君は愛しいドッペルゲンガー 前編
※自傷表現があります。
――――――――――――――――――――
ドッペルゲンガーと出会うと死んでしまう。
そんな噂はどこから流れたのだろう。
自分と同じ存在、同じ姿、出会えば殺しにかかってくる怖いお化け。
しかし、この噂は嘘だ。だって私はドッペルゲンガーに会ったもの。
優しく笑う、傷だらけのドッペルゲンガーに。
***
高校二年の初夏のこと。蝉が騒がしいこの季節。都会になりきれなかった街の端っこに、その鏡は捨ててあった。
豪華な額縁が汚れた大鏡。広いゴミ捨て場にぽつんと置かれ、鏡面には隙間なくガムテープが貼られている。その姿は立ち止まる以外の選択肢がない、異常な空気を放っていた。忙しない蝉の声と夕暮れが、鏡の奇妙さを助長する。
そう、奇妙だ。奇妙で、異常なのだ、この鏡は。そう頭は分かっているのに、どうしてもゴミ捨て場に置かれた大鏡から目が離せない。
気づけば私は、鏡の縁を掴んでいた。
自分の身の丈より大きく、鏡面が無事かも分からない代物。学校帰りで疲れているのに、重たく感じないのはどうしてだろう。私はどうして、鏡を家に運んでいるんだろう。
自分の行動と頭が噛み合っていない。いつの間にか家には着いていたし、自分の部屋に鏡を立て掛けてるし。
汗に濡れた長袖ブラウスが腕に纏わりついた。膝に当たるスカートの裾が鬱陶しい。こめかみを流れた汗が不快指数を上げた。
シャワーを浴びたくて袖のボタンを外す。だが、鏡を綺麗にした後の方が効率的かとすぐに思い直した。汗をかく作業があると分かっているのだ。もう少しは我慢しよう。
私は袖を捲り、ガムテープに指をかけた。
粘着力が強まっているガムテープは鏡面にへばり付いている。腕全体を使って引き剥がせば、粘着面が汚く伸びた。作業をやめる選択が頭を過ぎる。しかし、一度始めたことはやり通せとすぐに自分へ言い聞かせた。
黙々とガムテープを剥がす。あっという間に日は沈み、徐々に爪が剥がれるような痛みも覚えた。
暗い室内で粘つく鏡面が全容を見せる。汚れた鏡には歪んだ私が映っていた。
山になったガムテープの隣に腰を下ろす。後ろで纏めた黒髪がうなじに熱をこもらせた。指先は曲げるのも億劫で、触った鏡面は酷くベタついている。
「……もう少し」
丸めたガムテープをゴミ箱に押し込み、洗面所からぬるま湯を張った桶と雑巾を持ってくる。部屋の電気を点けるより先に雑巾を絞り、私は作業を再開させた。
鏡面の上から下まで粘つきを取ろうとする。力を入れ過ぎると鏡が割れそうで変な神経を使った気がした。何やってんだろと疑問を抱いたのは一度や二度ではない。
なんとか鏡面の汚れが取れた頃には、時計の長針が半周していた。
桶と雑巾を洗面所に戻し、乾拭き用の布を持っていく。背後で玄関の鍵が開けられる音を聞いたが、振り返ることはしなかった。
やっと部屋の明かりを点けて、水滴が残る鏡面を拭いていく。額縁も一緒に拭けば、鏡は見違えるほど厳かな姿を現した。捨てられていたとは思えない。ヒビ割れや欠損も無さそうだ。
磨いた鏡面に指を滑らせれば、少しだけたわんだような感触がある。反射的に指を離すと、喉の中が緊張した。
鏡に波紋が広がる。屈折した光が目に入る。指先からは布が落ちた。鏡面は雨粒が落ちる水溜まりのように、数多の波紋を広げている。
映る私は波打つ鏡面に歪められ、変えられた。
徐々に早鐘を刻み始める心臓は何を期待しているのだろう。震えた指先は何を掴みたくて、この鏡を運んだのだろう。
自問しながら鏡面を見つめ、波紋が消えていった時――君はいた。
