034 理由なんてどうでもいい
燃え盛る保健室を前に、丹羽里穂の頭はとても冴えていた。業火を焚べたその瞬間、これまで自分が気にしていたものすべてが、とてつもなく些細なことのように思えてしまった。学校に放火する行為そのものが、彼女にとっての日常の崩壊だった。
「壊れていく」
美しいとは、思わなかった。
ただ、無慈悲だと心がきゅっと縮こまる。
炎はあらゆる生物の隣人であり、終焉である。些細な悩みなど、燃え上がる炎を見ればすぐに消し炭なるだろう。
「……馬鹿……!!」
だが、鹿島心は違っていた。
近くにある水道から大量の水を頭から被り、保健室の中へ進もうとする。助けようとしているの? 何のために? 彼女の行動を、丹羽里穂は嘲笑う。
「もう手遅れよ。火種が最小限でも、あたしの業火は止まらない」
「うるさいっ!!」
だが、彼女は止まらない。
だから、丹羽里穂は彼女を背中から口撃する。
「――火傷したら、もう二度とモデル業はできないね」
それは、悪魔の囁きだった。
「可愛いって言われることが生きがいだったんでしょ? 心は、本当にそれでいいの?」
きめ細やかな肌こそが、モデルには求められている。彼女の美しさを保つためには、ほんの少しの怪我すら許されない。常識的に考えれば、鹿島心が身体を張る意味などどこにもない。神野帆南海は、自らの意志で保健室に残ることを選んだのだから。
「死にたがりに付き合って、どうすんの」
美しいものを、汚してみたい。
丹羽里穂は、ただそれだけで頭がいっぱいだった。
誤算があるとすれば、ただ一つ。
「あーーーーー!!! うっさいわねーーーーーー!!!」
鹿島心は、売られた喧嘩は買う主義であったこと。
要は――己の損得よりも、瞬間的な感情を優先してしまう、おバカさんだった。
「助けるったら助けるのよ!! それだけだから!!!!!」
「……あ」
売り言葉に買い言葉?
ある意味、里穂の言葉が彼女を焚き付けたとも取れる。
「嘘でしょ」
彼女は、正義なんてものとは無縁の、自分本意な少女だった。異世界にきてからも、それは変わらないというのに。
「――っ!」
放火した自分を放置して、死地へと踏み入ってしまった。自分にとって好都合なことなのに、なぜだか彼女は笑えなかった。
「……冗談じゃないわ。心、あんたはそんな人間じゃなかったでしょ……!!」
理解できない。
納得できない。
意味がわからない。
自分だったら、どうしていた?
結局のところ、何者にもなれない自分は、特別な能力を手に入れても意味がないのだ。特別だから、鹿島心は魅力的なのではない。魅力的だから、鹿島心は特別だったのだ。
「アホらし」
すくすくと育っていたはずの憎しみが、一気に萎びていく。
自分の矮小さを思い知って、繊維を喪失してしまった丹羽里穂は。
「――校則違反だ」
どすん、と何かが落下する音がした。窓の外に、化物がいた。
「え」
屋上から飛び降りてきた家松教頭の、射程範囲に踏み入っていた。
「学校の校舎に火を放ってはならない」
「は……?」
凶暴化した『暗黒騎士』は、窓越しから躊躇いなく刃を振るった。
味方と思っていたはずの化物から、不意打ちの一撃は――間違いなく、彼女に致命傷を与えていた。
「……最悪」
あ、これ、死んだわ、と。
いつもは鈍いはずの丹羽里穂は、己の最期を確信した。
◆
炎に包まれる保健室に突入した鹿島心を待ち受けていたのは、想像の斜め上の光景だった。
「神野さん!?」
彼女は、保健室のベッドの上で、手首を切っていた。それも、構って欲しいアピールのような浅い傷ではなく、深々とした切り口だ。おびただしい量の出血が、彼女の生命にアラートを鳴らしている。
「そんな」
殺されるくらいなら、自殺する。
かつてイツキとの会話に差し込まれていた意志が、文字通り現実のものとなってしまった。だが、それで諦めるほど彼女はいい子ではなかった。
「――死なせない!!!」
それは、彼女が無我夢中で行使した、『錬金術士』としての能力だ。
今にも枯れそうになる『生命』を分解し、再構成する。禁じられた領域へ無意識に踏み出した彼女は、大量に流れる血液を媒介に、失ったはずの『生命』を錬成する。それはただの、治療ではない。壊れたものを分解して作り変える能力は――どちらかと言えば『創造』に近い。
故に。
神野帆南海の左手は、全く別のものに生まれ変わった。これまでのリスカ痕すらない、まっさらな新しい腕である。治療とも治癒とも呼べない神の御業は、この日、彼女の『錬金術士』としての性質を確固たるものにさせた。
