君の孤独に泥を塗る 後編


「蝶を、捕まえてしまったんです」

 

 先輩の話は、そんな言葉から始まった。

 

 中学一年生の時、課外授業として自然の多い広場に行った。自分の描きたい風景を描く授業だったのだが、そこで先輩は一つの蛹を見つけたそうだ。

 

「珍しい、青みがかった緑の蛹でした。それが本当に綺麗で、綺麗で……」

 

 先輩は蛹を中心とした絵を描くことにしたらしい。鉛筆で丁寧に下書きをして、どうすれば本物に近い色になるかと何度も絵の具を混ぜたそうだ。

 

「なりませんでしたけどね。あんな、鮮やかな色には」

 

 色作りを終え、いざ着色となった時。不意に蛹が動いたそうだ。

 

 先輩は描く手を止めて蛹を凝視し、蝶の羽化を初めて観察した。

 

「畳まれていた翅が徐々に開くあの姿。綺麗な蛹から出てきた美しい蝶は、発光しているように輝いていました」

 

 翅を軽くはためかせた蝶を見て、先輩の思考は止まっていたと言う。あまりにも綺麗で、あまりにも幻想的で、まるで非日常に連れて行く白うさぎのような存在にすら思えたから。

 

 蝶が飛び立つ。

 生まれて、初めて空へと向かう。

 美しい翅を動かして、先輩の前から飛び立とうとする。

 

 その、瞬間。

 

 先輩の両手は、蝶を捕まえた。

 

「丸く、優しく、包むようにしたつもりでした。触れれば壊れそうな蝶だったので。いや、もともと触ることもダメだったんです。あんな幻想的なものを、捕まえてもっと近くで見たいだなんて……好奇心は、毒でした」

 

 手の中を覗き込んだ先輩は、息を呑んだ。自分が今しがた捕まえた蝶が溶けて、自分の掌に吸い込まれていったから。

 

 彼女は慌てて両手を広げたが、そこには微かに青く輝く液体が残っていただけ。それもすぐに消えてしまい、先輩の体からは力が抜けたそうだ。

 

「殺してしまったんだと思いました。繊細すぎるあの蝶を、私は、私の勝手で殺してしまったんだと」

 

 目に涙を滲ませた当時の先輩は、先生の残り時間の声で我に返った。せめて、せめて自分が見た美しいものを、誰も彼も魅了する筈だったあの蝶を描かなければ、と。

 

 先輩は蛹の下書きを消し、自分が描けるだけの力を持って蝶の下書きをした。作ってあった色により青を混ぜて、筆に乗せた思いは、懺悔だ。

 

「ごめんね、と、呟きました」

 

 その時、筆の先から零れた絵の具は丸ではなく、蝶の形になって画用紙に落ちた。それは紛れもなく先輩が捕まえた蝶。美しさも繊細さもまごうことなく、溶けてしまった蝶だった。

 

「驚きましたよ。そのあと、なんど筆を滑らせても、私の線は蝶になったんです。滴らせた水滴も、下書きをなぞった線も。デジタルの絵で描く時の、特殊筆のようだと言えばいいのでしょうか」

 

 細い線を描けば小さな蝶が、平筆で描けば大きな蝶が、先輩の作った色そのままに浮き出てくる。

 

 先輩はその年、中学生の美術コンクールで最優秀賞を貰ったそうだ。

 

「私は絵筆を持つと、蝶しか描けなくなりました。鉛筆や他の物ならばいいのに、絵の具を使うとダメなんです。蝶しか描けない、蝶しか生まれない」

 

 中学生の先輩は美術部に勧誘された。君の描く蝶は素晴らしいからと。そこで絵の具を渡された。自分は描けない、描けないと言わないといけない。思った先輩だったが、両手を見下ろせば蝶の青が残っている気がしたそうだ。

 

「罰だと思ったんです。あの子を自分の好奇心だけで捕まえてしまった、私への罰。描けないなんて許さないと、この、両手に言われている気がしてなりませんでした」

 

