君の孤独に泥を塗る 前編


 俺は絵が苦手だ。それはもう、園児が描いたのかと見間違われるほど幼稚なものしか出来上がらない。いや、きっと俺は園児よりも絵が描けない高校生なのだろう。だから今もこうして、美術の課題で再提出を食らったのだ。

 

〈一年七組水望みなもみやび 課題再提出 理由:テーマが何か分かるものを描きましょう。放課後、美術準備室へ〉

 

「いや、どう見てもネコじゃん……」

 

 俺は机に項垂れる。帰りのホームルームで配られたのは美術教師からの再提出通知であり、理由が理由で重くのしかかる。この紙切れ一枚が、俺の肩を重くするのだ。なんて威力だ。

 

「じゃーなー画伯」

 

「再提出頑張れよー、画伯」

 

「うるっせ」

 

 嘲笑うクラスメイトは俺の絵の酷さを知っている。こちとら至極真面目に描いているというのに、授業時間も手を叩いて笑いやがった奴らだ。薄情者め。お前らだって苦手の一つや二つあるだろ。

 

 クラスメイトに悪態を吐き、机に椅子を乗せる。体は重いが掃除の時間だ。今日は掃除当番ではないから、机を運ぶだけで帰れる……こともないか。美術準備室に行かないと明日怒られる。

 

 ため息と一緒に鞄を肩にかけ、再提出通知はポケットに突っ込む。

 

 隣の席では整えたプリントをファイルに入れる女子がいた。黒い髪を一つにまとめた真面目ちゃんだ。あまり学校に来ない奴のプリントをいつも整理して、掃除時間には机を後ろに下げている。

 こういう子は、俺みたいなどうにもならない悩みを持ってないのかもしれない。だから人の世話までできるんだろう。

 

 隣の奴の名前はなんだっけ。たしかこの前、丸一日家に帰ってないって担任が情報を求めてたけど。ちょっとクラスがざわついたが、次の日は普通に登校したんだよな。本人は「気づいたら記憶が飛んで日付が進んでた」とか答えたらしい。どうしたんだよ、怖いだろ。

 

 教室を出た俺は、クラスメイトの名前が「荒鬼」だったと思い出した。

 そう、名字の割に大人しい奴だって思ったんだ。真面目ちゃんと同じような雰囲気。真面目ちゃんの名前は、「秋月さん」だったっけ。交流が無さ過ぎてうろ覚えだけど、相手だって俺のことなんか気にしてないだろう。

 

 俺は靴箱に向かう奴らとは反対側へ歩き、徐々に人気はなくなった。奥まった場所にある美術室からは微かに音がしているので、美術部でもいるんだろう。俺には絶対入れない部活だ。入る奴の気が知れない。

 

「失礼しまーす」

 

 気怠いまま美術準備室に入ると、眼鏡をかけた美術教師が待っていた。いつも眉を八の字に下げて笑っている教師だが、言うことは言う。それは今知った。

 

「うーん、水望くんの絵は独創的なんだけどね、授業で評価するには難しいんだ。だからもっと線を明確にして、色合いも――……」

 

「……はい」

 

 正直、俺の再提出は永遠に終わらない気がした。物腰柔らかに長々と説明された改善点だが、要約すれば「全部描き直そうか」である。

 

 俺は新しい授業用カンバスを貰い、美術室の隅の席を使っていいと許可を出された。そんな許可を出されても困る。

 

 結局、俺は絵の上手い奴らと同じ空間で、小さくなりながら真っ白なカンバスを見つめるほかなかった。居心地悪すぎる。

 

 描けない奴に一人で描けって、それは同じものしか出来上がらねぇだろ。自転車に一人で乗れない奴に「とりあえず乗り続けろ」って言うのとは訳が違うぞ。

 

 俺は家で飼っているネコを描いた。スマホに撮った寝顔をこれでもかと再現した。周りに揶揄からかわれたが結構自信はあったのだ。しかし「全部ダメです」と評価を貰った。ならばどうしろと言うのだ。

 

 俺はその日、下書きすら描けずに終わった。

 

***

 

