君は化け物と戦うらしい 後編


 色画用紙さんは私の従兄に当たる方です。私よりも分厚い材質で、感情によってお顔の色が変化なさいます。

 

 伝言を受けた色画用紙さんはすぐに駆け付けてくれました。顔色は青と白が混ざったものに変わっていましたね。

 

「うわぁ……まじか」

 

「色画用紙さん、すみません突然」

 

「いや、いいんだよ」

 

 色画用紙さんに手伝ってもらい、倒れた彼を私の家まで運びます。第一発見者は私ですから。

 懐中時計さんは周囲を気にかけてくださり、三人でそそくさと道を急ぐのは緊張しました。

 

 ベッドに寝かせた彼は魘されているようでした。そしてやっぱり耳は尖っていませんし、牙も尻尾もありません。あ、確認は色画用紙さんがして下さったんですよ。

 

「こいつは人間だな」

 

「では、やはり迷い込んでしまったのでしょうか?」

 

「だろうな。姿が変わってねぇってことは違法に連れて来られた子でもないだろ。迷い者なら、夜列車まで案内してやらねぇとなぁ」

 

 色画用紙さんは腕を組み、懐中時計さんの秒針の音が部屋に響きます。人間を初めて見た私は、噂話で聞く彼らについて思い出しました。

 

 人間。突然現れる非力な種族。別の世界に生きる変な生物。感情が荒く臆病な存在。けれどその血肉はどんな美食にも勝ると言われ、人間を食べる種族もいるのだとか。捕まえて調教する種族もおられるそうです。人間は知能が高いらしいので。

 

 私は人間の彼を確認します。とても弱そうな見目をされていますね。きっと私達がこの首に手をかければ、簡単に折れてしまうのでしょう。

 

『化け物ッ!』

 

 彼の言葉を思い出し、また胸の奥が気持ち悪くなりました。嫌ですね、気持ち悪いのは嫌いなんです。この感情を紛らわせるには会話や行動が大切ですね。色画用紙さんや懐中時計さんへ意識を向けていれば、消えてくれると思うのです。

 

「夜列車なら「ホイッスル」さんに連絡をしたらいいのでしょうか」

 

「そうするか。向こうも手続きとかいるだろうし」

 

 色画用紙さんは急ぎ足で部屋を出て行かれたので、私はその背に頭を下げました。即行動される方なんですよね、色画用紙さん。私も見習わねばなりません。

 

「それにしても、本当に迷い込む人間なんているのね」

 

「そうですね、驚きました」

 

 懐中時計さんは盤面を叩きながら物珍しい雰囲気を纏います。私も彼女に同意し、起きない人間さんを観察しました。いったい彼はどこから迷い込まれたのでしょう。

 

「この子も運がいいわ。迷い込んだのが違う街だったら、何されてたか」

 

「ですね。ドッペルゲンガー化もしてないようですし、これなら寿命は縮みませんよね」

 

「だと思う。言葉も分かる道で迷ってるみたいだったわね」

 

「言葉……」

 

 私の頭に再び彼の声が響きます。


 嫌ですね、嫌です……嫌ですね。

 

「……そうでしたね。懐中時計さん、せっかく声を掛けて下さったのに、不快な思いをさせてしまって申し訳ございません」

 

「いやいや、上質紙さんが謝ることではないでしょ? この子も動揺してたみたいだし、気にしてないわ」


 懐中時計さんが背中を撫でてくださいます。私は彼女のぬくもりに呼吸を整え、背筋を伸ばしました。彼女が私の返事を気にしないでくれて、なにより、なにより。


 懐中時計さんは暫く私と雑談をしてくれました。おかげで私の中に蔓延はびこった重さは軽減されたのです。ありがとうございます。

 

「あ、上質紙さんごめん。私これから予定があるんだけど、離れても大丈夫?」

 

「はい。お手伝いしてくださってありがとうございました。大変助かりました」

 