「え、」
「あ、」
鏡に映ったのは、人ではない何か。私と同じくらいの身長で、全身白い毛に覆われている。頭にある小さく垂れた耳や二本の茶色い角は、そう、山羊を彷彿とさせる姿だ。
全身から血の気が引き、足が微かに揺れる。目に焼き付いた姿は強烈で、背中を汗が流れていった。
蒸れたリストバンドの下を掻く。そうすれば手首の皮膚が捲れる痛みが走り、心臓は力強く血液を送った。動悸が鼓膜の奥で騒ぎ立てる。足は床に縫い付けられたように動かない。
落ち着かない右手は、左の手首を掻き続けた。
不意に、汗ではないぬめりを指先が感じる。右の爪に皮膚が入り込む。
手首からは痺れる痛みが走り、頭が一気に冷静になった。
散漫な動きで右の指先を見ると、赤黒い液体が付着している。左手から後頭部へ、痛痒い感覚が流れた。息を吐いた私は右手でリストバンドを握り締める。
これで、大丈夫。
「……怪我、してるの?」
男の子のような声がした。声変りをしたばかりのような、覇気のない声だ。
顔を上げれば、そこにはまだ山羊のような誰かがいる。
見開かれた黄色い目に、口と鼻が突き出した顔はやはり山羊。だが目は私と同じように前についているから、完全な山羊とは言えなかった。
お互いを凝視し、どちらともなく体を確認していく。
山羊のような誰かは骨が浮くほど痩せており、毛艶も悪かった。灰色の布切れみたいな服を着て、足には蹄がある。二足で立っている姿は違和感しかない。両手だと思われる所には四本の指があった。五本ではないんだ。
彼の両手から、金属が揺れる音がする。
薄汚れた白い手首や足首に付いているのは、枷と言うやつだろうか。
本物を見たことがないので自信はないけど、きっとそう。首にも付いてるけど、あれは首輪ってやつだろうか。
黒い拘束具は一本の鎖で繋がり、山羊君が少し動く度にたわんだ部分が音を立てた。
「うるせぇよ、三十番……」
「ぁ、ご、ごめん」
山羊君の向こうで何かが動く。暗くてよく見えない場所に山羊君は謝り、再び私の方を向いた。
鎖に気を付けながら彼は座り込む。
私も同じようにその場へ座り、お互いに膝を抱えた。
黄色い目と見つめ合う。
ただ黙って見つめ合う。
何もせずに見つめ合う。
あぁ、この子――私だ
浮かんできた考えを肯定するように、私はリストバンドを握り締めた。
***
真面目なことは悪いことなのだろうか。
毎日毎分、疑問に思う。
どうして膝丈のスカートを笑われるのだろう。どうして校則通りに過ごすだけで「真面目」だと言うのだろう。
「頼りになる」だなんて言葉を軽々しく吐かないで。私ではなく、私みたいな誰かを探しているだけで、結局それは私ではないのだから。
少しでも癇に障ったら捨てるんでしょ。意見すれば敵にするんでしょ。
何も言えない自分に腹が立つ。私を「真面目だ」と笑う人に奥歯を噛む。心臓が激しく脈打ち、叫び出しそうな感情が常に私を絡めとった。
お父さんの服から時々香る香水の匂いが嫌い。少しのことで怒鳴り散らすお母さんが嫌い。二人が喧嘩する大きな声も、物を投げる音も、家の空気すらも嫌い。
私は布団にくるまって耳を塞ぐ。明日なんて来なければいいと、毎晩毎晩願ってしまう。叶うはずないのに。
暗い部屋のベッドの中は、横になって涙を流す場所だ。勝手に流れるから仕方がない。止める気力はなく、ただただ流れるのだ。
しかし泣き続けることもできない。嗚咽を零さないように口を塞ぐだけでは、体に溜まった感情が吐き出されないのだから。
仰向けの状態で流れた涙が目尻を伝い、耳に入ることもまた不快。叫びたいのに叫べない閉塞感が、苦しくて堪らない。
