026 生命の味


 ――彼女は、死ぬかもしれない。


 一人でオオシカを追いかけると口にした瑠海を見て、新奈は真っ先にそう感じていた。能力云々の問題ではない。彼女は本質的には何も理解していないのだ。


「……夜を知らないんだろうな」


 もうすぐ、日が暮れる。

 付き添いの男子が一人で校舎に戻るのを見て、彼女は背を向けた。



 ◆



 意気揚々と一人で追いかけると決意した瑠海は、しかしオオシカを見つけ出すことは出来なかった。


「……見失っちゃったぁ」


 普通の野生動物とは違って、魔物の森に住まう彼らは気配や痕跡を消すことに長けている。『狩人』の特性がなければ、まず見つけることすら難しい。


「一人……一人……やっぱりちょっと、寂しいかも」


 いつも一緒にいた青葉すら、隣にいない。本当の意味で、彼女は孤独を味わっていた。

 

「うわ、もう日が暮れそう……だけど、帰っちゃダメなんだよね」


 本気でオオシカを狩るつもりで、追いかけろと新奈は言っていた。その言葉の意味が、彼女は知りたかった。


「……らしくないってのは、わかってるけど」


 現状を変えなければ、自分は無能のまま。この世界を生きていきたいのなら、ここは踏ん張りどころだ。


 だが、彼女の想定は、やはりどうしようもなく甘かった。夜の森というものを、彼女はまだ理解できていない。


「……暗い」


 傾いた太陽が、地平線の彼方に沈んでいく。夜が訪れたと彼女は思いこんでいるが、それはまだ始まったばかりだ。灯りのない闇というのは、本当に何も見えない。


「……嘘」


 夜が来たと思ったら、更に暗闇が広がっていく。視界領域は狭まってゆき、気が付けば手元すら全く見えない。それは、彼女は生まれて初めて体験する、純粋な闇であった。


「ど、ど、どう、しよう……!!」


 震える声が、やけに反響して聞こえる。暗闇が恐ろしく思えるのは、見えないからだけではない。死んだような静けさに包まれる中、僅かな震えすら大きく聞こえる。


「ひっ」


 風の唸る声が、化物の雄叫びに聞こえる。草花の揺れる音は、得体の知れない恐怖を煽り続ける。心臓の音が、やけに大きく聞こえてきた。意識すればするほど、鼓動は加速していく。


「……ぁ、ぁ……っ!! ひっ……!」


 がたがたと、全身が震えていた。奈落に迷い込んだのかと思うほどに、夜の闇が恐ろしいのだ。運の悪いことに、この日は曇り空であった。もし、星の煌めきを目にすることができれば、僅かでも見えていたのかもしれないが。


 ――声を、出してはいけない。


 何も見えない状況下では、無力も同然だ。食人鬼や動物に襲われるだけで、命の危機に陥ってしまう。だから、無音を維持し続けなければならない。両手で口を押さえつけて、瑠海は身体を縮こまらせる。


 ――震えが、止まらない。


 自分がどこにいるのかもわからない。


 ――孤独が、恐ろしい。


 この状態では、動くことすら出来ない。


「……帰りたい、よぉ……っ」


 今まで、自分がどれほど快適な場所で生かされていたのかを、瑠海は理解した。冷暖房で快適に設定された、自分の部屋? いいや、あの殺伐とした校舎でも構わない。夜の闇でなければ、どこでもいい。


 ぎゅううっと。

 歯を食いしばって、弱音を押さえつける。自然の獰猛さに触れた瑠海は、ようやく新奈の言葉を理解し始めていた。自然の本来の姿を、まざまざと見せつけられたのだ。


 この日、おそらく生涯で最も長い夜を経験した瑠海は、『狩人』としての一歩を踏み出し始めた。



 ◆



 神経をすり減らしながら、孤独な闇に溶け込もうとしていた。やがて彼女は、何も考えないことが一番だと本能的に導き出す。暗闇とは、常にいつもそこにあるもので、彼女を襲いに来たわけではない。恐ろしい隣人として、そこに在ることを受け入れよう、と。