 心優しい彼女を見送り、後日お好きな油をお届けしようと決意します。針のメンテナンスを欠かさない懐中時計さんですので、とっておきの油をお持ちしなければなりませんね。

 

 軽さの戻った足で部屋に戻ると、なんと彼が起きていました。驚きです。

 

「あら、」

 

「うお!?」

 

 窓枠を持っていた彼はぎこちなく振り返り、私は自分の顔を撫でました。

 

「もう起きられて大丈夫ですか?」

 

「お、おう」

 

 彼の黒い目が右往左往しています。不思議ですね。どうしてそこまで挙動不審なのでしょうか。

 

「では、どうして窓の近くにおられるのですか?」


 もしかして逃げようとしたのでしょうか。それはあまりオススメできませんよ。と言っても、すぐに彼の警戒が解けるとも思えませんね。


 色画用紙さんも懐中時計さんもおられません。しかし他の方を呼んで状況を大きくすることも最適ではないと思います。なので、ここからは私一人で対応せねば。

 

 さて、まずはどうしましょう。

 

「逃げようとしなくても、帰してさしあげますよ」

 

 不安を解消させるのが良いですかね。取って食おうという考えはありませんし、そんな趣味もありません。

 

 彼は目を丸くして、窓枠からゆっくり手を離してくれました。

 

「帰すって、どういうことだよ」

 

「そのままの意味です。貴方は迷い者のようですし、夜列車でお帰りいただく予定です」

 

「夜列車?」

 

「はい」

 

 そうですね、説明するにはお互い落ち着いた状況が必要でしょう。

 

腕を組んだ私は、彼に確認をしました。

 

「珈琲と紅茶はどちらがお好きですか?」

 

***

 

 夜列車。

 異形頭街には巨大な駅舎があります。様々な国や街へ繋がる線路が幾つも存在する出入口です。多くの種族の方が行き来される姿は凄いですよ。そりゃもう。

 

 そんな駅から夜だけ、しかも緊急時にのみ発車するのが「夜列車」です。

 

 警察の方と連携して出される臨時列車であり、他の世界に迷い込んだ方をお迎えに行くのが目的です。大体はお迎えご希望の方から警察に連絡が入り、駅員さんなどが動かれるんですよ。目的の駅に向かって。

 

 そしてどういう訳か、時折その列車に人間の方が紛れ込んでしまうらしいのです。目の前の彼が正にそうなのでしょう。気づかれなくて良かったのか悪かったのか。

 

「たしかに俺、昨日電車には乗ったけどさ、」

 

 口を尖らせる彼には紅茶をお出ししました。最初は渋い顔をされていましたが、牛乳とお砂糖をたっぷり入れると空気を和らげてくれました。甘い方がお好きなんですね。

 

「夜列車とか、そんなのだとは思ってなかった」

 

「そうなんですね。あちらで変に思われないよう外装変更をしているとお聞きしているので、そのせいでしょう。貴方以外の方が電車に乗られませんでしたか?」

 

「あぁ……いた。なんか、異様な雰囲気の奴」

 

 彼は何かしら思い出しているご様子です。並べたクッキーも食べてくれました。嗜好品を置いておくのはやはり重要ですね。

 

 私は椅子の背もたれに体重を預けて、質問を続けます。

 

「貴方はどうしてそのような時間に、駅に? 夜列車は終電後の臨時列車の筈ですが」

 

「……なんでもいいだろ」

 

 不貞腐れたような彼は視線を揺らしています。言いづらいことなのでしょうね。把握しました。

 

「そうですね。理由はともかく、夜列車に乗車してこちらに来たのは運がいいです。正しい迷い方ですよ」

 

「なんだよ、正しい迷い方って」

 

「そのままの意味です。もしも路地を間違えて迷ったなら、治安の悪い所に繋がっていたかもしれません。歪んだ影を踏んで迷ったなら、意思疎通ができなかったかもしれません。違法の鏡を通ったならば、貴方の姿は変わり、寿命は縮んでいたかもしれません」

 