だから、カッターナイフを握った。私の中でのたうち回る感情が縋らせた。どうか私に呼吸をさせてくれ、と。
部屋の真ん中に立って左手首を見つめる。引いた線は第二の口だ。
体内に溜まった嫌なものが血液と一緒に流れ出る。暴れる時を待っていた感情が霧散する。手首の口は、私の気持ちを蒸発させる。体から力が抜けて、やる気も抜けて、怒りも熱さも引いていった。
「これで、大丈夫」
言い聞かせて、カッターナイフの刃を引っ込める。歯車が回る軽い音は心を穏やかにしてくれた。
何枚も取ったティッシュを手首に当てて、そのまま眠る。朝には血が渇き、ティッシュは手首の口に張り付いているのだ。
仲良しの白と赤を剥がせば口が開き、私が立ち上がる痛みになる。
「頑張れ」
言い聞かせて、制服の下にリストバンドをつける。リストバンドの下にはガーゼを貼り、白い端が見えないように息を潜めた。
リビングに両親がいないのは当たり前。割れたお皿の破片を集めて捨てることから一日は始まり、学校ではやっぱり「真面目だ」と笑われた。
「
呼ばれる度に泣きたくなる。意味もなく、理由もなく。
黒板を消して制服に粉が付くのが嫌い。それでも、誰も消さなくて次の授業の先生が怒る方がもっと嫌い。
宿題を見せてほしいと頼まれるのが嫌い。それでも、見せなくて「もういい」と言われる方がもっと嫌い。
軽く吐かれる「大好き」が嫌い。その言葉の「都合がよくて」という前置きに気づいたことがもっと嫌い。
教室掃除が終わった後、みんなの椅子を机から下ろした時に見つけてしまう。並ぶ机の中で、自分の椅子だけ下ろされていない光景を。
「……我儘か」
呟いたって返事はない。答えだって分かりきってる。見返りを求める私が悪いのだ。
我慢すればいい。温かさも、優しさも、対価も、何も求めなければ苦しくない。求める自分が悪い。なんて我儘なんだろうって、呆れたらいい。
左手首を掻いてしまう。リストバンドの上。袖に爪を立て、無関心に掻き毟る。小さな痛痒さが苛立ちを消してくれると、呪文のように脳内で唱えた。
机に乗せた椅子を押せば簡単に落ちていく。教室に響いた大きな音は、さして私の心臓を驚かせはしなかった。
倒した椅子を見下ろして、手首がやっぱり痛痒い気がする。だから無駄に掻いて、自分で起き上がらない椅子を見下ろし続けた。
「壊れるぞ」
声がする。右の指先が止まる。
私の目の前で椅子は起こされ、机に仕舞われた。
髪の一部を灰色に染めた男の子が立っている。上履きの線の色が一緒だから、同級生。中身が無さそうな規定鞄。開けられた第一ボタンと耳に見えるピアスホール。
この人は、誰だっけ。
「壊れるから」
もう一度言われる。彼の胸に視線を下ろしたが、名札はつけられていなかった。
「壊れないよ」
「壊れるだろ」
彼の黒い目は何を考えているのか分からない。据わりが悪いな。
私は奥歯を軽く噛み、机の中から教科書を出した。鞄を膨らませていけば、まだいる彼の声が降ってくる。
「重いだろ」
「重くてもいいよ」
「潰れるぞ」
彼が何を言っているのか汲み取れないし、察することをしたくない。なんだかとても面倒な気分なのだ。
顔を上げた私は、黒い目と視線を合わせてみた。
「何が言いたいの」
彼は口を少しだけ開けて、無言で閉じる。灰色の髪を触る仕草は落ち着かないようで、私は鞄のファスナーを閉じた。
「椅子、ありがとう」
伝えて教室を後にする。思い出せない彼を置いて、いつも通りの重さを肩にかけた。
彼の名前はなんだっけ。どこかで見たことある顔だったけど。