 先輩は一人で描くことを条件に美術部へ入り、蝶を描き続けた。絵筆を滑らせて、絵の具を散らして、自分が作った色で羽ばたく蝶達をカンバスに閉じ込め続けた。

 

「そう、閉じ込めたんです。蝶はもっと自由なのに、私はカンバスに閉じ込めている。描き始めてすぐに気づきました。私は罪を重ね続けているのだと。掌で蝶を閉じ込めてしまった私は、絵の具の蝶達をカンバスに閉じ込める業を、続けているんです」

 

 何度も筆を置こうとしたらしい。もう描けない、描きたくない。嘆いた先輩を止めたのは同じ美術部員であり、顧問であり、両親だったそうだ。

 

 素晴らしい才能なのだから描かないなんて勿体ない。

 貴方の絵に胸を打たれた人がどれだけいるか。

 自分を信じて。

 さぁ、描いて。

 

「鉛筆でスケッチをすれば、それは息抜きかなってみんな笑うんです。スプレーを持ったら、それは君の作風に合わない気がすると苦笑されるんです。私は蝶を描く為の絵の具と筆が似合うよ、なんて」

 

 話してくれた先輩は、蝶の軍勢が描く夜の街並みを見つめていた。丘から街を見下ろすような構図で、空に瞬く星さえも蝶が織りなす幻想絵画。

 

「私は、蝶を描きたいわけじゃない」

 

 筆を置いた先輩の顔は、夕焼けが深い色で隠していた。

 

「でも、描かないといけないんです。あの日、この子を捕まえてしまったのは私だから。絵の具の翅では重たくて、遠くへ飛べないって分かっているから。だからカンバスに向かって、飛ばして、描いて、閉じ込めて。どこにも行けない蝶達を、多くの人に見てもらえるようにしてるんです」

 

 振り返った先輩は、笑っていた。笑顔で筆を取り、先から垂れる夜色の絵の具が零れていく。それは宙で丸から蝶へと変わり、羽ばたけないまま先輩の上履きに吸い込まれた。

 落書きなんてレベルは越えた、綺麗な装飾が先輩の上履きに現れる。

 

 筆を水につけた先輩は、出来上がった絵の前に座った。俺に背を向けて、蝶を閉じ込めた上履きの先を軽く揺らしながら。

 

「私は、蝶を描く為だけにいるんです」

 

***

 

「テーマは……ネコ、かな?」

 

「はい」

 

 再提出の期日、俺は疑問を持たれるネコの絵を提出した。美術教師はおかしそうに眉を下げていたがどうでもいい。出したのだから最低でも単位は貰えるだろう。

 

 放課後の美術準備室から出た俺は、鞄に入れた虫かごとカンバスを確認した。どちらも自前で購入したものである。

 

 先輩の話を聞いてから、俺は俺について考えた。俺は何かをする為にいるのかと。先輩は蝶を描く為だけに自分はいるのだと言ったが、そんな小難しいことを俺は理解できない。

 

 先輩は捕まえたかったから蝶を捕まえた。まだ中学生の好奇心だ。人を殺したとか動物を池に投げ込んだとか、道すがら子どもを殴ったとか、そんな質の悪いものでもない。

 

 ただ、綺麗だったから。

 

 思わず浮かんだ好奇心を罪だとして、絵を描くことを罰だと言って。かと思えば、絵の具の蝶をカンバスに閉じ込めるのもまた罪だと言う。

 

 ならば、先輩の罪はいつ晴れるのだ。いつ終わるのだ。誰が「もういいよ」と肩を叩くのだ。

 

 あの美術教師はダメだ。少し東雲先輩のことを口にすればとたんに褒めやかす。まるで自分の手柄のように。

 

「彼女は凄いよね、才能に恵まれてる。なんてったってあのコンクールで――……」


 他の美術部員でもダメだ。アイツらには皮肉と嫉妬と嘲笑しかない。それもそうか。努力している自分達よりも先に立つ凄い人がいるのだ。一人美術室に来ることはなく、どんな思いで描くかも知らないから。