 できない奴の気持ちは、できる奴には分からないだろ。だってできるんだから。


 俺は数学が得意だが、それは明確に答えが出るからだ。でも美術には確固たる正解がない。必要なのは知識ではなく感性だ。その感性が俺はダメなんだろう。


 俺は三日経っても、カンバスに線すら描けなかった。


 描けばまたダメ出しをもらう気がする。ダメ出しをもらう未来しか見えない。また俺の苦手を否定されるなら、描いたって仕方がない。


 百面相している俺に、美術教師は歩み寄った。

 

「描けたかな?」

 

「いや、ぜんぜん」

 

「そっか」

 

 美術教師の生温い空気が伝わる。急かすつもりはないようだが、無言の圧が隠れた空気だ。しんどい。帰りたい。教科書を参考にしたって描けないものは描けねぇよ。

 

 しかし俺は、家に帰ると描く気など無くなるので、なけなしの気力で毎日美術室に通った。再提出の期限はちょっと延ばされたが、そのまま俺の学年が変わるまで延びてくれないだろうか。無理か。

 

 俺は上手い奴らを視界に入れないようにしながら鉛筆を回す。美術でしか使わない鉛筆は買った時ほど長さが変わっておらず、本来の仕事ができていなかった。可哀想だな、俺なんかに買われて。

 

 卑屈になっている俺はスマホを開いてネコを見つめる。柄が灰や黒の混ざった感じなのも描きにくい要因だろうか。でも、今更別の写真に変えたって意味ないし、俺の写真フォルダってネコしかいないし。

 

「水望くん」

 

 スマホを凝視してネコの柄を記憶していれば、美術教師の声が降ってきた。顔を上げると、教師の向こうから俺を気まずそうに見ている部員達がいる。

 

「描かないなら、今日は帰ろうか」

 

 ……。

 

 あぁ。

 

 俺はスマホと鉛筆を片付ける。体に刺さる視線が煩いと、ようやく感じる。

 

 椅子を仕舞った音は、やけに響いた気がした。

 

***

 

 美術室へ行くのをやめることにした俺は、教室に居残ろうかと考えていた。しかし教室にいると掃除の手伝いをさせられる。それはなんとなく嫌なので校内を回った。掃除が終わった頃を見計らって戻ればいいだろう。

 

 誰もが帰っていく下駄箱とは反対方向。校長室や事務室のある静かな方へ歩けば、ふと壁に飾られた絵が目に飛び込んできた。

 

 俺の全身に鳥肌を立てたそれは――蝶だった。

 

 俺が渡された物より何倍も大きなカンバスに、これでもかと描かれた蝶の軍勢。個々の蝶は微妙に翅の色を変え、数歩下がって見ると朝焼けの街が描かれているのだと思い知らされた。

 

 下がった踵が窓側の壁に当たる。

 

 見る者を圧倒する蝶の軍勢は、その翅に朝焼けの空を乗せていた。

 

 黒い縁取りは一切ない。遠くから見れば淡い風景画。しかし近づいてみれば、それは鮮やかな蝶の翅が見せている幻想なのだと分かる、絵。

 

「す……げぇ……」

 

 唇から感想が漏れるなんて、初めてのことだった。芸術鑑賞として劇を見たことはあるが、その時だって口から感想が出ることはなかった。

 

 しかしこの絵はどこまでも強烈で、芸術的。

 

 語彙力のない俺でさえその言葉を選んでしまうくらいに、綺麗で、綺麗で……綺麗な蝶の絵。

 

 窓枠にもたれて絵だけを見つめていれば、帰宅する生徒の声も、どこかを歩く誰かの足音も、遠くへ消えていく気がした。

 

「綺麗だよね、この絵」

 

 俺が絵を見つめて、何分経ったかも分からない時。死角からの声に肩を跳ねさせると、事務室から出てきた大人に気が付いた。

 

 黒い髪を結った地味な服装の人。首から下げた名札には難しい漢字が書かれており、読めなかった。この人はいったい何の先生だっけ。いや、事務室から出てきたから事務の人か?