 私の言葉に、彼は口を開閉させるだけです。唖然とした表情と言えばいいのでしょうか。世界の迷い方なんて幾つも存在するのですが、人間はそういった知識が乏しいのですかね。

 

「ご存知ないんですね」

 

「し、らねぇ、そんなこと。迷うとか、そんな、信じられるかよ」

 

「ならば今の状況はどう説明されるのですか?」

 

 また、彼は口を開閉させ、黙りこくってしまいました。かと思えば紅茶を飲み干してしまうのです。頬も抓っていますがどうしたのでしょう。忙しないですね、人間って。

 

 私は珈琲の入ったカップを回し、しばし様子を見守りました。

 

「話が少し逸れましたね、戻します。貴方、夜列車の運賃はどうされたのですか?」

 

「運賃? ホームには定期使って入っただけだけど」

 

「定期? 違います、運賃です」

 

「は?」

 

「え?」

 

 これはいけませんね。私達の間で会話が噛み合っていません。

 

 私は再び会話を中断し、シャツのボタンを数個外しました。

 

「うわッ、な、なんで急に!」

 

「少し落ち着きたいだけですよ。珈琲を飲ませてください」

 

 彼の耳たぶが熟れた色に染まります。そこで、私達とは口の位置が違うからだと合点がいくのです。人間は顔に口が付いていましたね。


 以前カフェの「マグカップ」さんが、「口を見せろ」と観光客の方に絡まれた光景が浮かびます。あの時は即座に、その場で観光客の方を血祭りにあげました。まったく、デリカシーが足りない方は来世でやり直してください。今生ではやり直すチャンスなどありません。

 

 少し開けていたチャックを下ろして珈琲を流し込みます。彼は目を見開いており、小さく呟いていました。

 

「やっぱ……化け物じゃん」

 

 あぁ、またお腹の奥が気持ち悪くなりますね。

 

 気持ち悪くて、気持ち悪くて……気持ち悪いですね。

 

 私はチャックを半分ほど閉めて、彼の首を鷲掴みます。

 

 突然のことに驚かれたのでしょう。顔色を青く変えた彼は暴れます。そんなことどうでもいいのですが。

 

 私は彼を引き摺って歩き、引き出しからペーパーナイフを取り出しました。

 

 彼を床に投げ捨てて、喉仏にペーパーナイフの切っ先を当てます。彼の口から空気が零れた音がしました。どうでもいいですね。

 

「化け物の定義は何ですか」

 

 彼の上に跨って確認します。彼は見るからに狼狽えているので、私の頭は震えるのです。

 

「見目が違えば化け物ですか。口の位置が違えば化け物ですか。種族が違えば化け物ですか」

 

「ぁ……ッ」

 

「もしもそれが化け物の定義であるならば、私にとっての貴方はどうなるのでしょう」

 

 ペーパーナイフの先を彼の肌に沿わせます。薄い皮膚は破けて、彼の首筋を赤が伝っていきました。

 

「なんだ、貴方の血も赤いではないですか」

 

 私は自分の指先をチャックで傷つけ、彼の頬に血を垂らします。彼は目が零れそうなほど瞼を開き、口は固く結ばれていました。

 

「奇遇ですね。私達の血も赤なんです」

 

 ぽたり、ぽたりという効果音がつきそうな速度で血が落ちます。頭を破られても血は出ませんが、体が傷つくと血は出るんです。不思議ですね。原理なんてどうでもいいですけど。

 

「共通点がありましたね。血が赤色。紅茶も飲める。お話だって私達はできる」

 

 ペーパーナイフは動かしません。彼の首から流れる赤は床に到着しました。染みになりますかね。掃除すれば事足りますけど。なんたって、私のお仕事は清掃員ですから。あぁ、今はそんなことどうでもいいですね。現実の会話に目を向けましょう。

 

「これだけ共通点があるのに、貴方は私を化け物だと言うんですもんね」

 

