君は知らなくていいこと 後編
「今日は少し点検があるんだ。だから君に、いつもと違う場所を教えてあげよう」
「え?」
次に落葉が来た日。ホームルームが終わって、まだ外から他の生徒の声が聞こえる時間。私は書庫の鍵を指先に引っ掛けて、今日も表情が窺えない落葉を見下ろした。
「え、なら、帰るよ先生。ごめん」
「いいよ、点検はすぐ片が付くだろうから、落葉さんは秘密基地にいて」
「秘密基地、」
「もしくは、立ち入り禁止区域」
「それ、先生怒られない?」
「私を誰が怒るんだか」
何かと言いながら、図書室から出た私を落葉は追ってくる。普段は施錠している書庫を開けた私は、部屋の奥を指さした。落葉は肩を縮めながら書庫を見渡し、私の指の先を顔で追う。
書庫の奥にあるのは簡易的な椅子と備え付けの机。書庫で本が読めるように作られており、正しく秘密基地のような場所だ。
「い、いいの?」
「いいんだよ。点検が終わったら呼びにくるから、寝てなさい」
椅子に座った落葉を確認し、本棚に並べた花たちも一瞥する。花は落葉に見えないので問題ないだろう。
肩から力を抜いた落葉は机に上体を預ける。私は一つしかない出入口に向かい、背中に落葉の声が当たった。
「ありがと、先生」
「なんのことだか」
書庫の扉を閉じて口角を上げる。静かな図書室に戻った私は、出入口近くの壁に凭れ掛かった。書庫と同じように、図書室の扉も一か所しかない。
タートルネックで口元を隠し、耳をそばだてる。窓の外に響く子ども達の声。空を過ぎ去った鉄の鳥。誰かを迎えに行く甲高いサイレン。窓を撫でていった風の名残。
様々な音を拾って捨てていれば、階段を上ってくる音が混ざったので瞼を上げる。ずかずかという効果音が似合う勢いで入って来たのは柴先生だ。彼女は顔を右へ左へと向けて閲覧席を見回している。
お前はそうだ。いつも入る瞬間、目的の子しか見ていない。私のことなど眼中になく、最後に当たり障りなく頭を下げていくのが通例だ。
私は図書室の扉を後ろ手に閉め、鍵をかける。視野が狭い先生は〈閉館〉のプレートを見逃してくれたらしい。
鍵のかかる音は柴先生の意識を引っ張った。
「え、あ、檜先生」
「こんにちは、柴先生」
「ごめんなさい、いつもいつも。今日も落葉さんは、」
「いませんが?」
「あら……」
柴先生の鼻が微かに動く。私は今日も
「檜先生、ダメですよ。生徒に肩入れしすぎては。いましたよね? 落葉さん」
「あぁ、匂います? 貴方達って鼻がいいから鬱陶しいですね」
柴先生の眉が痙攣する。彼女の鼻は何度も動き、私は楽しく腕を組んだ。
今日も鼻につく香水の匂い。いったい何の匂いを隠しているのか。何を食べてきたのか。想像するだけで嫌悪が湧くのだから、私も少しは人間らしくなったかな。
「なんの、」
「長話って嫌いなんですよ。さっさと終わらせません? 同郷」
私はタートルネックの襟を引く。首にかけたネックレスは柴先生と同じ形をしており、彼女の瞳孔が一瞬で細くなる。
先生は即座にネックレスを引きちぎり、私は行儀よく外し捨てた。
人間の皮が溶けていく。擬態が崩れて消えていく。あぁ何年振りか。こうして、こちらで、人の皮を剥がすのは。
柴先生はスカートから窮屈そうに太い尾を覗かせ、鼻と口がせり出していく。毛深く醜い動物へと変わっていく彼女は、擬態を解除しきらないまま私に飛び掛かってきた。
落ち着けよ、これだから犬は困る。
私は本来の腕で柴先生を殴り飛ばした。一本、二本、とばして五本。うん、久しぶりに腕が沢山ある。
私は真緑の太いツルを見下ろして、己が異端に戻る過程を見据えた。
顔があった場所には大きな一輪の花を。花の中央には単眼を。首はない、肩もない。花と繋がる茎が胴体であり、動く手足は柔軟なツル。それが私。異端な私。異形で、気味が悪くて、こちらでは受け入れられない私の姿。白い花弁は綺麗だと思うのに、人間は悲鳴を上げるんだ。
先生が起き上がる前に叩き潰そうとしたが、犬の反射神経は侮れなかった。躱されて、床を叩きかけたので思い留まる。ここは図書室だからな。静かにしないと怒っちゃうぞ。私は司書だからね。
「この、草如きが」