 

 俺が返事に困っていると、その人はゆっくりと笑った。

 

「はじめまして。私は司書のひのき。図書室の先生というやつだよ」

 

「ぁ、ぇっと、すみません、はじめまして」

 

 図書、そっか、この人は図書室の人なのか。行かなさ過ぎて分からなかった。ある意味レアキャラ? いや、俺の行動範囲がこの人と被ってないだけか。

 

 ぎこちなく会釈した俺を気にせず、司書の先生は絵に視線を向けた。

 

「賞を取った絵なんだよ、この作品」

 

「はぁ……」

 

 気の無い返事をした自覚はある。上手いコメントなんて知らない俺は、絵の下にある作品名と作者の名前に目を向けた。

 

〈朝焼け 二年八組 東雲雪〉

 

「……ひがしくも」

 

「しののめ、ゆきさんだよ」

 

 誤読をやんわり訂正される。俺のうなじは火がついたように熱くなったが、司書の先生は穏やかに口角を上げるだけだった。

 

 うなじを搔きながら考える。俺が昨日までいた美術室に、この「東雲さん」はいたのかと。いたならば、その時はどんな絵を描いていたのかと。

 

「東雲さんは一人で絵を描く子なんだよ」

 

「え、」

 

「ここの三階。第二理科室。そこでいつも一人、描いてるよ。蝶の絵を」

 

 目が合った司書の先生はタートルネックの襟を触る。

 

 この人はどこか不思議だ。ふわふわと浮いている。この学校のどの教師よりも朗らかに笑って、ゆっくり喋って、こっちの気持ちまで凪いでいく。

 

 先生は小さなダンボールを持ち直すと、ゆらりと背中を向けてしまった。

 

「図書室はここの四階。ついでに覚えておいてね、一年生」

 

 先生の言葉は俺の耳に残る。階段を上っていく音は徐々に小さくなり、俺の肩から力が抜けた。

 

 また、目が〈朝焼け〉に向かう。

 

 額縁の中を飛び群がる蝶たちは、やっぱりどうして、鮮やかすぎた。

 

***

 

 絵画コンクールで最優秀賞をとった人。

 

 俺より一つ年上の先輩。

 

 顔も声も知らない美術部員。

 

 それが、東雲しののめゆき先輩。

 

 やっと動き出した足で俺が向かったのは、俺とは全く違う世界に住む先輩の元だった。

 

〈第二理科室〉

 

 なんどもパネルを確認して、中から物音がしないか耳をそばだてる。なんとなく聞こえたのは水が動くような音だけで、人の気配は掴めなかった。

 

 それもそうか。元より俺は機敏な感覚をしていない。絵だって興味ないし、今は自分の再提出課題に追われる身だ。道草を食わずに教室へ戻り、何かしら鉛筆で線を描かないとダメなわけである。

 

 しかし、足は第二理科室に着いてしまった。ここからどうする考えもない。コンクールで最優秀賞をとる雲の上の人に、俺のような美術センスマイナスの奴が声をかけていいはずがない。

 そうでなくても一つ上の先輩だ。帰宅部の俺に接点なんてない。先輩が俺のバイト先に来たことがあるならまだしも、そうであっても俺は気づいていないだろう。相手だって知らないに決まってる。


 ちなみに俺のバイトはネコカフェのキッチン担当だ。接点など皆無である。

 

 ならばどうして、俺はここに来てしまったのか。ここに来て、何が見たかったのか。

 

 鞄から真っ白いカンバスを取り出せば、先程の蝶が瞼の裏に浮かぶ。

 

 俺には描けない。どこから線を引けばいいのか、どうすれば課題として認められるものが描けるのか、俺にはさっぱり分からない。

 

 分からないけどしないといけない。だけど、ダメな場所すら分からないから聞きようがない。分からないまま描いて、全部ダメだったら嫌になる。

 

 俺はカンバスを額に当てて、背中を丸めてしまった。

 

 真っ白だと、何をどうしたらいいのか全く分からない。分からないことをするって、なんで、こうも、肺が重くなるんだろう。むやみやたらに走り出したくなるんだろう。

 

 膝から下が暴れそうだと思ってしゃがんだ時、理科室の扉が開いた。

 

「わぁ、」

 

「え、」

 

