029 仕方がなかった
梅木壮哉との因縁に決着をつけるためには、もうひとりの人物と会わなければならなかった。
神野帆南海、22位、『農家』
自ら食料を生み出すことのできる、唯一の天職だった。ただし、彼女は異世界転移の恐怖に負け、保健室に引きこもるようになってしまった。カッターを肌身放さず持ち歩き、その手首には大量の切り傷が残されている。
「――私は、何もしたくないです」
非協力を貫く彼女は、当然、生徒たちから嫌われることになる。それでも梅木が追放しないでおいたのは、彼女がいつか協力的になってくれると願っていたからである。
「……だけどもう、限界だろうな」
イツキが学校に来てからも、彼女は常に保健室に引きこもっていた。運び込まれる食事にはほとんど手を付けず、緩やかに死に向かっているようでもあった。
「わあ、大崎くんがご飯を運んでくれるの!? 助かるー!」
『料理人』である櫻井愛未が、イツキの協力を手放しに喜んでくれる。
「神野さん、無理矢理にでも食べさせないと駄目なんだよねー。鹿島さんでも、ひらりんでも無理だったから、もはやダメ元だね!」
「ひらりん?」
「平山さんだよー」
はい、どうぞ、と。
渡されたお盆の上には、大きなどんぶりに注がれた異世界印の野菜スープと、数枚の肉切れ。見た目こそ質素だが、さすがは天職、味に不満はない。
「どうしてあいつは、引きこもってるんだ? 死にたいわけじゃないんだよな」
「うーん、わかんない。正直、今まであんまり気にしている余裕なかったからねー……」
そう言いつつ、彼女が一番、神野帆南海を気にかけていた。食欲がなくても食べられる食事をわざわざ用意して、健気に食べさせているという。
「……気持ち、分からなくもないし。むしろ、他の子はよく病まずにいられるなって……」
「天職のおかげかもね。普通の高校生が、いきなり異世界に飛ばされて、適応できるわけがない」
「あはは、親切なんだか残酷なんだかー……」
誰もが触れないようにしているが、既に同級生が亡くなっている。ふと気を緩めてしまえば、今の現実は儚くも砕け散ってしまう。それを理解しているからこそ、彼らは前を向こうとするのだ。
「もう誰も、死なないといいのにね」
「ああ」
それは難しいことだと、イツキは目を逸らす。
彼女もまた、そんなことはわかっている。
◆
保健室に入室したイツキを迎えたのは、ホラー映画ばりの恐ろしい眼差しだった。
「……あの、神野さん……?」
「何かしら」
ベッドに横になったまま、彼女は侵入者であるイツキを凝視する。まるで、敵対生物を威嚇しているかのようだ。
「……櫻井さんの代わりに、メシ持ってきたんだけど」
「いらない」
「そうじゃなくて、しっかり食べさせろって」
「あなたが食べてよ。みんな、満足に食べていないんでしょう?」
「そんなことはないよ。食糧事情は、ぐっと解決した。その証拠に、最近は強引に『農家』を役立てろって、言われないだろ?」
「…………」
深い孤独を知った瞳が、イツキを品定めする。それからゆっくりと、彼女は言葉を紡ぐ。
「……毒でも入っているのかしら」
「どうして?」
「いつ殺されてもおかしくない状況だから」
彼女の言葉は、正しかった。食料事情の解決は、そのまま神野帆南海の立場の危うさに直結する。
「……自殺願望があるのに、殺されるのは怖い?」
イツキは、彼女の手首を指差した。そこには、目をそらしたくなるほどの傷跡が残されている。
「自分の意志があるかどうかって、重要よ。それに……私は、自分が死にたいのか、生きたいのか、よくわからないの……」
イツキには、死にたいからと言って自分の手首を切る人の気持がわからなかった。だから彼は、持ち前の幼さを武器に、真正面から問いかける。
「傷の深さに、躊躇いがない。だけど、治療はしっかり行っている。一応は、生きたいってことじゃないの?」
「こんな終末世界に?」
「うん。生きるために、手首を切っている」
「……もしかして、あなたもお仲間?」
言葉が気に入ったのか、目尻が柔らかくなった。警戒心が引き下がるのを感じる。
「いや」
傷のない手首を披露するイツキ。
「俺はただ、神野さんにも生きる意思を見せて欲しいだけ」
「どうして? わたしのこと、そんなに心配?」
「いや、別に」
軽率に、イツキは否定して。
「ただ……そろそろ、米が食べたいんだよ。農家なら、作れるんだろ? 俺は、俺のために神野さんに元気になって欲しいだけだ」
「……呆れた」
何もわかっていない人だと、彼女は天を見上げた。
「そこは、私のためにって言いなさいよ。そのために、手首を切っているんだし」
「あれ? 構って欲しいから手首を切ってるの? 趣味かと思ってた」
「両方ね」
イツキは、彼女の悲しみの中に別の感情が見え隠れしたような気がした。こうして話をしているだけでも、彼女はとても理路整然としている。衝動的に手首を切るようには見えないのだ。
「……理解できない?」
「えっ?」
「あなた、かわいいわね。本当に、同級生なのかしら」
猫のような瞳が、イツキを捉えた。なぜだか分からないが、彼女は興味深く笑っている。
「残念だけど、一本調子じゃないの。全てを理解しようだなんて、いい加減な真似は止めてね」
そう言って彼女は、カッターを手渡した。
「意味もなく、ただひたすらに、手首を切ってみて? キクわよ」
「薬物みたいに言わないでくれよ……」
「冗談。私の手首はいくらでも切っていいけど、可愛い男の子の手首は駄目。傷付けたら、殺す」
「……お、おう……」
やけに機嫌がいいのも、脈絡がないおかげ?