 

「あぁ、先輩ですか」

 

「いいですよね、あぁいう天才肌の人」

 

 笑った美術部員に、もしかしたら先輩は気づいているのかもしれない。それすら自分への罰だと思っているのかも、なんて、それは俺の考え過ぎであってほしいな。

 

 コンクールで最優秀賞を貰う凄い人。

 独創的な蝶の絵が描ける天才。

 絵を描くことが自分の意味だと笑った、俺と同じ高校生。

 

「東雲先輩」

 

 放課後、俺は第二理科室へやってきた。先輩は既に新しいカンバスを準備しており、そこにはまだ何も描かれていない。

 

 先日完成した夜街を見下ろす絵には〈狭間〉とタイトルがつけられており、街と夜空の境が中心の作品になっていた。

 

「こんにちは、水望くん」

 

 東雲先輩は今日も憂いを帯びて口角を上げる。教師からは才能に恵まれていると褒められて、部員からは天才肌だと妬まれる人だ。

 

 先輩は蝶の絵を描く義務を自分に課せていた。

 

 対する俺は、絵なんて単位を貰えればいいものだと思ってる。授業だから提出しなければならない枷でしかない。同じものへ向き合っているのに、先輩と俺の間には大きな違いがあった。

 

 先輩は白いカンバスの前に座って、絵の構想をする。俺は近くの机に行儀悪く腰掛けたが、先輩に注意されることはなかった。

 

「……君は、変わっていますね。私の突拍子もない話を聞いても、おかしな描き方を見ても、ここに来るなんて」

 

 先輩は俺に顔を見せない。白いカンバスに顔を向けたまま、独り言みたいに話すのだ。

 

「ネットに書き込まれるのではないかと怯えたんですよ、これでも」

 

「俺、そんなに信用ないですか」

 

「どうとも言えません。とつぜん美術の課題を持ってくるような人ですから」

 

「先輩の話を聞いた後だって、毎日ここにくるマメな性格だったじゃないっすか」

 

「なら、課題を出せた今日、水望くんはどうしてここに来たのでしょう」

 

 先輩が振り返る。眉を八の字に下げて、困ったように笑っている。


 俺は口を結んで、鞄のファスナーに手をかけた。


 先輩の言葉はいつも淡々としている。顔は穏やかなのに、自分の領地へは踏み込ませないような喋り方。自分だけで全てをこなそうとする雰囲気が流れている。

 

 俺とはまったく正反対。笑われても冗談みたいに言い返すしかできない俺は、誰にだって内側を踏み荒らされる。荒らされたまま笑ってる。踏まれて怒るようなものがないのかと思ったが、鉛筆の芯を折るくらいの何かはあったのに。

 

「俺は、先輩みたいに何かしないといけない、みたいな義務はないんです。俺の絵に価値は無いし、画伯だって笑われるし。頭がいいわけでも、運動ができるわけでも、クラスの中心にいる性格でもない。簡単に誰かと変われる、誰でもない奴が俺です」

 

 先輩を真似て淡々と喋ってみる。先輩が口にすれば知的に思える喋り方も、俺では幼児のママゴトのようだ。

 

 気恥ずかしさを隠して、鞄から虫かごとカンバスを出す。俺が描くにはちょうどいいサイズのカンバス。文房具屋で買う時に色々と種類があって悩んだし、まず自分が足を運ぶ日が来るとは思っていなかった。買った後は疲れ切ったので家のネコに癒してもらったわけである。

 

「水望くん……?」

 

「俺、頑張ったことを笑われない、下に見られない奴になりたいんです。ちゃんと価値ある奴に、なりたいんです」

 

 元の三分の一の長さになってしまった鉛筆を出す。スケッチブックも買ったので、鉛筆の寿命はそろそろだろう。大丈夫だ。命尽きれば次の鉛筆が待っている。

 

 先輩はネコ目を瞬かせる。少しだけ表情が幼くなったと言うか、年相応になった感じだ。

 