 抑揚のない、驚いた風の声につられて顔を上げる。いたのは黒い短髪の、女の人。耳が見えるくらいサイドの髪は短くて、毛先が外に跳ねているのが印象的だ。

 もっと、髪が長くて、眼鏡とかかけて、暗い感じの人を想像していたのに。

 

「……東雲先輩、ですか」

 

「あ、はい、東雲です」

 

 眉を八の字に下げた先輩が少しだけ膝を曲げる。綺麗な手には絵具の匂いがついており、黒い目はどこかネコのようだ。

 

「体調、悪いんですか? 保健の先生、呼んできましょうか」

 

「いや、全然、大丈夫です。すんません」

 

 俺はぎこちない空笑いをする。立ち上がれば東雲先輩を見下ろす形になったが、先輩が俺の上履きを見たので学年は俺が下だと分かっただろう。

 

「理科室に、忘れ物ですか?」

 

 けれど、先輩は敬語をやめない。丁寧な口調に俺はむず痒さを覚えて、意味もなくカンバスの縁を叩いてしまった。

 

「いや、俺、下で先輩の絵、見て。すげぇなって思って。そしたら図書の先生がここで絵を描いてるって教えてくれて、です、ね……」

 

 まるでバレた嘘を繕うように口がよく回る。白いカンバスを振りながら右を向いたり下を向いたり、俺の騒がしさはこの数秒で理解されたかもしれない。恥ずかしい。

 

 先輩も困っているだろうと久しぶりに彼女の顔を見れば、そこには無表情があった。引かれるか呆れられたかと思ったから、無表情は予想外だ。

 

 しかも先輩の無表情が一瞬だけ悲しそうに見えたのだから、もっと、もっと、予想外。

 

「せ、先輩の絵、ほんとにすごかったです。圧倒される? 芸術的? いや、なんて言ったらいいとか全然わからないんすけど、ただ、ただ、」

 

「描き方は、教えられませんよ」

 

 俺の言葉の切れ目に先輩の声が入ってくる。何度も瞬きをすると、先輩の無表情はやはり悲しそうになっていた。

 

 下を向いた目が、寂しそうに睫毛を揺らしてる。

 

「君は、新しい美術部の子ですかね? だったらごめんなさい。私は君に、何も教えてあげられないんです」

 

「え、あ、」

 

 そこで俺がカンバスを雑に振っていたと思い出す。先輩はもう一度「ごめんなさい」と残して扉を閉めようとしたので、俺は咄嗟に声を張った。

 

「俺、再提出の課題ができなくて困ってるんです! 描き方を、始め方を、教えてくれませんか!」

 

 伏せられていた先輩の目が、丸くなる。そうなれば本当にネコのようで、俺はカンバスの表面を引っ掻いた。

 

「俺、ほんとに、ほんとに絵が描けないんです。どっから線を引いたらいいとか、色をどうしたらいいとか、何も分からなくて。今回の授業ではネコを描いたんですけど、美術の先生には全部描き直しって言われて、でも、そしたら俺、どうしたらいいのか分からなくて、美術室の隅にいてもダメで、鉛筆持ってもダメで、なんかもう、ぜんぶ、ダメで、だから、だから、」

 

「落ち着きましょう、か」

 

 また、先輩が俺の言葉の切れ目を見つける。みっともない俺を止めてくれる。

 

 顔を上げると、眉尻が完全に下がった先輩がいた。

 

「描けないのは、分かりました。描けなくて困っていることも、よく分かりました。美術部の子でないことも、知りました」

 

「あ、はい、そう、です。俺は帰宅部で、美術部ではないです」

 

 先輩は理科室の中を見て、俺に視線を戻す。美術部にいた部員とは違う目の色。俺が委縮しない目をしてくれる。

 

「……線の描き方だけなら、教えてあげられるかもしれません。でも、色塗りはダメです。それでも良かったら、少し見ましょうか」

 

 先輩が扉を大きく開けてくれる。俺が大きく開けたのは瞼の方だ。

 

「い、いんですか。制作の邪魔に、」

 

「大丈夫ですよ。描くの……早いので」

 

 先輩は理科室に入り、俺は少し迷ってから足を踏み込む。

 

