした。真っ黒な瞳が、帆南海の心の中を覗き込んでいる。


 どれほどの時間が経過しただろうか、興味がなくなったのか野ウサギは視線を外して、食料を追い求める。もごもごと口を動かして、辺りの新鮮な草を食べ始めたのだ。あれは食べられる草なのかと帆南海は驚いたが、そうではなく手当たり次第に食べられるものを探している様子だった。なんとしてでも、生き残る。ひたすらに口元を動かす野ウサギが、やはり眩しく見えた、そのときだった。


 ――風の中を貫く一筋の矢が、野ウサギの頭を貫いた。


「え」


 生きようともがいていた野ウサギは、あっけなくその生涯を終える。


「お手柄」


 姿を表した新奈が、淡々と告げる。


「戻ってきたら、獲物がいた。グッド」


 彼女は、途中で脱落した帆南海を気にして、引き返してきていた。そして、隙だらけの野ウサギを仕留めたのである。


「あの野ウサギ、ホナミしか警戒していなかった」


「わ、わたしは……そういうつもりなんて……」


 自分より高尚な存在が、あっけなく生存競争に破れていく。これが、自然の摂理なのだと、思い知らされてしまった。


「現実じゃ、スーパーで肉が並んでいるだけ。その意味を、みんなは知らない」


 積み上がる自然界のピラミッド。しかしその頂点も巡り、連鎖が繋がっていく。


「すぐに、処理するよ。そしたら、朝ご飯だ」


 新奈は、淡々と。


「お腹、減ったでしょ? ホナミの心がどうあっても、身体は生きたいって言っている」


「あ……」


 ぐぅ、と。

 彼女の代わりに、胃が返事をしていた。


「生き物は、他の生き物の命の上に生きているのね」


「イエス」


 調理の準備を始めるニナは、適当に頷いて。


「だから、生きたいとか、死にたいとか、どうでもいいんだって。そんなつまんないことで悩んでないで、ちゃんと生きなよ」


「……そうね」


 特別な何かがあったわけではない。彼女の後ろ向きな性格は変わらずに、今もふとしたときに弱音を吐きそうになるけれど。


「私は、美しく死にたい」


 神野帆南海は、初めて願いを口にした。


「――そのためには、力強く生きないと」


 いつか自分の身体が息絶えるとき、自然に送り返される。そうやって生物の輪廻の中を巡って、自らもその中に寄り添う。それが、生きるという行為の本質だと、帆南海は考える。


「うむ、頑張れ」


「頑張る」


 もはや彼女に、カミソリの刃は必要なくなった。他者に依存することなく、自らの手で生きる道を模索することができる。


 それこそが、存在が光り輝く秘訣なのだ。


「生きるために、生きろ」


 それ以外に、何もいらない。

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