「……朝」


 ほとんど眠ることは出来なかったものの、彼女はどうにか夜を乗り越える。虚ろな眼差しが太陽を見た瞬間――思わず、沢山の感情が込み上げてしまった。


「きれい」


 陽の光を、これほどありがたいと思ったことはなかった。朝焼けの光など、ただ眩しいだけだと思っていたのに。


「……お腹、減ったな」


 思えば昨日から、瑠海は何も口にしていなかった。最低限の水を含んだ程度である。眠れなかったことで、体力と気力はごりごりと削られていた。オオシカを追いかけるのであれば、しっかりと食べなければならない。


「…………」


 不思議な感覚に、包まれていた。

 視界はとても澄みきったように見えていて、自然の中に潜む生き物を感じられるようになっていた。草木の揺れの狭間に潜む、小さな虫を見つけた。普段なら、小さな悲鳴をあげて逃げるところだが。


「……うう、抵抗感は、あるけど……」


 背に腹は代えられない。火を通せば食べられると、面白半分に青葉に言われたことを思い出す。意外と栄養価が高いとか、何とか。本当に?


「でも……火なんて、つけられないし……」


 諦めて虫を逃がそうとしたら、ポケットの中に重量感があるのを感じた。躊躇いながら確かめてみると、マッチ箱が入っていた。


「…………」


 どうせなら、夜が来る前に気が付いたら良かったのに。と、後悔しながらも、乾いた木を探して焚き火を作った。出来ることなら、虫なんて食べたくはなかった。だが、これからのことを考えると、食事の機会は見逃せなかった。


「虫を食べる女子高生とか……誰も、可愛いっていてくれませんなぁ……」


 湿った木の枝で串刺しにして、焚き火で火を通す。それで十分なのかはわからなかったが、手持ちではそれが限界だった。一口目は半泣きになりながら挑戦したが、二口目にはもう躊躇いはなかった。現代から彼女にまとわりついてきた甘えは、あの暗闇に置き去りにした。


「……普通にイケる」


 それどころか、活力が湧いてくる。


「私だけ独り占めしちゃ可愛そうだから、アオちゃにも食べさせてあげよう……JKらしさとは、いっしょにおさらばしようね……」


 虫を見たら、可愛らしい悲鳴をあげるのが女の子の在り方だと思っていた。だけど瑠海は、食べられるかどうかで見るようになってしまう。こんなJKは嫌だと苦笑いを浮かべながら、捕まえた虫を完食した。


「……よし」


 立ち上がって、前を見据えた。


「追いかけますかぁ」


 オオシカを狩るために、彼女は一歩を踏み出す。


 夜を知って、自然に触れて、彼女はたしかに、変わりつつあった。



 ◆



 オオシカの痕跡は、その日も見つけることは出来なかった。再び夜の闇は当たり前のようにやってきて、孤独な瑠海の身体を覆い尽くす。だけどもう、瑠海は昨夜のように震えることはなかった。それどころか、疲弊した身体を休める時間だと目を閉じる。散々迷ったが、焚き火はつけないことにした。良くないものを引き付けるような気がして、安全を優先した結果である。


 その日、彼女は森の宵闇と添い遂げた。暗闇を枕に、自然と共に寝静まる。受け入れてしまえば、静寂は怖いものではなかった。ようやく彼女は、森との付き合い方を理解する。


「……私、生きている」


 心臓の鼓動が、教えてくれる。

 静寂の中でも、絶えず血を巡らせているのだ。


「生きているんだ」


 過酷な狩りだ。

 もはや身体中は汚れていて、女の子らしさを投げ捨てている。擦り切れた心は、最初こそ荒々しい感情を剥き出しにしていたが、やがて自然に適応するように、無駄を削ぎ落としていった。あるべき姿に、立ち返る。朝日とともに、瑠海は己の中に答えを見出したような気がした。


 オオシカの痕跡を見つけたのは、翌日のことだった。

 以前よりも視野の広くなった瑠海は、以前なら気がつくことはなかったと確信する。彼女は、飛躍的に成長していた。飢えた子供のように、自然の教えを吸収していく。


「――


 そして。


 イツキと別れてから三日後。

 ようやく、オオシカの群れを視界に捉えた。


「…………」


 瑠海の身体は、それでも自然体を崩すことはなかった。ただ、己の目的のために弓を構える。ここから、届くだろうか? もう少し、近付くべきか?