 最初に見たのは、白いカンバスを飛んでいる蝶たちの絵。

 

 綺麗な深い青。星空だとすぐに分かり、蝶が集まって形作られた街並みも見えてくる。あまりにも独創的な絵だ。カンバスにはまだ白い所が残っており、絵が途中であると示していた。

 

 カンバスの周りにはブルーシートが敷かれ、大きなバケツには水が張ってある。絵の具のついたパレットには平べったい筆が乗っていた。

 

「どうぞ」

 

 先輩の声で、絵に飛んでいた意識が引き戻される。先輩は近くの椅子を下ろして机を開けてくれたので、俺は急いで爪先の向きを変えた。

 

「あの、なんか、急で本当にすみません」

 

「気にしないでください。課題、できないと困りますもんね」

 

 苦笑した先輩が筆箱とスケッチブックを持ってくる。俺の隣に座ってくれた彼女は、スケッチブックの真っ白なページを開いた。

 

「改めて、私は二年の東雲雪です」

 

「俺は、一年の水望雅です」

 

 互いに頭を下げるのはこそばゆい気がした。画伯と揶揄われる俺が、賞を取るような人に名乗るなんて現実だろうか。これは、蝶が見せている夢だったりしないだろうか。

 

 顔を上げると、先輩は落ち着いた空気で微笑んでいた。

 

「では、水望くん。最初に出した課題は持たれてますか? あれば見てみたいのですが」

 

「あ、一応、返されたんで、あります」

 

 ダメ出ししかもらえなかったネコの絵を先輩に渡す。内心で笑われたりするんだろう。もしくは酷いと呆れられるのだろう。目に見えた反応をされると傷が抉れるのでやめてほしい。

 

 居た堪れない俺は先輩の絵に視線を向け、身近な現実逃避に突っ走った。

 

「どういう理由で再提出になったか、聞いてもいいですか?」

 

 現実逃避からはすぐに引き戻された。いや、今の俺に逃避することなど許されなかったのだ。

 

「最低でもテーマが分かるように描きましょう、って」

 

「あー、うーん、なるほど」

 

 先輩は俺の駄作を凝視する。笑わずに、真剣な横顔で。

 

 笑われると思ったのに、それを堪えるのが上手いのか。呆れられると思ったのに、どうしてそんな真剣な顔をしているのか。


 俺にはやっぱり、分からない。

 

「動物、を描かれてはいますよね。犬……いや、ネコ? でしょうか」

 

「ネコ、ネコです」

 

 先輩が一生懸命俺の絵を汲み取ってくれる。見る人に努力してもらわないと分からないなんて、確かに絵として成立してないな。

 

 俺は静かに肩を落としたが、先輩の声は変わらなかった。

 

「感想を言っても、大丈夫ですか?」

 

「お願いします、大丈夫です」

 

「はい、では。ネコに見えにくいのは、全体のバランスだと思います。ネコにしては耳が小さい気がして、尻尾が短いなとも思って、犬かネコか迷ってしまいました」

 

 そこから先輩は、淡々と俺の絵について教えてくれた。線が迷っている所が多いこと。おそらく、理由は寝ているネコを描こうとして関節やバランスが上手くとれていないからだと言うこと。

 

 顔と体の比率も直せる所らしい。今は頭が小さくて丸まった体が大きい。顔が小さいせいで耳も小さく、体に沿わせようとした尻尾は短くなっている。

 

「たくさん消した跡も残ってますね。描こうとしてるの、ちゃんと分かります。下書きはもっと優しい力でいいですよ」

 

 淡々と告げる先輩は俺を批判しなかった。否定もしなかった。ただ直せる所を探して、どうしたらいいのか教えてくれる。

 

 単純だけど、それだけで、俺の凝り固まった分からないが解されていく気がした。

 

「この子は、水望くんのネコですか?」

 

「はい。うちの、ネコです」

 

 スマホを出して元にした写真を見せる。そうすれば、先輩は目を糸にして笑ってくれた。

 

「可愛いです。これは描きたくなってしまいますね」

 

「はい。でも、俺が描いても、全然、可愛くならないんで」

 