 彼の頬に切れた指を這わせます。冷たくなった顔に赤をなすりつけました。彼の冷や汗と私の血が混ざりそうです。

 

 私は自分の頭が震え、回転する感覚に気づいていました。

 

「ならば、おめでとう。私にとっては貴方が化け物だ」

 

 彼の体が硬直します。顔面蒼白の人間を見下ろす私は、ペーパーナイフを退けません。

 

「ッ、ぉ、前、頭が……ッ!」

 

「あぁ、大丈夫ですよ。問題ないので」

 

 震える声を払いのけます。おそらく私の頭が回転したことに驚いているのでしょう。そういう作りなので仕方がないのですよ。

 

 今の私は後頭部が前面に回り、笑顔を描く前面が後頭部になっています。これは体の奥が気持ち悪くて、堪らなくて、大切な方々が侮辱された時に起こります。状態を示すならば「怒っている」と言うのが正しいでしょう。

 

 私は彼に意識を向けたまま、ペーパーナイフを握り直しました。

 

「私、怒ってるんです」

 

「は……」

 

「貴方が私を化け物だと言うのは、私の大切な方々が化け物だと言われているのと同義だから」

 

 異形頭の皆さんは優しいです。温かいです。陽だまりにいるように毎日幸せで、誰かが辛い思いをすれば全員で立ち向かう所存です。

 

「大切な彼らを、化け物だなんて言わせない」

 

 彼の頬に私の指先から流れる赤が斑を作ります。黒い目はゆっくりと瞬きして、徐々に滲み始めました。

 

 私は首を傾げてしまいます。彼の目から流れ出したのは涙というやつでしょうか。目のない私には物珍しいものです。

 

 私は彼からペーパーナイフを離し、指先を握り込みました。

 

「……ごめん」

 

 あら、ららら。

 

「化け物とか、簡単に言ってごめん」

 

 震える彼は唇を噛み締めて、両目に手を置いています。彼の上から退いた私は、ペーパーナイフについた血を拭きました。

 

「分かってくださったのならいいんです」

 

「……ごめん」

 

 床に倒れたままの彼は泣いています。栓を失ったように泣き通します。どうしましょうか。こういう場面は経験がないので対応の仕方が分かりません。本当に、本日は困ったことばかりです。

 

 とりあえず、私はペーパーナイフを仕舞い、頭が再び回転したのを感じました。怒りが困惑に負けてしまいましたね。

 

「起きられますか? 首の手当てをしましょう」

 

「……ん」

 

 上体を起こした彼の目の周りは真っ赤です。私は救急箱を準備して、彼の首を止血します。薄皮を切った程度ですが、ばいきんが入ってはいけませんからね。

 

「……大切な方々って?」

 

「同じ異形頭の皆さんです」

 

「他人じゃねぇの」

 

「仲間ですよ」

 

 うつむく彼の頭を撫でて、倒してしまった椅子を起こします。紅茶のおかわりも注ぎましょうね。温かさがあれば感情の波も治まるでしょう。

 

「あんたらより、俺の世界にいる奴らの方が……よっぽど、化け物だ」

 

 床に座り込んだ彼はそんなことを言います。濡れタオルで顔についた血を拭いてあげても、彼は極力下を向いていたいようでした。

 

 この会話を深堀りするつもりがない私は、先程までしていた会話に路線を戻しました。思い出せて良かったです。

 

「運賃の話をしていましたね」

 

「あぁ、そう……それって何」

 

「夜列車は特別な列車です。ですから運賃も別払い。乗車して、目的地で降りてしまった方から自動的に精算されるんです」

 

「いや、でも俺、何も払ってないって。改札だって素通りできたし」

 

「自動的にですからね」

 

 そう、そうですね。噂では人間の方からいただく運賃は――

 

「貴方、自分のお名前を言えますか?」

 

「は? 俺は――……」

 

 いぶかしんだ彼は口を開けて、動作を止めます。それから再び顔を青くし、唇を震わせるのです。

 

 私は椅子に腰かけて、残りの珈琲を流し込みました。

 