まともに言葉を交わしたのは初めてなのに、やけに会話が弾む。
「実家がね、沢山の畑を持っていたの」
「へえ、だから『農家』なんだね」
「私は……農業なんて、大嫌いだった……」
珍しく饒舌な彼女は、イツキに対して内面を語り始めていた。それはまるで、死期を悟る猫のような、本能的な行動だったのかもしれない。
「陰キャで根暗な私だけど……やっぱり、女の子らしいものに憧れはあるのよ。面白いでしょう? 陰気な私には、畑仕事がお似合いなのに」
自嘲的な微笑みが、止まらない。
「ねえ、大崎くん。実は私、この学校の近くに畑を植えたことがあるのよ」
「……え?」
それは、初耳だった。
「私だって、最初から非協力的だったわけじゃないのよ。最初は……普通に、頑張ろうとして……だけど、その畑は……」
呆然と、彼女は言葉をこぼした。
「――『血溜まりの夜』が、訪れて」
「食人鬼に、踏み荒らされたのか」
「違う」
力強く、彼女は否定して。
そのまま、感情が溢れないように上を向いたまま、小さく呟いた。
「――畑を踏み荒らしたのは、『勇者』よ。命がけの戦闘だったから、仕方がなかった、って。だから、また育てたらいいって」
仕方がなかった。
仕方がなかった。
仕方がなかった……本当に?
「恨み言を言いたいわけじゃないの。だけど、どういうことかしらね。他の人たちは畑を避けて戦ってくれたのに……『勇者』だけが、少しも気にせず踏み荒らしていった。その後も、何も言わずにね」
「……そう、か」
たかが畑だと、人は言うのだろうか。
「だから、畑は嫌い」
爪をかみながら、彼女は続ける。
「手間がかかる上に、我儘で、貧弱で……どうしようもなく、大切に思ってしまうから」
仕方がなかった。
「他人に汚されると、殺したくなってくるの。それを抑えるのに、必死で……」
仕方がなかった。
「……だから、私が手首を切るのも、仕方がないのよね。メンヘラだもの、そういうものでしょ? だから……何度も繰り返すの。仕方がなかったって」
それはまるで、自らに言い聞かせているようである。
「さて……もういいわよ。どうぞ、殺して?」
「……え?」
あっけらかんと、彼女は言う。
「あれ? あなた、私を始末しに来たんじゃないの?」
「……そう見える?」
苦笑いを浮かべるイツキを見て、しばらく呆然とした後……彼女は、小さく吹き出してしまった。
「見る目がなかったみたい。虫も殺せないようなお顔ね。まぁ、可愛らしい」
「あの、神野さん? それ、同級生の男子に言うセリフじゃないよ?」
「不思議ね、同級生のような感じがしないの。あなたって、こんな雰囲気だったっけ?」
「そういわれてもなぁ……」
躁と鬱の差が、激しい。目を離していると、消えてしまいそうな儚さがある。イツキが知っているメンヘラともまた違った、神野帆南海の狂気だ。
「……この世界は、賽の河原の石積みのようだわ。救いを求めて希望を掻き集めたら――突然、全てが崩れ去るの。ほら、大崎くん。無秩序が、おはようだってさ」
「――え?」
気が付けば、太陽が沈みかける時間帯だった。
だが、保健室の窓から見える光は、夕焼け色ではない。
――血溜まりのような、悍ましき赤色である。
「……おいおい、満月にしかやってこないんじゃなかったのか?」
終末世界は、全てを嘲笑う。
「賽の河原の鬼たちが、私を殺しにやってきたわ。一緒に死んでくれる?」
「お断りだ」
メンヘラに付き合っている時間はなくなった。すぐに、戦いに備えなければならない。
「あら、残念」
他人事のように、目を閉じる神野帆南海。
たとえ食人鬼が保健室に押し寄せてきたとしても、彼女はここを動かないのだろう。
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