「描くのは一朝一夕で上手くならないんです。何事もそうかもしれませんが。何回も練習して、やっとそれなりになるんですよ」

 

 先輩は丁寧に駄作を返してくれる。俺は代わりに白いカンバスを机に置いたが、それより先に先輩がスケッチブックを渡してくれた。

 

「本番に手を付ける前に、まずは失敗してもいい場所へ描いていきましょう」

 

「え、でもこれ、先輩のですよね」

 

「どうせ使うものですから。私が使おうと水望くんが使おうと、スケッチブックにとっては変わりませんよ。私は、あまり使いませんし」

 

 笑った先輩が、一番最後のページから逆へ逆へ使っていいと言ってくれる。ここで食い下がっても、俺はスケッチブックも白い紙も持っていない。押しかけた以上断りすぎるのはダメかと言い聞かせて、俺は鉛筆を握った。

 

***

 

「よぉ画伯、進捗はどうよ?」

 

「まーだ出せてないんだろ?」

 

「うるせ。いま描いてる途中だわ」

 

「完成したらまた見せてくれよなー、画伯」

 

「今度はどんなモンスター描くのか楽しみにしてっから」

 

「あーそーかよ、好きに言っとけ!」

 

 笑って帰るクラスメイトが好きかと言われたら、俺はそうでもない。人の気にしていることを笑い種にして楽しむなんて、養分を吸われている気分だ。

 

 お前達が笑うから俺は枯れて咲けないんだって、他人のせいにしてみたい。俺の絵が描けないのは、お前達が勝手に「描けない」レッテルを張ったからだって言ってみたい。

 

 鳩尾の辺りに沈んだ他人の笑い声。それが俺の気持ちに乗り上げて、「馬鹿にするな」を塞ぐ蓋になる。

 

「……めんどい」

 

 鞄に入れている白いカンバス。そこにはまだ、一本の線だって引けていない。

 

 東雲先輩と会ってから、放課後は第二理科室でネコの模写に勤しんでいる。最初は簡単な構図がいいとアドバイスをもらったので、フォルダの中でも綺麗に座っているネコにした。ネコらしいネコの姿というやつだ。

 

 俺は机を後ろに運び、隣の席は背の高い男子が運んでいた。いつもの真面目ちゃんではない。

 そうだ、コイツ、荒鬼は昼から登校して来たんだ。

 

 俺は久しぶりに気にしたクラスメイトを凝視してしまう。荒鬼は俺を横目に見ると、少しだけ目元を歪めた。

 

「なに」

 

「え、いや、ごめん」

 

 咄嗟に謝る俺のなんと弱いことか。でも物珍しくて見てたのは事実だし、荒鬼からすれば嫌だったのだろう。誤魔化すように笑った俺を、今度は荒鬼が凝視していた。

 

「……プリントとかノートのコピー、お前?」

 

「いや、ごめん、違う。多分それは……ぇっと、そう、秋月さん」

 

 隣の席なのに何もしてなくて、急に申し訳ない気持ちが湧いてくる。荒鬼は少し視線を逸らしたと思ったら、「そっか」とだけ呟いて帰ってしまった。教室を見渡したけど秋月さんも帰ったみたいだ。


 俺は口から出そうになった「真面目ちゃん」という言葉に奥歯を噛む。それは、俺が「画伯」と呼ばれることと一緒のようで、なんだか、喉の奥が痛くなった。


 気持ちが沈んだ自覚のある俺は、それでも第二理科室へ向かった。

 

「あ、水望くん」

 

 理科室に行く手前、二階で美術教師に呼び止められる。俺は顔を合わせたくなかったし、この人と話すのは嫌なのだが。

 

「なんですか」

 

「いや、そろそろ課題を出してくれてもいい頃だと思ってね。どうだい? 描けたかな?」

 

 物腰柔らかそうに生徒に寄り添うように、俺に近づいて言葉をかける。その仕草も立ち方も、声すらも俺の鳩尾を潰しにかかって、鞄を持つ手に力が入った。

 

「今、描いてます」

 