「……――俺、名前、なんだっけ」

 

 小さな声です。今にも消えてしまいそうな、灯のような弱さです。

 

 床に座り込んでいる彼は、肩は不安げに揺らします。私は口にクッキーを放り込みました。美味ですね、やはり。

 

「なぁ! 俺! 名前!」

 

「それが運賃ですよ。人間の方は自分の名前をお支払いして、この街に降り立つんです。どうして名前なのか、詳しいことは私も知りませんね」

 

「いや何でだよ! 超勝手じゃねぇか! 俺の名前ッ」

 

「大丈夫ですよ。貴方は間違って乗ってしまったのでしょう? ならば払い戻し可能でしょうから、向こうに戻れば自然と思い出しますよ」

 

「でも、帰るなら帰るで別の何かを支払うんじゃねえのかよ」

 

「おや、聡いですね」

 

 感心しました。少しだけ。


 彼は頭を抱えながら椅子に座り直し、紅茶を飲んでくれました。噎せないでくださいよ。冷静さは大切です。私が言えた義理ではありませんが。

 

「人間の方にお帰りいただく時の運賃は「記憶」だったと思います。異形頭街で過ごされた期間の記憶がまるっと無くなるだけですよ」

 

「それはそれでどうなんだよ……」

 

 彼が顔を覆った所で、色画用紙さんが戻って来てくれました。有難いことに、ホイッスルさんが超特急で書類を整えて、深夜に夜列車を動かしてくれるそうです。

 

「ありがとうございます、色画用紙さん」

 

「俺は慌てるホイッスルさん達を見てただけだな。全員「気づかなかったから助かる」って言ってたし」


「いえいえ、駆け付けてくださって、お伝えまでしてくださいましたから。これ、お礼の繊維パルプです」

 

「マジ? じゃあ遠慮なく。後のことは頼んでいいか?」

 

「はい」

 

 私は色画用紙さんに良質の繊維パルプをお分けします。色画用紙さんはそのまま帰られました。やはり動きに無駄がない。素晴らしいですね。


 解決の流れに乗った人間の彼の件。私は端的に「今晩、帰れますよ」と伝えました。彼は目の下に疲れを見せて、覇気のない動作で頷きます。

 

「あ、私これから出社するので部屋の中は好きにしててください」

 

「え、あんた働いてんの」

 

「勿論です。清掃会社で」

 

「なんで清掃」

 

 不思議がられましたが無視しましょうね。久しぶりに感じるお化粧をすると、いつもの私の出来上がりです。にっこりした目と、弧を描いた口。抜群の笑顔です。

 

「うわ、んだそれ」

 

「お化粧ですよ」

 

「化粧……」

 

 彼は何か言いたげでしたが、私は皆さんへの差し入れを買ってから出社したいのです。だから「言いたいことがあるなら帰ってからで」と残し、家を後にしました。

 

***

 

 夜の駅舎は暖色の明かりが灯された、趣ある雰囲気です。ホイッスルさんは低い物腰で謝罪し、人間の彼は居心地が悪そうでした。

 

「じゃあ上質紙さん、向こうまで彼の見送り、お願いできる?」

 

「はい」

 

「え、あんたも一緒に行くのか」

 

「降りはしませんけどね。貴方が降りる駅を間違えないように見守るだけです」

 

「……うっす」

 

 昼間より大人しくなった彼と一緒に私も電車に乗ります。街から出ることは殆どないので、小旅行にでも行く気分ですね。眠たいです。

 

 車両の窓を背中側にする、長椅子型の座席に腰かけます。他の方は乗られていません。隣に座った彼だけの特別列車ですものね。

 

 私は、向かいの窓に映った自分の笑顔を見つめます。彼も口を開きません。列車が真っ暗なトンネルに入りました。

 