「だから先輩、狡いお願いをさせてください。課題の絵を教えてもらうよりも、狡くて突飛なこと」

 

 初めて会った日のように、俺は不躾な言葉を告げる。そうすれば、先輩もあの日と同じように、俺を笑わないでくれた。

 

「俺が開いた虫かごを描くので、先輩は飛び立つ蝶を一匹、描いてくれませんか?」

 

 先輩の喉が鳴る。蝶が描かれた上履きが揺れて、視線は右往左往と忙しなかった。陸上部の声しか聞こえなくなった教室内は、少しだけ緊張した空気を張っている。

 

「……なんで?」

 

 暫くして、やっと先輩から返ってきた言葉は疑問だった。俺は膝に置いたカンバスと、机に投げたスケッチブック、どこにでもある虫かごを見る。

 

 俺が言葉を考える間に、先輩は両手を握り締めていた。

 

「分かりませんよ、水望くん。私が蝶を描いて、水望くんが、虫かごを描いてくれる。それで君は価値ある人になれるんですか? 君が求める人に、なれるんですか? 私の現実味のない話を聞いて、どうして私に、そんな提案をしてくれるんですか」

 

 先輩が、警戒してる。俺の提案を深読みして、勝手に奥を探ろうとして、崇高な理由や精神があるのだと勘繰っている。

 

 だが俺は利口ではない。馬鹿である。成績は中の下。美術は下の下。歪しか描けない画伯である。

 

 だから理由だって、単純なものなのだ。

 

「先輩が、寂しそうだったから」

 

 先輩の頭上に疑問符が飛ぶ。警戒していたネコが遊び道具を見た瞬間みたいだ。先輩はやっぱり、ネコっぽい。

 

 俺は喉が渇く気がして、固く鉛筆を握り締めた。

 

「俺の絵に価値はないです。何度も言うように。俺の絵は課題として出して、一番下の評価貰って、家に帰って埃を被る。周りには画伯だって手を叩いて笑われる……でも先輩は、先輩だけは、笑わないでくれたから」

 

 自分の気持ちが幼稚で安易なものだって分かってる。それでも、俺はもう、ここで一人蝶を飛ばし続ける人を忘れられないんだ。

 

「俺はやろうと思って、できないなりにやってるんです。それを笑ったりする権利があるのは俺だけだと思うし、できる奴ができない奴を笑うなって思うんです」

 

 先輩は黙って俺の言葉を聞いてくれる。俺の絵を初めて見た時も、俺が絵を練習している時もそうだったように。

 

「先輩だけなんです。俺の絵を下手だって笑わなかったの。そんな先輩は自分を、蝶を描くしか価値がないって言うんです。寂しそうに、笑うんです。俺にはそう見えた、だから、」

 

 俺と先輩の視線が交差して、外せなくなる。困惑と驚きが混ざった黒目。俺から逸らされることはない、達観した目。

 

「俺は、優しくしてくれた人に優しくしたいって、思っただけなんです。笑わないでくれた先輩が、寂しそうなのが嫌だったんです」

 

 なんて、これは勝手な俺の気持ちだ。優しい人に懐いた子ネコとなんら変わりない。自分の願望を先輩に重ねて、先輩を使って叶えようとする、狡さの塊みたいな奴なんだ。

 

「だから考えたんです。俺にできること。俺が満足できる形で、俺の願望を叶える方法」

 

 先輩を寂しいままにさせない方法。俺に、俺の絵に価値を与える方法。それはきっと、一つしかないと思ったんだ。

 

「俺が虫かごを描きます。頑張って、努力して、先輩の蝶を自由にする虫かごを。だから先輩は、蝶を描いてください」

 

 先輩の顔を見つめる。揺れる黒い瞳に、どうして誰も気づいてあげなかったんだろう。捨てられたネコみたいな顔をする子を、誰も見つけてあげなかったんだろう。

 

 この先輩は、東雲雪という人は、なんてことない普通の女の子なのに。

 

「俺には、先輩が蝶を閉じ込めているように見えないんです。蝶が、先輩を閉じ込めているように見えるんです」

 