酷い言い草に花弁が揺れる。久しぶりに戻った姿は口の開き方を忘れており、私は顔に力を入れた。花弁が落ちそう。単眼だから疲れるな。いやいや口の開き方ってどうだっけ。確かここら辺に力を入れるんだけど。
人間の皮を崩した柴先生は、しかし完全な姿には戻っていなかった。少しだけ髪が残って、服も着たままで、人間の姿に対する執着が見える。中途半端だなあ。無様だ。
「どうして邪魔するのかしら。私のことがそんなに気に喰わないの? いつも図書室で空気みたいになってるくせに、鬱陶しいわね」
茶髪を後ろへ払う柴先生。醜い犬がカツラを被ったみたいな奴に空気とか言われる筋合いないと思うのだが。別に空気になっていたつもりはないし、お前の視野が狭いんだろ。
私は口に力を入れる。そうだそうだココだったと思い出した場所は、完全にくっついていた。人間に擬態してる時はペラペラ喋って食事もしてたのに、どうして元に戻ったら口が開かないんだよ。あれか、擬態してた時は人間の口が動いて、本来の口は動いてなかったって? そんな馬鹿な話ある? 勘弁してくれよな、言い返せない。
柴先生は私の様子を何と思ったのか。もしかして話せない種族とでも判断したのか。大きな鼻を鳴らした姿は滑稽だ。
「言い訳もできないの? まぁ所詮は草ですものね。地に根を下ろして、獲物がくるまで待つしか能がないんですもの。自由な私に言い返せるわけないわね」
うーん。もうちょっと。もうちょっとで口が開く。待てもできない犬はよく鳴くことだ。お喋りめ。
「水を与えられなければ成長できない。光がなければ元気もでない。与えられなければ生きられない貴方は捕食される側なのよ」
お、口の辺りが剥がれ始めた気がするぞ。これは良い感じ。もうちょっと、もうちょっと。なんか裂けてる気がするけど、本来は裂けているべき場所なのだ。思いっきり力を入れるのだ私。
柴先生は鋭い爪のある前足で床を掻いた。やめろよ、図書室が傷つくだろ。
「ちょっと、人の邪魔をしておいて、無視だなんて酷いんじゃない? 何か言ってごらんなさいよ」
貴方にせっつかれずとも、喋るってば。
私の本来の口が、繊維の千切れる音と共に開かれる。マジックテープを力いっぱい離すような音だ。私の背面が心地よい鳥肌を立てる。うん? 皮膚がないのに鳥肌って言うのか? まぁいいっか。
「黙れよ駄犬」
柴先生が犬歯を剥き出して毛を逆立てる。足の筋肉が盛り上がったと分かったが、犬が飛び掛かるより速く私は腕を動かした。
駄犬の口に緑のツルが絡みつく。目を見開いた先生は私の腕を引っ掻こうとしたが、犬のくせに遅い。私の速度の方が上なのだ。
二本目の腕を右から、三本目の腕を左から柴先生に叩きつける。それぞれ駄犬の側頭部と胴体に命中し、ツルの先から骨が軋む感触を受信した。
あら、力加減を間違えたかしら。もうちょっと優しくしておくつもりだったのに。加減も忘れるなんて、私はぬるま湯に浸かり過ぎていたらしい。
駄犬の悲鳴で口を塞いだツルが振動する。図書室では騒がないで欲しいので、私は彼女の悲鳴を一音も漏れさせなかったけどな。私って偉いねぇ。
柴先生の口から生暖かい何かが零れる。これは胃液かしら、血液かしら。どっちでもいいけど零さないでくれよ。図書室の掃除はしたくない。
「吐かないでくれます? 図書室は液体厳禁。本が濡れたらどうしてくれるんですか」
充血した駄犬の瞳が私を睨む。鼻でしか呼吸を許していないせいか、とても脈が速い気がした。まぁこの程度では死なないだろ。死んだら柔すぎる。
「私は確かに植物ですけど、ただの植物だと思わないでくださいな。貴方の骨を折る力くらいあるんですから」
緑の腕を伝った液体を四本目と五本目の腕で受け止める。汚いなぁ。堪え性がないのかしら。
「ほら我慢してください。受け止めてあげますから」
私は柴先生の口を開放し、直ぐに首に腕を巻き付ける。先生は赤っぽい液体で噎せており、私の腕がきちんと受け止めた。
やっぱり私って偉いよなぁ。図書室のこと最優先にしてるんだから。誰か褒めてって、大人を褒めてくれる人なんていないのか。世知辛い。
「あんた、ほんと、ゆる、ゆるさ、」
「駄犬って同じことしか言えないんですか?」
「な、に、」