「あぁ……一年の時か」
思い出すのは休みがちだった席のこと。誰もプリントを整えていなかった机。授業や提出物など気にかけるよう、先生からお達しをもらった相手だ。
名前は確か、
一年生の時はピアスも髪染めもしてない子だったのに。
人が変わるなんて、一瞬だな。
***
「三十番」
帰宅して鏡にかけた布を捲る。鏡面の向こうには膝を抱えた山羊君がいて、彼はゆっくりと顔を上げた。
夕方を過ぎて、空が藍色に染まる頃。こちらよりも少しだけ先をいく彼の世界は夜だ。誰もが眠りに落ちる時間なのに、君は鏡の横にいてくれる。
「
名前を呼ばれると安心した。例えそれが自分と同じ存在でも、なんでもいい。なんでもないように呼んで、なんでもない私を肯定してほしいだなんて。
私は額縁に体を寄せて、痣がある三十番の顔を確認した。
「今日は、殴られた?」
「うん。ご主人様の機嫌が悪くて」
眉を下げて三十番が笑う。彼はこちらで言う「奴隷」の立場らしい。お母さんとお父さんに売られて、今は彼が住む街で一番の魔法使いに飼われているんだって。
魔法使いがいる世界。それはもっと煌びやかで、毎日鮮やかなものだと夢を描いていた。しかし目にしたのは、いつも苦しそうな彼なのだ。
「澪は、今日も?」
「……さぁね」
左の手首を握って笑う。三十番の掌は皮膚がすり減っており、成長に必要な栄養が足りてなさそうだ。
そこで、前触れなく涙が零れてしまう。話すだけで緩んだ涙腺が、私を情けなくしてしまう。どうして泣くと声まで震えてしまうんだろう。
三十番は鏡面に手を触れさせ、私は顎をうだった雫を指先で掬った。
「……ごめんね、三十番。私が泣くより、君の方が泣きたいに決まってる、のに、」
「いいんだよ、泣いていい。勝手に泣けるんだよね。なら仕方ない。僕は殴られ終わった時に泣いたから」
月光に照らされた三十番の目尻は赤く擦れている。何度も何度も擦ったみたいで、汚れた顔の中でそこだけ色を持っていた。
手を伸ばして鏡面に触れる。お互いの掌を合わせたら、向こう側へ行ける気がした。
「ダメだよ澪、こっちに来たらダメ」
「……まるで、行く方法があるみたいだね」
「あるよ。でもダメ」
三十番が鏡面に額を当てるから、揃えて私も額を当てる。鏡面は波打ち、これは捨てられた「魔法の鏡」なのだと教えられた。
「この鏡は、違う世界へ行く扉としてご主人様が作ったんだ。でもね、こっちから行くには、そっちからも連れて来ないといけないんだよ」
「つまり、誰かと交代するってこと?」
「うん。交代するのも、自分と同じ存在がいいって言われてるかな」
「どうして?」
「自分と同じ存在はね、寿命も同じなんだって。俺と澪も同じ長さの寿命だよ」
寿命という単語にゆっくり瞬きする。睫毛についた水滴が零れて、頬を伝った。これで泣くのはおしまいだ。
三十番は柔らかな口調で語ってくれた。
「ただ迷い込むだけならいいけど、この鏡を使う時だけはダメ。鏡面を通って体や心が世界を越えても、寿命は一緒に越えないんだ。もし鏡を通って同じ存在が一つの世界にいたら、自然と寿命を分け合って、短命になっちゃう」
三十番の言葉を噛み砕き、私はなんとか意味を汲み取る。息をついた三十番は物憂げに目を伏せた。
「だから、扉として鏡を使うのは禁止されてるよ。あまりにも効率が悪いもん」
「自分と交渉して入れ替わるか、自分以外と交代して寿命を縮めるかってことだもんね」
「そういうこと」
確かに効率が悪いし、寿命というリスクも大きい。まず鏡に自分ではない何かが映る時点で理解が及ばず、手放したくなるだろう。鏡の前の持ち主がそうだったように。鏡面に張り付いたガムテープは、何も映したくないと主張するようだったのだから。