 俺は鉛筆を持つ指に力を込める。先輩が息を呑む音がして、俺の掌には微かに汗が浮いていた。

 

「先輩が寂しくないように、俺の絵に価値がつくように、俺はしたい。そんな不純な動機でここに通うのは、ダメっすかね」

 

 舌の付け根がむず痒くなって、笑ってしまう。体が落ち着かなくてうなじを触る。

 

 目を丸くしていた先輩は、ゆっくりと肩の力を抜き、仕方なさそうに破顔した。

 

「……水望くんって、ネコみたいですよね」

 

「はい?」

 

 力の抜けた表情は俺の気も削いでしまい、真面目くさった空気は霧散した。

 

 丸椅子に腰かけた先輩は、まだ水も絵の具もついてない筆を両手で握っている。

 

「急に現れたかと思ったから、するっと入り込んで、ツンツンしてるのにどこか真面目で。自分のしたいことをしにやってくる、自由なネコですね」

 

「俺、そんな感じですか」

 

「そんな感じです。ふらっと現れて、ふわっと近くに寄って、こっちが手を伸ばしたくなる。あぁ、ほんと、ネコみたい」

 

 喉を鳴らして笑う先輩の方がネコみたいだと思うのだが、なんとも恥ずかしいので黙っておく。先輩はしばし笑うと、綺麗な筆の先で俺を指した。

 

「いいですよ。水望くんと私の合作。ぜひ描きましょう」

 

「いいんですか」

 

「はい。そしてそれをコンクールに出します」

 

「……え?」

 

 踊りかけた気分が転倒する。急に話が壮大になったぞ。俺は第二理科室の中で話が完結するとばかり考えていたのに。

 

 先輩と合作にするまではいい。俺が虫かご、先輩が蝶。その絵が完成すれば、先輩を少しでも楽にしてあげられる気がした。俺は俺で安心して、それで終わりになる手筈だったのに。俺の絵にも、先輩ちょうを自由にしてあげられる価値があるのだと、自分中心に納得できる筈だったのに。


 合作をコンクールに出す? それは先輩の経歴に俺が加わって泥を塗るやつではないか? それでは俺の自己満足の代償が大きすぎる。

 

「いや、先輩。俺の線が入った時点で落とされますよ。俺と先輩だけなら兎も角、他の奴から見たら俺の線なんて駄作です」

 

「描く前から何を言っているんですか。駄作を描く気なんて毛頭ないでしょう? 私達は、価値ある絵を描くんです。価値ある自分になるんです」

 

 先輩の笑顔が初めて悪戯っぽいものになる。大きく真っ白なカンバスを無視して、先日出来上がった〈狭間〉すらも見ていない様子だ。


 俺の隣に椅子を引っ張って来た先輩は、自分のスケッチブックを広げていた。

 

「さぁ、水望くん。描きますよ。たくさん練習して、たくさん消して、素敵で歪な虫かごを描いてください」

 

「先輩、なんでそんなにやる気なんですか」

 

「虫かごを描いてくれる人が現れたので」

 

 先輩がスケッチブックに虫かごを描く。それは鳥かごのようにも見えるお洒落な虫かごだ。そこから蝶が飛び立てば十分な作品になる気がした。

 

「……俺、余計な提案しましたよね」

 

「いいえ、まったく。私が描いた虫かごから飛んでも意味はないんです。虫かごは私自身なんですから」

 

 先輩が持つ鉛筆の芯が濃さを増す。顎を引いた先輩は、悔しさを滲ませた微笑を浮かべた。

 

「私ではダメなんです。私ではない誰かが虫かごを描いてくれないと、開けてくれないと、私はこの子達を自由にはできないんです」

 

 それは、先輩が先輩に言い聞かせてるだけではないだろうか。

 勝手に先輩が自分に課してる枷ではないだろうか。

 

 俺は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。それは、虫かごを描けない先輩に言ってはいけないと判断したから。これから虫かごを描けるようになろうとしている俺が、言ってはいけないんだ。