「そっか、よかった。美術室に来てくれなくなったからね、課題を頑張ってるのか分からなかったんだ。あ、君が美術を苦手に思ってるのは分かっているんだよ。それでもやっぱり、課題はみんな平等にしてもらってるからね。流石に延期で待ち続けることもできないから、提出、待ってるよ」

 

 美術教師が気弱そうに黒縁の眼鏡を上げる。君の味方だよ、みたいなふりして笑ってる。

 

 美術室に来てくれないってなんだよ。

 苦手なのは分かってるってなんだよ。

 頑張れってなんだよ。


 お前の前で頑張らねぇといけないのか。お前の見えない所で頑張ってるのは頑張ってるうちに入らねぇのか。

 苦手は苦手なりに考えて、模写しようとして、その姿だけで判断したのはそっちだろ。お前の描いてる頑張り方と、俺のしようとしてた頑張り方は違ったんだろ。今さら声かけてなんだよ。こんな課題出したって、ちょっと見て、低い評価して、一応単位あげるねって感じなんだろ。


 できない奴の気持ちが、できる奴には分からねぇんだろ。


 美術教師と別れた俺は、鞄に入れているカンバスを床に叩きつける想像をした。

 

「こんにちは、水望くん」

 

「……こんにちは、東雲先輩」

 

 微かに傾くのが早くなった太陽が、理科室の中を照らしている。照明を点けていても橙色は影を長くし、先輩の絵は少しずつ進んでいた。

 

 先輩は俺の前で決して絵を描かない。筆も持たないし、カンバスにだって近づかない。俺の絵を見るという約束のせいかは知らないが、こちらとしては申し訳ない限りだ。

 

 コンクールで最優秀賞を取った人の制作を邪魔している、才能無し。こんな事実が美術部や教師にバレたら俺の方が怒られるのではないだろうか。それは嫌だな。

 

「ネコ、ちょっとずつ上手くなってますね」

 

 俺が借りてるスケッチブックを覗いて、東雲先輩は目元を和らげてくれる。先輩の笑顔はクラスメイトのものとは違うからこそ、俺の心臓がささくれ立った。

 

「難しいです。なんか、キャラクターとかでよく描かれてるし、丸描いて三角の耳描けばネコになると思ってたんすけど、ダメですね」

 

「ダメなことないですよ。そのネコを描けるのは、水望くんしかいないんですから」

 

 先輩の言葉は時々、達観してると思う。俺と一つしか年が違わないのに、視野が広いと言うか、言葉の選択が大人びてる。淡々とした口調がそうさせているのかもしれないが、俺にしてみれば、先輩の口調も空気も自分に自信があるからだと思えてならなかった。

 

「俺の絵なんて、他人にとったら駄作ですよ」

 

 長さが最初の半分ほどになった鉛筆でスケッチブックを叩く。先輩が俺を見る目は今日も凪いでいて、だからこそ俺の口は苛立った。

 

「俺の絵なんて、先輩の絵みたいな価値はない。俺のはどうせ授業で描くだけで、評価貰って、それで終わり。家に帰ったら捨てるし、他の奴の作品と並べられてる時は笑われるんです」

 

 口が回る。気持ちが回る。心がどんどん空回る。

 

 軋んだ鉛筆の芯は、スケッチブックに黒い跡だけ残していた。

 

「俺が何を描いたって、誰でも塗り潰せるし、ダメだって突き返せるし、俺じゃなくてもゴミ箱に捨てられるんです。先輩みたいに綺麗な額縁に入れて、賞を貰って、飾られるような人には分かんないでしょうけどッ」

 

 掌に、鉛筆の芯が折れる感覚が伝わった。

 折れた芯が、白い紙の上に落ちている。

 欠けた木屑も落ちている。

 

 顔を上げられない俺は、正面に座っている先輩の顔なんて見られなかった。

 

 耳の奥で心臓が破裂しそうな音を立てる。持久走をした後のようにも思えるし、全力疾走をしている途中だとも思える。ゆっくりだった心音がどんどん加速して、俺の呼吸を乱していく。

 

 先輩に何を言った。先輩にどんな態度を取った。

 

 俺は、ちゃんと分かってることがある。絵は、最初から上手く描けないって、分かってる。

 