「私、同じ話を繰り返されるの嫌いなんですよね。だから貴方の判断で喋らないでくれます? こっちから質問することに答えてくれたらいいので」
私の効率的な提案に柴先生は文句がありそうな顔をする。元より彼女の意思を考慮するつもりのない私は、彼女の首を縦に振らせた。腕を使って、強制的に。これでいいね。
「いい子ですね、先生。ご褒美のソーセージはありませんけど」
「ぅ、ぉえ……」
「あ、頭やってましたね。気持ち悪かったです? それは今までの報いと言うことで我慢してください」
柴先生の目が鋭く私を凝視する。視線で「どこまで知っている」と問うてくる彼女に、私は花弁を揺らした。
「あぁ、察してますよ。貴方、今までの学校で色々好き勝手して来たんじゃないですか? 生徒に対して、あぁ嫌だ嫌だ」
「あ、んた……」
「貴方、生徒の何を食べてたんですか? 次のターゲットは落葉さんだったようですけど、目を付けた相手が私の視界にいる時点で詰みですよ」
濃くなる夕焼けが図書室の中を照らしている。時間をかけすぎたら落葉に悪いから、さっさと答えろよ。
私は柴先生の頭を揺らして催促する。先生の体には緊張が走り、上擦る声は敗北者のそれだった。
「ぃう、言うからや、めて、」
「あ、そうですか。はいどうぞ」
先生の頭を止めて単眼を近づける。よく見れば先生の目元には涙が浮かび、呼吸は荒いままだった。私の打撃が余程きいていたみたいだね。
「あぁいう、弱い子は、味がいいのよ」
「何の味が?」
「き、こつ」
「きこつ……あぁ、気骨」
気骨。心の骨。折られると危ないやつな。そりゃ犬が好きそうだ。私に人間の気骨なんて見えないが、それはコイツが花を見られないのと同義だろう。私も食べる花は選んでるし。え、もしかしてこの駄犬と同類? それは嫌だな、吐きそう。あーぁ。
「弱い子の気骨をしゃぶって美味しかったんですねー」
「……人間は、弱いもの」
徐々に息を整え始めた先生が口角を上げる。見えた犬歯は鋭くて、私は首を振らないでやった。
「人間は弱くて、醜くて、すぐに他人の気骨に触れるの。ヒビを入れても気づかずに、自分にヒビが入ってることにも気づかずに」
「へぇ?」
「そのヒビの治し方を知らないのが子どもなの。耐性もないし、ちょっと圧をかけたら折れちゃうの」
「ほぉ」
「弱い子の気骨が折れた瞬間は……良い音がするわ、本当に。その折れた部分を噛むと、傷ついた味がして、堪らない」
駄犬の口の端から涎が垂れる。なんともまぁ獣らしい言い分である。私には理解しかねる食欲だ。
「よく学校に勤め続けてますね」
「工夫よ。元々弱ってる子に、弱らせる要因になっている生徒や教師を近づけるの。もっともっと弱らせて、傷つけて、追い詰めて。折れる寸前で堪えてる子に優しい言葉をかける。そしたら、それはそれは簡単に折れてくれるのよ」
「優しい言葉?」
優しいって傷つけるとは真反対のやつではなかろうか。それなのに、どうして最後は優しい言葉なんだ。矛盾ではないか。
疑問符を飛ばした私を、駄犬は鼻で笑いやがった。
「そうよ、優しい言葉。本当に壊れかけてる子って、優しくされると、泣いちゃうの。折れちゃうの。崩れて、壊れて、治ろう治ろうって頑張ろうとするけど、時間がかかる。その間に、食べちゃうの」
駄犬が喉を鳴らして笑っている。私の腕に振動が伝わる。
……犬は知らなかった筈だ。初めて人間に出会った時、優しい言葉で折れるだなんて。何十年とこちらにいる私だって今まで知らなかった。しかしコイツは知った。私より先に気づいた。何度も繰り返したのかもしれない。何度も試したのかもしれない。
いや、それよりも手っ取り早く、ずっと観察したのかもしれない。どうすれば人間の気骨は折れるのか。誰が折るのか。どうすれば砕けるのか。見て、見て、見て、真似たのかもしれない。
もしそうだったならば、人間はどこまで捻じ曲がっているんだろう。
だってそうだろ。相手が苦しんでるとか、しんどい思いをしてるってことに気づけないのか? 言葉をかけてはいけないタイミングが分からないのか? 私にとってこの疑問は、こちらに来てからずっと付き纏っているものである。
どうして息ができていない子を頑張れと叱責するのか。