鏡に惹かれた夕暮れを思い出せば、落ち着き払った三十番の声がした。
「それでも、違法である魔法の鏡を欲しいって人は一定数いる」
月光が三十番の頬を撫でる。彼の瞳は柔らかいまま、多くを見てきた色をした。
「ここではない何処かを求めた人達にとっては、交代なんて無理やりでいいんだ。誰でもいいから引き入れて、そっちへ逃げれば問題ない。自分と同じ存在を殺しさえすれば、短命は回避できるんだから」
「……それ、殺した自分は死なないの?」
「違う自分に殺されるなんて寿命も予想してないからね。他殺でも自殺でもなく、事故でも事件でもない。鏡の魔法が本来の時間とは違う歪みを生んで、歯車がずれて、殺すことで正される。この鏡が欲しい人の間では暗黙の了解らしいよ」
鏡面の冷たさが、そのまま世界を覆っているような感覚に襲われる。鏡面に波紋を広げたのは、揺れた私の指先だ。
対する三十番はずっと微笑むばかりする。鏡が歪んでも、彼の笑顔は変わらない。
「澪達の世界は、幸せそうだから。みんな目が眩むんだ。そうやっていなくなった奴のことを、僕達はドッペルゲンガーって呼ぶ」
ドッペルゲンガー。
出会えば死んでしまう存在。出会ってはいけない都市伝説。
理解した私は、無性に笑いが込み上げた。
「交代しようって言ってあげたいけど……ごめんね。こっちなら三十番が幸せになれるって、胸を張って言えないや」
「いいんだよ。僕だって澪をこっちには呼べない。こんな痛いだけの場所になんて、来させたくないから」
眉を下げて笑い合う。笑っているのに胸が痛い。鏡面に指を立てれば、少しだけ膜を突き抜けるような感触がした。
「こっちとそっちは、何もかも違うでしょ?」
「違うよ。文化も、種族も、言葉も違う。僕と澪が会話できるのは全部魔法のお陰だね」
三十番が悪戯っぽく笑う。傷だらけの顔に浮かんだ笑みは、私の鼻を痛めるには十分だ。そんな魔法があるならば、君の傷を治す魔法だってあるはずなのに。
指先に固い毛が当たる。手入れのされていない四本の指は、温かい。
「三十番は鏡について、よく知ってるんだね」
「こう見えて真面目だから。ご主人様のお気に入りの一人なんだ。ご主人様の機嫌が良い時は色んな魔法の話を聞かせてもらえるよ」
離れそうになった山羊の手に指を絡める。そうすれば、震えた毛むくじゃらの指が握り返してくれた。
「三十番。君に夢はある?」
繋がった指先に少しだけ力を入れる。三十番も力を入れ、指先は深く繋がった。
「僕は――……」
「三十番」
声がする。それは初めて会った時に「うるさい」と告げた声だ。私が思い出すと同時に、絡んだ指先が離れていった。
「二十五番、ごめん、うるさかったね」
「いや。でも、もう少し声を抑えたほうがいい。お前が向こうと繋がったなんてご主人様にバレたら、どうなるか分かんねぇから」
顔を上げたのは真っ黒な鬼。比喩ではなく、私の想像と重なる「鬼」がそこにいる。
月光を吸い込むような黒い肌。青みがかった黒髪は無造作に伸び、気だるい目元や牙の見える口にかかっていた。額には三十番とはまた違う形の角がある。
やせ細った鬼の彼――二十五番くんは鎖の音を立てないように鏡へ近づいた。
「似てないな、向こうの三十番とこっちの三十番は」
「種族が違うから。それでも、澪は僕だよ」
「分かるのか」
「分かるよ。二十五番だって、自分に会えばきっと分かる」
「俺は自分になんか会いたくねぇけどな」