 先輩のスケッチブックを見た。俺とは反対の最初のページ。そこには何度も描かれた建物や森の絵があった。何度も描き直した跡を見た。何度も消した跡を知った。

 

 だから、先輩にだって、描けないものはある。描けないから練習する時がある。練習したから大きな評価を貰えるだけの絵が描けるようになったんだ。

 

 俺と先輩では、頑張りが違うのに。頑張り方が違うのに。俺は何を偉そうに吼えてんだよ。

 

「水望くん、私は、絵が嫌いなんですよ」

 

 先輩の言葉が俺の鼓膜を揺らす。

 

 恐る恐る顔を上げた先にいたのは、初めて出会った日のように、寂しそうな顔をした先輩だった。

 

「私が絵を描くのは、そうすることでしか許されないからです。私は、絵を、蝶を、描き続けなければいけないんです」

 

 達観してる先輩の言葉は、やっぱり難しい。俺では理解に時間がかかる。

 

 先輩の価値は作品が証明しているのではないか。あの絵が東雲雪という人を凄い人にしているではないか。あの絵、あの絵が、あの絵が……なければ?

 

 あの絵がなければ、先輩はただの先輩だ。

 

 先輩は寂しそうな顔のまま、俺の前で初めて絵に近づいた。

 

「私が色を塗るところ、見せてあげます。特別ですよ。そして……内緒ですよ」

 

 夕日に照らされた先輩は笑ってる。顔には濃い影ができて、目までちゃんと笑っていたのか、俺には判断できなかった。

 

 先輩はいつも置いている平筆を握り、バケツの水に浸す。滴るほど筆が濡れるのは正解なのか知らないが、先輩はそのまま絵の具をつけた。

 

 深い藍色、夜空の色。夜の色を吸い込む絵筆は、土から養分を吸い取る植物に見えた。

 

「私は、酷いんです」

 

 カンバスの前に先輩が立つ。薄く下書きの残った大きなカンバス。きっと素敵な絵が出来上がるのだと確信すら持てる作品。

 

 俺は、先輩が持つ平筆の先を見た。

 

 あ、

 

 一滴、落ちる。

 

 夜の色が、筆から落ちる。

 

 滴の形になって、筆と繋がった部分が細く細く伸びて、千切れて落ちる。

 

 絵の具は宙で丸になり――蝶になった。

 

「あぁ、」

 

 先輩の平筆が動いて、落ちた蝶を宙で、筆で拾う。


 夜色の蝶は掬われる形で筆の絵の具に混ざり、先輩の腕に力が籠もった。

 

 スカートの裾をひるがえし、黒い毛先が勢いに乗る。ネコのような目で一点を見つめた先輩が、筆を迷いなく振り抜いた。

 

 筆の先から絵の具が飛ぶ。丸く飛び散り、蝶になる。

 

 俺が見た、飾られた〈朝焼け〉と同じ蝶。

 

 第二理科室にずっとあった、描きかけの絵と同じ蝶。

 

 絵の具と同じ色の翅で、同じ色の体で、混ぜられた濃淡さえも再現した体で蝶は飛んでいく。真っ直ぐ真っ直ぐ飛んで、行きつく先は外ではない。

 

 蝶が翅を動かして辿り着いたのは、描きかけのカンバス。まだ色の塗られていない白。

 

 蝶はカンバスに着いたと思った瞬間、溶けるように絵となった。絵の具が滲むのと同じ原理で、蝶は蝶の形のままカンバスに付着した。

 

 先輩は平筆に水を吸わせ、夜の色を淡くする。絵の具が滴ると思った時には筆が振られ、カンバスに濃淡が生まれた。濃淡の蝶が飛び込んだ。

 

 先輩は蝶を飛ばす。

 

 絵の具を混ぜて、色を変えて、蝶は先輩が作った色で羽ばたいていく。

 

 俺の手から鉛筆が離れて、紙の上に倒れた。

 

「ほら、それらしくなってしまいました」

 

 筆を置いた先輩は諦めた声で振り返る。笑った顔が泣きそうに見えたのは、俺の気のせいなんだろうか。

 

「私は、蝶を閉じ込めているだけなんですよ」

 

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