「――どうして、殺さなくちゃいけないんだろう」


 弓を構えながら、瑠海は疑問を口にした。


 現代では、虫も殺せないような女子高生だった。動物を見れば可愛いと声を上げて、それらを殺すところなんて見たくはなかったし、出来ることならそっとしておくべきだと感じていた。なのに今、彼女は弓を構えている。


 オオシカは、見たこともないような立派な角を掲げていた。おそらくは、自然界で生き抜く中で、力強く成長していったのだろう。群れの中でも、あれは特別な存在だ。そんな気高き生き物を、本当に殺してもいいのだろうか。


「――何のために、殺すの?」


 大いなる自然の中で、彼女は答えを見つけていた。


「違う」


 殺す理由を、問う必要はなかった。


 小野寺瑠海は、草木をかき分け、闇に潜み、虫を喰らって、花を潰して、ここまで来た。理由など、最初からわかっているはずだ。問いかけることこそが、罪深い好意なのである。


「生きるために、あなたを殺す」


 構えた弓に、迷いはなかった。


「私は、沢山の命の上に、立っているのだから」


 瑠海の目尻に、涙が一筋、流れ落ちる。


 だがそれは、命に対して悲しみを覚えているからではなかった。


「――ありがとう」


 ただ、それだけだ。

 繰り返される輪廻の中に、人間は立っている。次へ、次へと託される命のバトン。食物という形で連鎖する、生の世界。瑠海は、シカの命を貰い受け、そして瑠海もまた、次なる命に繋げていくのだ。ただ、それだけのこと。それが、大いなる自然の中に生きるという意味である。


 矢が命中する直前、オオシカは瑠海を見た。


 瑠海も、オオシカが絶命する瞬間を瞳に焼き付ける。


 彼の、その気高さを。


 美しく、大自然を生きた生命を――次に、繋げるために。


「……JKには、ちょっと過酷だってば」


 そして彼女は、『狩人』としてこの自然を生き抜くのだ。



 ◆



「……やればできるんだね」


 オオシカを狩った瑠海の元へ、新奈が駆け寄っていた。


「……えっ? ニナちゃん?」


 もう一人の『狩人』は、当たり前のようにそこにいた。


「処理の方法はわかる?」


「う、うん……」


「……手伝う」


 ――瑠海の様子を、見守っていてくれないか。


 と、彼女はイツキから直々に依頼を受けていた。普段の彼女ならば受けない内容だが、報酬を聞いて即座に頷いた。以降、彼女は気付かれないほど遠い場所から瑠海の様子を見守っていた。


「……ありがとう。ニナちゃんの言葉、やっとわかったよ」


「……ん」


 同じ『狩人』だからこそ、通じるものがある。自然と共生したことによって、小野寺瑠海は本質に触れた。理解してくれたことが、新奈は素直に嬉しかった。


「……大物だから、持ち帰るのも大変」


 黙々と、オオシカを解体する二人。

 やはりこれは、女子高生がやる作業じゃないと思いつつも、悪くはない気分だった。


「ねえ、瑠海」


 新奈は、彼女の名前を呼んで。


「持って帰れないから、ちょっとだけここで食べていこう」


「……え?」


 無表情で、彼女はフライパンと塩コショウの瓶を鞄から取り出した。


「盗んできた」


 学校の備品として貯蔵されていたものを、彼女はこっそりくすねていた。


「わお」


「その代わり、ニナにもわけて」


「共犯だねえ」


「口止め料」


「にゃははは」


 手際よく解体しながら、料理の準備を進める。おそらくは、彼女はこうして獲物を狩っては、こっそりと食べていたのだろう。持ち帰れない肉を残すわけにもいかないのだから、正当な行動である。


「生命の味は、すっごいよ」


 焼き上がった肉を、ワイルドに串で突き刺して、渡してくれた。


「ありがと」


 それから瑠海は目を閉じて、祈りを捧げた。


「――いただきます」


 彼女はこのとき、その言葉の意味を理解した。頭ではなく本能が、その言葉を導き出したのだ。


「――――――」


 そして。


 初めて喰らう生命の味を、瑠海は生涯忘れることはないだろう。


 上手いとか不味いとか、そういう次元の話ではないのだ。命が繋がれることを知った身体は、歓喜に打ち震えている。


「……これが少し前に流行った、森ガールだよ」


「絶対に、違うよー」


 大真面目に嘘を口にする新奈の隣で、生きている今に心から感謝した。


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