どうして泣きそうな子を努力が足りないと追い詰めるのか。
どうして、頑張ろうとしている子に頑張らなくていいなどと言えるのか。
私には分からない。分かろうともしたことがない。これらの「どうして」が分かってしまったら、私は人間の首を目の前の駄犬と同じように締め上げそうだ。
トゲを隠していた先生と一緒。周りより自分を優先するのは生存本能として理解できるが、傷つける必要がない相手を傷つける理由が分からない。
それはお前の人生に必要なのか。必要ないだろ。傷つけて楽しいのか。ならば傷つけられて喜ぶ相手に限定しておけよ。あ、傷つけた相手が本気で嫌がる姿が優越感を覚えさせるのか。ならば自分が同じことをされても文句を言うなよ、捻じれ共。
『君は優しいんだね』
私の腕を撫でてくれた子どもを思い出す。遠い遠い昔の話。今では褪せてしまった、いつかの話。
あの子は私を恐れなかった。擬態していない私を見つけて、近づいて、笑ってくれた最初の子。髪色が黒ではなかった、時代に即していなかった子。
「貴方だって、何か食べているんでしょう?」
駄犬が私に
私は、絶対に破らないと決めた誓いがあるのだから。
「私、子どもに手は出さないって決めているんです」
決めたことは守らなくては。絶対に。
そう、私は教えてもらったから。
「私はね、君みたいな同郷がとても嫌いなんだ」
「は、っ、」
「だから許しませんよ。落葉を狙ったこと。今までの学校で子どもを守ってこなかったこと」
私の腕に力が入る。目を白黒とさせて泡を噴き出した犬は、愚かな瞳で懇願する。
死にたくない、死にたくない、死にたくない。
それでも、先に殺したのはお前だろ。
「都合がいいのも、人間を楽しみすぎた結果かな」
私に慈悲はないと分かっても、駄犬の懇願は止まらない。それは本能がさせる祈りであるのだろうけど、神はそんなこと聞いていない。なんなら興味だってないだろう。
誰にも届かない願いが駄犬の中で渦巻いた。私は見る。感情が種子となり、芽を出し、根を張る様を。徐々に徐々に腕の力を強めていけば、感情の蕾が肥大化した。
あぁ、もう少し。
もう少しだけ息をしていろ。愚かな犬よ。
貴方は、私の視界に入らなければよかった。私の視界にいる子を狙わなければよかった。私の目の前で子どもに手を出そうとしなければよかった。
回った犬の眼球は白目を向き、胸から巨大な花が咲く。赤く、赤く、どこまでも深い赤で脈打つ花は生きとし生ける者みなが抱える感情。
――生きたい
私は犬から手を離し、仰向けの異形から咲いた花の茎にツルを巻きつけた。
愚かな者よ。気骨を折られた子ども達の気持ちを、一片だけでも知るといい。
腕に力を込めた私は、駄犬の花を引き抜いた。
***
「柴先生、辞めたって聞いた」
「暫くお休みされてたからね。何か事情があったんだろうよ」
今日も放課後にやってきた落葉。彼女は書庫をえらく気に入ったらしく、来るたびに「書庫に入りたい」と申し出た。この子は寝るだけだしな。問題ないか。
書庫の鍵を回す私は、頻繁に開けられるようになった扉を押す。落葉には今日もツルが絡まっているが、前よりは締め付けが緩くなったのではなかろうか。
「なにか良いことでもあったのかな」
「……うーん」
「なかったのかな」
「ちょっと、いいなって思ってた子と、話せるようになった……とか」
微かに落葉の口角が上がる。私は蝶の花を咲かせた少女を思い出し、落葉同様に口角を上げてしまった。
落葉は小走りに私から距離を取る。特等席である秘密基地に着いた少女は、不意に動きを止めた。彼女の顔は棚に飾っているステンドグラスの花に向かっている。君には見えない筈だけど、なに見てんだろ。
「どうしたの?」
「……なんか、変」
「なんか変」
「うん、ここに来ると、いつもそう」
書庫の換気をしながら落葉の様子を観察する。空調をつけて、椅子に座った少女はどこかぼんやりと花の方を向いていた。落ちた花が影響でもしてるのかね。
「気持ち悪い?」
「ううん、違う。なんか……よくわかんないけど」
落葉は自分の胸を擦っている。私は開けた窓の縁に凭れ、光を乱反射する花々に目を細めた。屈折した光は落葉を照らして、染めて、ツルが微かに緩んでいる。