 

「分かりました」

 

 俺は買った虫かごを凝視して、模写を始める。先輩に線の描き方や影の付け方を教えてもらいながら。

 

 毎日描いた。毎週描いた。家でも描いた。先輩が出す予定のコンクールに間に合わせるために、描き狂った。

 

 鉛筆は一本使い切った。二本目も瞬く間になくなった。三本目になると鉛筆だこが痛かったが、なかなかそれらしい虫かごが描けるようになった。

 

 季節は寒さを増して第二理科室も冷えたが、俺の手だけは熱かった。

 

「絵に完璧はありません。全てが同じ絵なんて描けません」

 

 達観した先輩は、俺の前にカンバスを置いた。俺が買った、俺が選んだ白い画材。

 

 最初に芯をどこに置いたらいいか、その日の俺は迷わなかった。どうやって線を引いたらいいか分かっていた。どれくらい力を入れたらいいか、どんな風に鉛筆を動かしたらいいか、虫かごを描くことに関してだけは、分かっていた。

 

 あれだけ分からなかった真っ白に俺は俺の絵を描いていく。角度をつけて、影もつけて、鉛筆の持ち方も変えて。

 

 描いて、描いて、歪でも「これが俺の絵だ」と言えるものを描いていく。

 

 先輩は何も言わなかった。スケッチブックに描いている時は何度も何度も、何回でもアドバイスをくれたのに。本番になると黙って、俺が滑らせる芯を見ていた。

 

 暖房をあまり効かせていない理科室で、俺の手が、耳が、熱を帯びる。

 

「上手」

 

 ふと、先輩の声を拾う。それをきっかけに周りの音が耳に飛び込んできたから、俺は肺の奥から息を吐いた。

 

 鉛筆を離してカンバスを見下ろす。

 

 黒い虫かご。ちょっと線が歪んでる。パースって言うんだったか、それもズレてる気がする。でも、ちゃんと虫かごに見える。扉の開いた、虫かごだ。

 

 立ち上がった先輩が筆に水を吸わせる。先の細い筆だ。

 

 筆はパレットに出された色々な青を混ぜて、幻想的な水色になる。濃淡のある青は筆に吸収され、俺は先輩の前にカンバスを出した。

 

「一発勝負、ですね」

 

「先輩が納得できなければ、また描きます」

 

「いいえ。同じかごは描けませんから、この絵は、私が完成させます」

 

 先輩の目が鋭く見開かれる。黒い瞳が一点だけを見つめて、獲物を狙うネコのようになる。

 

 失敗など許さない。


 そう先輩の空気が言い放ち、筆の先から絵の具の蝶が飛び降りた。

 

***

 

「水望くん、水望雅くんはおられますか?」

 

 コンクールの結果発表の日。いつも通り机を運んでいると教室に耳慣れた声がした。見ると黒い短髪にネコ目の先輩がいる。マフラーによって毛先が外に跳ねているのは、やっぱりどうしてネコっぽい。

 

「誰だ? あの人」

 

「なに、画伯に彼女ができたわけ?」

 

「うっせ、違うわ退けろ」

 

 いつものように俺を冷やかすクラスメイトを鞄で殴り、じゃれるように笑っておく。これは冗談なのだと誰もが分かるように、先輩に迷惑をかけないように。それが俺の責任だ。

 

 俺はクラスメイトを放って廊下に出る。先輩は理科室でも見たことないほど嬉しそうに目元を緩めており、暖房器具に集まるネコを彷彿とさせた。

 

「水望くん、コンクールの結果が出ましてね、ぜひお伝えしたくて教室まで来てしまいました」

 

 コンクールで最優秀賞を何年も取り続けていた先輩。紛れもなく凄い人が、俺の目の前で跳ねている。空気には花が咲き、こちらまで笑顔になってしまった。

 

 先輩が見せてくれたスマートフォンの画面。開かれたコンクールのホームページには、蝶と虫かごが載っていた。

 

〈佳作 東雲雪・水望雅〉

 