二十五番くんは眠たそうに欠伸をする。つられたように三十番も口を開け、私は布を掴んだ。
「ごめんね三十番、二十五番くん。眠たいところを」
「違うよ澪。僕が話したくて起きてただけだから。今日も話せてよかった」
「俺も適当に目が覚めただけだ」
二人は鎖が鳴らないよう注意しながら、軽く手を振ってくれる。私も手を振って布を下ろし、肩を脱力させてしまった。
「……ドッペルゲンガー、か」
新たな違いを発見して、呼吸する。
これが、最近の日課。夕暮れを過ぎた頃、三十番と話をする。話す内容なんていつも決めていない。お互いに口数が多い方ではないため、私が一方的に質問を投げているようなものだ。
その日の晩御飯も息が詰まりそうだった。
体の中に溜まった靄を蒸発させたくて、手首に口を作った。
次の日も何も変わらない。何も変えない。変えようとしない。
変わらないのに頑張るなんて、疲れるもの。
今日も最後まで残った自分の椅子を見下ろしておく。これを突き落としても意味はない。何にもならないって知っている。
だから黙って下ろして、教室を後にした。
『澪』
今日は何の話をしようか、三十番。
君と話をしている時だけ、私は呼吸が楽になるよ。手首に作った口ではない。きちんとした呼吸が、許された気分になるんだ。
だからそれまでは、どんなに苦しくても耐えられる。酸欠なんていつものことだから。窒息しそうな空気に慣れたから。
家に帰るとお母さんがいて、よく分からないけど怒ってた。今日の仕事で嫌なことがあったのか、着替えを取りに帰ってるお父さんと何かあったのか。
「お母さん」
呼んだ瞬間、お母さんはマグカップを床に叩きつけた。何も入ってないマグは床の上で飛散し、私の足元まで欠片が転がってくる。
「帰ってきたら「ただいま」でしょ!」
目を吊り上げたお母さんに怒られる。
うん、そうだね、ごめん。ただいま。
言葉は浮かぶのに、喉は張り付いたように動かなくて、お母さんの顔はみるみる赤く煮えていく。階段からお父さんがおりてくる音もして、お母さんは噛みつくように廊下へ出ていった。
大きな声がする。嫌な話が聞こえる。耳を塞いだ私は、自分の部屋に逃げ込んだ。
嫌な声は響いている。嫌な会話は反響している。それが痛くて堪らない。苦しくて、苦しくて、今日も私はカッターを握った。
***
お母さんはよく実家に帰る。お父さんはよく仕事場に泊まると連絡がくる。これは家族の問題というより、あの二人の問題だ。私は蚊帳の外で振り回されるだけ。二人の大きな声の間に私の声が入る隙間なんてないのだもの。
泣き寝入りして暗くなった部屋で、大鏡の布を開ける。向こうでは眠る三十番の頭があり、私は脱力してしまうのだ。
「良い夢を、見ているかい」
指先で鏡に波紋を立て、掌を少し強めに押し進める。そうすれば膜を破るように手が向こうへ渡ったが、それ以上進むことはなかった。
私は誰とも交代しようとしていない。違法な品は私を通さない。
けれど三十番に触れることはできたので、指通りの悪い毛に指をうずめた。ゆっくり撫でれば指先に濡れたような感覚があり、腕に鳥肌が立つ。彼を起こさないように腕を引けば、指先に赤黒い液体が付いていた。
「さん、じゅう番?」
呼んでしまう。指先が震えて、声も震えて、心臓も震えて。
三十番は横たわったままだ。
見えない顔が、ヒビの入った角が、私の不安を肥大化させた。
「寝かせてやってくれ。今日、ご主人様に鎖の音がうるさいって殴られたんだ」
呼吸が浅くなりかけた時、教えてくれたのは二十五番くん。彼は額縁に寄りかかり、私はもう一度鏡の向こうに腕を差し込んだ。