「寂しいのに、落ち着く」
小さな落葉の声を拾い上げる。空調よりも、風よりも囁かな声ではあったが、私の耳は取り零さない。
唯一私が見られる落葉の口。健康的な血色の唇を結んだ少女は、微かに震えた声を吐き出した。
「ねぇ、先生」
「うん?」
「檜先生が、なにか……してくれた?」
その問いは一体何に対する問いかけだろう。柴先生のことか、書庫のことか。主語がないとこちらも汲み取れないんだけど。
「何のことかな」
まぁ、どちらも私が関係していることに間違いはない。否定も肯定もしない口調は大人の嗜みだと思い、暑さを含み始めた風を頬に受けた。
古い本の匂いが鼻をつく。落葉は腕を枕にして寝る体勢に移行したが、意識はまだこちらに向いていた。日々、今日くらい分かりやすい子になってくれればいいのに。いや、それだと社会に出た時大変なのだろうか。
「私、図書室が好きだよ。檜先生のことも」
鳩尾の奥に力が入る。
伏せている落葉はこちらを一切見ていない。
せり上がった感情は私の背中を優しく撫でて、隠したツルの腕に力が籠った。
そっか。
……あぁ、そっか。
そっか……そうか。
「それは良かった」
破顔して、名札を揺らして、指に引っ掛けた鍵を回す。落葉はそれっきり黙ってしまったので、私も書庫を後にすると決めた。
「暑かったら水分補給するんだよ。廊下で」
司書らしく、書庫の中は飲食禁止だと伝えて。
「あと、補習で探しに来た先生がいたら、場所を教えるからね」
先生らしく、学生の本分は勉強だからと釘を刺して。
返事をしない落葉を見た私はすぐに目を伏せた。書庫の扉を開放したまま、図書室へと歩きだして。感傷に浸る趣味などないのだけれど。
褪せた記憶に閉じ込められた、古い古い友人へ。私の姿を恐れなかった、いつかの優しい女の子。捻じ曲がった大人に、人間に、心を摘まれてしまった大事な君へ。
私はちゃんと、約束を守ってるよ。
「大人はね、子どもを守るものなのさ」
だよね、親友。
子どもは知らなくていいこと。気づかなくていいこと。
守られて、守られて、自分がその立場から巣立つ直前に気づいて、巣立った先で守ろうと思えれば立派だよ。飛び立った後に自分しか守れない奴もいる。世の中そんな奴で溢れてる。それでも、一瞬でも、守ろうとする気持ちがあれば捨てたもんじゃない。
だから私はこちらに居続けるのだろう。あの子との約束を、守り続けてしまうんだろう。
歪んだ花。曲がった花。ねじれた花。そんな花ばかり摘んでいれば、いつかはマシな花だけになるかもしれない。私の周りだけだけど。
でも、私の周りだけでもマシな場所になれば、私の視界にいる子くらいは守れるんじゃないかな。
「なんて、欲深いな」
鼻で笑ってカウンターに戻る。そこでちょうど利用者がやってきたので、私は微笑を浮かべたのだ。
「こんにちは」
「こんにちは、返却に来ました」
「ありがとう。貰うよ」
平坦な物言いの女子生徒。規定通りに制服を着ている姿は逆に印象深いもので、私は彼女のツルを見た。
喉に何重にも絡まったツル。体を緩く締め付ける植物には赤い花が咲いており、トゲのある花弁は全て自分の方へ向いていた。
自分の花で自分を傷つけている女の子。首を絞めて、手首に絡まり、痛々しさすら感じさせる。
踵を返した少女は、二年生の色の上履きを履いていた。
「元気かな?」
今にも大量出血しそうな少女を止めてみる。この子はそう。本を借りる時もあれば借りない時もある。次にいつ来るか分からない子だ。
私は努めて笑みを浮かべ、彼女の〈秋月〉という苗字を脳内で反芻した。
「元気です」
会釈されて、黒い目が問いかけてくる。「どうしてそんなことを聞くのか」と。これ以上を問いかけるにはあまりにも他人行儀な瞳だ。
「ならいいんだ。気を付けてね」
「ありがとうございます」
淡々と帰路に着く少女の背を観察する。一人になった図書室には、毒々しい夕日が今日も入り込んでいた。夏が近いな。
「はて、さて、」
椅子に腰を落ち着けた私は、夏服を着ないであろう生徒を記憶した。
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