 思わず目を見開いてしまう。

 

 佳作の文字に並んだ、先輩と俺の名前。俺の名前が、全く興味のなかった分野で意味をもらっている。

 

 画伯と笑われ、課題を全部描き直せと言われた俺の絵に、〈佳作〉というバッジが送られた。

 

 でも、それは、あれ、ちょっと待て、あぁ、待て、待て、おい。

 

 俺の中で溢れた感情が渦巻いて、手足が暴れそうになる。胸は熱く、しかし頭は冷えて、訳が分からなくなった。

 

 何も言えない俺に先輩は目を輝かせている。はにかんでいる彼女は、どこにでもいる高校生の一人だった。

 

 あぁ、俺、は、

 

 全身に鳥肌が立つ。

 

 同時に、俺の両目からは涙が溢れてしまったのだ。

 

「わ、みなもく、」

 

「なんでもないっす」

 

 先輩の声を遮って、俺はネックウォーマーを頭から被る。目から首まで隠して、顎を引いて、今の表情を誰にも見られないように。布越しでも先輩が困っているのは分かったが、今の俺は涙を止められない。

 

 先輩の蝶ならきっと最優秀賞を取れていた。今までずっと天才だと言われてきた人なのだから。

 

 俺が加わったことで先輩は最優秀賞を逃した。それでも、俺の虫かごが佳作の一端を貰ったことに変わりはない。

 

 俺の駄作に意味ができた。価値のない俺の虫かごに、先輩の蝶が意味をくれた。それは俺が求めていたことなのに、どうしても胸を掻き毟りたい衝動に駆られて、嗚咽を堪えるのに必死になる。

 

 ふと、俺の袖が引かれた。少しだけネックウォーマーを下げると、先輩が俺の腕を引いて歩いている。生徒の間を縫って、人気のない方へ向かい、辿り着いたのはいつも使っている第二理科室だ。

 

 鍵を開けた先輩は教室に入り、俺も続いて入室する。その間も止まらない涙を吸ったネックウォーマーは少しだけ冷たくなっていた。

 

「水望くん」

 

 先輩が俺の顔を心配そうに覗き込む。やっと防寒具を下ろした俺は、みっともなく鼻を啜った。

 

 先輩は珍しく言葉に迷っている気がする。きっと佳作という結果に声を上げて喜ぶ俺を想像していたのだろう。

 俺だってそうだ。俺自身でさえ、賞を貰えれば飛び跳ねて喜ぶものだと思っていた。

 

 だが、実際はどうだ。俺の涙腺は勝手に切れて、俺の言葉では足りない感情でぐちゃぐちゃになっている。このぐちゃぐちゃを涙にしなければ、俺の状態はもっと酷いものになる気がした。

 

 先輩は俺を丸椅子に座らせて、自分も隣に座ってくれる。黙っていれば段々と教室の寒さが感じられるようになり、運動部の声も耳に響き始めた。

 

「……すんません」

 

「いえ、いいんです。こちらこそ、ごめんなさい」

 

 どうにも気まずい空気の中で、俺達はどうして謝りあうのか。

 

 俺は涙を拭いて、先輩はマフラーに口元を隠していた。

 

「……佳作って、凄いんすか」

 

「え、うん、はい、凄いよ。凄いです」

 

「最優秀賞よりも、ですか」

 

「いや……やっぱり、金賞ってなるのは最優秀賞ですが、」

 

「先輩、怒られませんでしたか」

 

 先輩の言葉が止まる。俺は鉛筆だこのできた自分の指を見て、また鼻を啜った。

 

「俺は、嬉しかったんだと、思います。俺の下手な絵に意味ができたって。先輩の蝶が意味を持たせてくれたって。そんな、コンクールとかで、賞貰うとか、初めてだし、なんかすげぇ、ぶわって鳥肌立ったんです」

 

「そうなんですね」

 

「そうなんです。でもそれって、先輩の名前には傷がついたって言うか、今までの先輩からは考えられないって言うか……」

 

「コンクールに出そうって言ったの、私ですよ?」

 