「鎖がうるさいなら、外してあげたらいいじゃん」
「外されないさ。俺達は奴隷だから」
「奴隷なら殴ってもいいの?」
「奴隷だから殴られるんだよ」
血が付いた指先を三十番に伸ばす。寝返りをうった彼の顔は腫れているのに、空気は穏やかだ。頬だと思う所を指の甲で撫でる。彼の休息を邪魔しないように心掛けながら。
あぁ、滲んだ視界が鬱陶しい。流れる涙が、鬱陶しい。
「好きで奴隷にされたわけじゃ、ないでしょ」
「そうだよ。何もしてない。何も選んでない。だからこうして繋がれて、振り回されるんだ」
三十番から手を離して、二十五番くんと手を繋ぐ。彼の手は痩せていても大きく、包まれる心地がした。
「ここで君を引けば、私はそっちに行けるよね」
「そんなことしたら三十番の寿命が縮む。俺も俺と同じ存在を殺さないといけない。だから嫌だ」
手を離した二十五番くんが膝を抱える。鎖の音は小さく響き、私の手は再び三十番に伸びていた。
「君達は、こっちに来てもその姿?」
「いいや、そっちの自分の姿になる。鏡の魔法でな」
「自分と代われなかったら、その顔を見て自分を探すのかな」
「少し違うな。魔法の鏡は最初から、出来る限り自分同士を引き合わせる。自分同士でなくても、親とかきょうだいとか知り合いとか。そうやって自分と出会いやすい環境を整えるんだ」
「……おかしな話。自分を探して、自分を殺すなんて」
「幸せになりたいだけなんだろうよ。だから自分だろうと殺しに行く」
二十五番くんの声は平坦だが、決して冷たくはなかった。鬼みたいな顔をしてるのに声は優しいだなんて、偏見ありきの考えだな。
「二十五番くんも、物知りだ」
「三十番の真面目さに影響されただけさ」
二十五番くんは三十番の角を撫でる。私は目頭が痛くなり、二十五番くんに視線を向けた。黒い彼は言い聞かせるように目を伏せる。
「魔法の鏡は作っちゃダメなんだ。生きる世界を変えるなんて、しちゃダメなんだ」
「今いる世界が、どれだけ苦しくても?」
「ダメだよ。どれだけ隣の世界が幸せそうに見えたって、その輪に入ったって、潜り込んだ自分自身は変わってねぇんだから」
二十五番くんが視線を上げる。壁に頭をつけた彼は、両手首を繋ぐ鎖を掲げていた。
「変わるのはしんどい、勇気がいる、気力もいる。簡単に全部が幸せに、なんてことは起こらねぇさ。あるとすれば、変わる小さなきっかけに出会えるかどうかだろうよ」
「……きっかけって、どこにあるんだろうね」
「さぁな、どこを探してもねぇかもしれねぇし、そこら辺にあるかもしれねぇ。間違って乗った電車。普段は通らない路地。歪んだ橋の影とか、さ」
二十五番くんの指が首輪にかかる。彼が力を込めれば外せそうだと思ったが、二十五番くんが鎖を壊すことはなかった。電池が切れたように力が抜けて、投げ出された両手から鎖の音がする。
「二十五番くん」
「……逃げないよ、逃げれねぇよ。そんな勇気ある奴、そうそういない。違う世界の方が今の世界よりも過酷かもしれないんだから。息ができなかったり、言葉が通じなかったり、常識が全く違ったり。そんな一か八かのことなんてできねぇよ」
青い目が私を横目に見る。何も言ってないよ、なんて口にするのは野暮だろう。二十五番くんは、自分の考えを教えてくれたのだから。
黒い鬼は眠る体勢に移行する。私は三十番の頬を掌で覆い、鬼の彼が零す言葉を拾っていた。
「明日も明後日も、その次も。何もしない俺達は、何も変えられないままさ」
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