他人を活かす、『生命』を司る『錬金術士』だ。
「……え? なんで治ってんの?」
残念なことに、彼女が己の能力を自覚するのは、まだまだ先の話だが。
「いっくんのおかげかなー。すごっ」
「ゴシュジン、アホ、マジウケル」
「……うっさいなぁ」
気を失った帆南海の身体を抱きかかえようとするが、彼女の身体では支えきれない。「ぐぐぐ」と死物狂いに力を込めてみるも、泥人形の力を借りて何とか引き摺っていくことが限界だった。
「やっば……」
人の体というのは、想像しているよりも遥かに重量がある。女の子の細腕で支えら
れるようなものではなかった。
だが、それでも心は、帆南海を置いていくことはしなかった。というよりも、その選択肢を考慮していなかった。彼女は決して、純粋で正義感に溢れた人間ではない。自分のためなら、他者を切り捨てることもあるだろうが――今回は、違った。自分のために、神野帆南海を助けたいと思ったのだ。
「はぁっ……はぁっ……」
だから彼女は、諦めない。炎が自らの肌を焼き焦がそうとも、必死に出口に向かっていた。
「……何してるのよ」
真後ろから、声がした。
「おはよ」
「そうじゃなくて」
出血のせいで力の入らない帆南海は、目を覚ましても自分の力で立つことは出来なかった。
「どうして私、死んでいないの?」
「いっくんが直してくれた」
「イエス、ボクガ、ナオシマシタ」
大嘘吐きの泥人形に、指摘する声はない。
「……どうして?」
「え?」
「どうしてそんなに……構うの? 私……そういうタイプのメンヘラじゃないんだけど」
「知ってるわよ」
神野帆南海は、自らの世界で完結しているタイプだ。本当の意味で、心が彼女の考えを理解することは叶わないだろう。だが、それは今、何も関係がなかった。少なくとも彼女はそう思っている。
「理由は、単純」
そう、単純なのだ。
鹿島心は、誰よりも行動原理がはっきりしている。
「――あんたに死なれたら、寝覚めが悪いのよ。だから、ちゃんと生きて」
「…………」
彼女はきっと、死にたいと本気で悩んだことは一度もないのだろう。暗がりに生きる自分とは違って、充実した毎日を送っている。だから、それだけの理由で生きてと言えるのだ。
「……違うか」
そう思ってから、帆南海は自ら否定する。彼女とて、辛いことを経験していないはずがない。他人と繋がりが増えるということは、それだけ嫌なことも増加していく。もしかしたら自分以上に、彼女は苦しみというものを知っているのかもしれない。
「……あのね、鹿島さん」
少しだけ、彼女に興味が湧いた。
「何よ」
知りたいと、思ってしまったから。
「……私、実は単なる構って欲しいだけのメンヘラなの」
「どうでもいいわよ、そんなこと……」
「ふふふ、そうね」
仕方がなかった?
いや、
その言葉が、神野帆南海の心を軽くさせてくれる。
「鹿島さんを見ていると、子供の頃に飼っていたペットを思い出すわ」
「……ろくなもんじゃなさそう」
「そんなことないわ。鹿島さんに似て、可愛いもの」
「……ふん」
予想外の褒め方に、頬を赤らめる心。
まさか、帆南海のようなタイプの人に、可愛いと言われるとは思わなかったから。
「あ」
ぽたぽたと、天井から水が零れ落ちてきた。
「スプリンクラー」
ぐったりとうなだれる少女二人は、結局保健室を脱することはできなかったものの、何とか救いが見えてきたのかもしれない。その程度の水の量では消化し切ることは難しいだろうが。
「もうむり、しぬ」
「……私を生かせたんだから、責任取ってね」
「知らないわよ! 勝手に生きなさい!!」
突然起動したスプリンクラーによって、火の勢いが抑えられていた。これならばと、ゆっくり、ゆっくりと、帆南海を抱えて脱出する。
その速度は、のろまな亀のように。
その後姿は、仲の良い姉妹のように。
終末世界の果てに紡がれる、新たなる人との繋がり。
「…………」
神野帆南海は、自らの手首を見つめる。
心の弱さの数とともに増えた傷跡が、きれいさっぱりなくなっていた。
「……嬉しいと思っているなら、さっさと止めなさいよね」
大人びて、クールに振る舞って、サイコを演じていても。
結局のところ、神野帆南海はいつだって後悔だらけであった。
「
魔法の言葉が、いつまでも彼女の心を優しく包む。
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