「先に、先輩を自由にしてあげたいとか、勝手に虫かごを描きたいとか、慢心したのは俺です」

 

 先輩が首を傾けて眉も下げる。俺はスマホを出してコンクールのホームページを開き、先輩が見せてくれたものと変わらない結果を見つめた。

 

 鉛筆を何本も削って、これでもかってくらい描いた虫かご。描き切った俺なりの力作。そこに先輩の蝶が一匹入るだけで、簡潔な絵が幻想的に完成した。

 

 俺は、絵が完成した瞬間に体温が上がった。こんなにも綺麗な絵を、俺は一緒に描いたのかと夢心地になったから。虫かごから飛び立った蝶を見て、先輩の顔が子どもらしく綻んでいたから。


 だから、俺は……あぁ、そうだ、そうなんだ。

 

「俺、嬉しかったのに、すげぇ嬉しいのに……先輩を飛ばせては、あげられなかった」

 

 スマホを握り締めて、最優秀賞に輝いた絵を見る。先輩の絵を見続けた俺からすれば、先輩の蝶の方が断然綺麗なのに。少なくとも俺はそう思うのに。

 

「先輩の蝶を飛ばすには、誰の目にも留まるようにするには、俺の絵だと全然足りなかった。一番上にいた先輩を、俺が重りになって、引きずり落としたんだ」

 

 悔しくて、空しくて、スマホの画面を暗くする。

 

 凄い先輩と一緒に絵を描いて、練習して、褒められて、俺は天狗になっていたのだろうか。せんぱいを逆に閉じ込めたのではないだろうか。あの美しい翅を、もいでしまったのではないだろうか。

 

「そんなことないですよ」

 

 先輩の声が、初めて怒ったような色になる。顔を上げた俺は、ネコのような先輩の目に射抜かれた。

 

「水望くん、コンクールに出される絵は何百、多い時は何千となるんです。その中で私達は佳作を受賞しました。それは凄くて、特別で、誇ることです。決して下を見るべきことではありません」

 

 真剣な先輩の声色に俺の気持ちが萎縮する。少しだけ体を引いた俺を逃がさないように、先輩は微かに詰め寄った。

 

「下を見ても、そこにいるのは上を見ている人だけです。だから水望くんも、私も、見るべきは上です」

 

 先輩の指先が俺の顎に触れて、微かに上げられる。俺は先輩の向こうにある窓を――空を、視界に入れた。

 

「水望くん、次はどんなかごを描いてくれますか?」

 

 顎から離れた指を追うように、俺の目が先輩の表情へ向かう。

 

 一番上に立ち続けていた彼女は、満面の笑みを浮かべた女子高生になっていた。俺と同じ、ただの学生になっていた。

 

「どんなかごから、私の蝶を飛ばしてくれますか?」

 

 一回きりだと思っていた傲慢な挑戦。でも先輩は、次があると疑ってなくて、重りである俺でいいと示してくれている。

 

 俺の目からは最後の涙が一粒ずつ零れて、力なく口角が上がった。

 

「まずは、鉛筆買いに行くとこからです」

 

 先輩が一度大きく瞬きして、屈託なく笑ってくれる。

 

 第二理科室には、俺と先輩の笑い声が響いた。

 

 ――後日、俺は美術部に入部届を提出した。描くのは決まって第二理科室。鉛筆とスケッチブック、虫かごのカタログが必需品だ。

 

「こんにちは、水望くん」

 

 カラフルな蝶が飛ぶカンバスを背に、待っててくれるのは一人の先輩。俺と同じ高校生で、好奇心があって、ネコ目を細めて笑うのが印象的な人。美しい蝶を捕まえてしまった、ちょっとだけ不思議な人。

 

 俺の絵は未だに上手くない。上手いと思える日が来るかも分からない。それでも描いて、描いて、描くしか道はないから。


 先輩の蝶を飛ばすのは、俺の虫かごだから。

 

「こんにちは、先輩」


 俺は今日も鉛筆を削っている。

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