 話題がない私は、会社の皆さんが差し入れを喜んでくれた光景を思い出します。皆さんの空気が華やいだ瞬間、私のお腹に溜まっていた重たい感情は霧散したのです。私の笑顔を見て元気が出たと言ってもらえた時、飛び跳ねそうになるほど嬉しかったのです。

 

 ぼんやりと幸福感に浸かっていると、彼の呟きが聞こえました。

 

「……笑顔の化粧って、どうなんだ」

 

 私は顔を向けます。彼の言葉の意味は汲み取れませんけど。

 

「おかしいですか?」

 

「だってそれ、本物の笑顔じゃねぇだろ」

 

「お化粧ですからね」

 

「そう言う意味じゃねぇって」

 

 自分の足先を凝視する彼は、眉間に皺を寄せています。私の顔は元々真っ白なのですから、笑顔に本物も偽物もないでしょうに。

 

「だから、なんか……あー……言葉が出てこねぇけど!」

 

 頭を掻きむしる彼は何が言いたいのでしょう。人間は情緒不安定なんですか? 楽しいことを考えていた方がいいと思いますけど、そこも種族差でしょうかね。

 

 彼の声は、車両に響くほど大きくなっていました。

 

「違う、その笑顔は違う! 毎日毎日そんな笑顔で「笑ってる」なんてことにすんなよ! イライラする!」

 

「私と貴方は今日だけの交流ではないですか」

 

「そうだけど! そう、なんだけどッ」

 

 怒る彼が何を伝えたいのか、やっぱり分かりません。喉の絆創膏を掻く彼はフードを目深に被ってしまいました。

 

 また沈黙が流れます。トンネルは長く長く続き、いつ出口が来るのか私にも見当がつきません。

 

「貴方の世界には、化け物がいるんでしたね」

 

 口をついて出たのはそんな問いでした。特に意味があったわけではありませんし、答えを求めたわけでもありません。

 

 向かいの窓に映る彼は下を向いたまま、唇を震わせました。

 

「……いるよ。俺はそれから、逃げてきたんだ」

 

「おや」

 

 答えていただけるとは思わず、しかも理由が理由であっただけに少々驚いてしまいます。

 

 逃げてきた彼をその世界に戻していいのでしょうか。まぁ、こちらにいて異形頭さん以外に見つかれば、食べられるかこき使われるのでしょうけど。

 

 言葉を止めた彼は、居心地悪そうに爪先をすり合わせていました。ふむ……。

 

「その化け物は強いですか?」

 

「一体一体はそうでもねぇよ。でも、集団になると強くなる」

 

「その化け物は怖いですか?」

 

「怖いな。徒党を組んだら、俺みたいに一体しかいない、弱い奴はすぐに負かされる」

 

「その化け物はどんな攻撃をするんですか?」

 

「色々だよ、あいつらの武器は多いから。言葉があるし、武器も持ってるし……笑い声だって武器になる」

 

 目を影で隠した彼はポケットに両手を突っ込みます。私は彼の説明を何度か反芻し、肩を竦めてしまいました。

 

「やっぱり、私達と変わらないではないですか」

 

「……は?」

 

 久しぶりに彼の顔が上がります。私は姿勢を崩さないまま、向かいの窓だけ見つめました。

 

「私達だって、他の種族の言葉で傷つけられますし、武器を持って傷つけ返すこともあります。私の笑顔はよく観光客の方に笑われてしまうのですが、その時もなんだか気持ち悪いんですよね」

 

「なら、笑顔なんて、やめればいいのに」

 

「それでも、この笑顔が好きだと言ってくれる家族や友達がおられますので」

 

 顔を触って言い切ります。気持ち悪くなる時があれど、心地よくなる時があるのも事実なのですから。

 

「知らない誰かに笑われようとも、大切な方々が素敵だと言ってくれた笑顔を、私は浮かべていたいんです」

 

 言葉にすると、なんだか肩から力が抜けました。セロハンテープ先生との会話も思い出したので、今度お話しをしましょうか。

 

 隣の彼は口を結ぶと、私と同じように向かいの窓に視線を向けていました。

 

「……そっか」

 

「そうです」

 

「……俺、この会話も忘れるのか?」

 

「忘れますね」

 

「そっか」

 

「そうです」

 

 彼は何度か目を瞬かせて、深く息を吐いています。電車の速度も徐々に落ち始めたので、そろそろ駅に着く頃合いでしょうか。

 

「異形頭って、絆が深いんだっけ」

 

「普通ですよ。一人が石を投げられたらみんなで槍を投げ返します。一人が殴られたらみんなで刺し返します。暴言を吐かれた方がいればみんなで毒を浴びせに参ります。もし誰かが殺されでもしたら、街総出で相手を末代まで嬲り殺します」

 

「こっわ……」

 

「だって、大切ですから」

 

 そこに間違いはないと私は思います。大切な方を守りたい。それだけのことです。

 

 彼は重たそうに腰を上げて、列車は止まる速度に入りました。

 

「俺も大切なものが出来たら、守りてぇなぁ……」

 

 思わず零れたような彼の声。それをブレーキ音の間で聞きました。

 

「守りたい気持ちがあれば、あとはどうにでもできるでしょう」

 

 だから、私も独り言のように呟いておくのです。

 

 電車が暗いホームに滑り込みます。彼は開いた扉を見つめ、降りる手前で振り返りました。

 

「……俺、化け物を倒せるようになると思うか?」

 

「どうでしょうね。背中を向けて変わらなかったのであれば、真正面に立ってみたり、後ろに立ってみたりと、戦法はいくらでもあるので」

 

「戦い続けられると思うか?」

 

「戦い続けなくてもいいでは? 時折休憩を挟むのも有用な気がします」

 

「勝てると、思うか?」

 

「勝ちたい気持ちがあれば、いつか勝てるのではないでしょうか」

 

 奥歯を噛んで、彼は拳を握り締めます。

 

 私は彼に歩み寄り、ホームの方へ向くよう促しました。爪先の向きを変えた彼は、自信なさげな背中をしています。

 

 私は少しだけ考えて、彼の両肩に手を置きました。

 

「ここを降りたら、貴方の今日の記憶は無くなります」

 

「……おう」

 

「でも、経験は消えません」

 

 不安そうな彼に見上げられます。

 

 私と同じ赤い血が流れて、紅茶が飲めて、お話ができた彼です。

 

 私のチャックからは、少しだけ笑い声が零れてしまいました。

 

「貴方が化け物に勝てるよう、応援してますね」

 

 肩を軽く押しましょう。一人でホームに戻る勇気がないなら、私が後ろから押し出しましょう。逃げることは恥ではないですからね。ちょっと休憩もできたでしょう。

 

 ホームに足を着く寸前、微かに振り向いた彼は――笑ってくれました。

 

「俺、荒鬼あらきひじりって名前だった!」

 

 彼はホームに着地します。同時に列車の扉は閉まり、元来た方向へと発車しました。

 

 名前の払い戻しをされた彼は、茫然とした様子でホームに残されています。私は窓に手をついて、忘れた彼に告げるのです。

 

「頑張れ。荒鬼、聖さん」

 

 列車は再びトンネルに入ります。暗いトンネルを進んでいきます。

 

 私は席に座り直し、化け物との戦いに戻った彼を笑ってしまいました。

 

***

 

 上質紙である私は今日も笑顔のお化粧をして、元気にお仕事へ参ります。化け物と戦っている彼に恥じぬよう、私も頑張らねばいけませんからね。

 

「おはようございます、懐中時計さん」

 

「おはよう上質紙さん」

 

「上質紙さーん! デートの日程決めませんかー! おはようございまーす!」

 

「おはようございます、ポストさん……デート?」

 

「あっれぇ!?」

 

 笑い声が響く観光地。一部の方からは「異形頭に手を出すな」と噂が広がっているようですが、それはいい噂ですね。皆さん平和に楽しく観光してください。

 

 ここは異形頭が住む街――異形頭街ですから。

 

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