Episode5 毒されて

 一九九四年八月十三日。空井燿が自死し、死神になったあの日から三年。

 あの日と同じ炎天下で、黒い服を着て活動する。しかし、あの日と今日では、黒い服の形状も用途も違っている。

 趣味を反映した私服と、死神のオーバーコート。いま纏っているのは後者だ。暑い。

「はい、掃除完了ー」

 裏切り者の粛清を早々に終えた燿は、幾らか汗ばんだ手で携帯電話を操作し、上司への報告を済ませた。

 そんな時だった。世話役の女が、どこからともなく近付いて来た。今日は別所で作業をしていた筈だが、いつの間に戻ったのだろう。

「マルス」

「何?」

「今の戦い、見ていたけれど……。あまり無茶をしては駄目よ」

「眼科行く?」

「真面目に聞きなさい」

 怪我の一つもしていない燿はおどけて見せたものの、何故か溜息を吐かれてしまう。

「わたしは、あなたが心配なのよ」

「なんで? 俺はもう、あんたより強いよ」

「そういうことじゃないの。確かに、あなたは技術の面ではわたしを超えたわ」

「……何が言いたいの?」

 少々ムキになったのは認める。だが、説教はごめんだ。先ほどの仕事に抜かりはなかった。これは驕りではない。ただの事実だ。

 けれど、女は言う。

「ただ勝てば良いと思っているのなら、それは間違いよ。攻撃は最大の防御とはいうけれど、あなたは極端なのよ。少しは自分の体を大事になさい」

「……」

 女の言葉の意図は、燿の理解の範疇にはないものだった。しかしながら、女は燿の沈黙を反抗と受け取ったらしい。

「返事は?」

「はいはい。分かりましたよ。おししょーさま」

 若干強い口調で言われると、真面目に取り合うのが面倒くさくなってきて、燿はこれ以上がないくらいの棒読みで話を打ち切った。

「もう……」

 身を翻した燿の背後で、女がまた溜息を吐く。

 既にまともに相手にするつもりはなく、燿はマイペースに歩き出した。

「マルス」

「んー?」

「わたしたちのこと、そろそろ名前で呼んで欲しいのだけれど」

「気が向いたらね」

 背中越しの会話。やり飽きた会話。きっと、この先も進まない会話。


 * *


 アポロとディアナが死神になって、間もなく四半世紀が経つ。ここ最近、時の流れが異様に早く感じるのは、歳のせいだろうか。

 まあ、そんな無意味な自虐は置いておくとして、問題は目の前にいる教え子だ。彼は蘇生を除く全ての業務をそつなくこなし、あちこちの部署から戦闘の応援に呼ばれる優秀な死神だが、人格の面では一癖も二癖もあり、そこが厄介でならないのだ。

「――いつまで警戒心むき出しにしてんだよ」

 ある日のこと。大人げない自覚を持ちつつも、アポロは痺れを切らした。

 仕事を片付けるや否や、突然こんな不躾な言葉をぶつけられた教え子は、アポロに対し、ごく普通の反応を示した。

「急に何?」

 教え子こと空井燿は、意図的に・・・・怪訝な顔をしながら、細い目を丸くする。

 構わず、アポロは続けた。

「ヘラヘラ笑って誤魔化しても無駄だ」

 この言葉に、燿が沈黙する。お得意の飄々とした表情が、徐々に鳴りを潜めて行くのが分かった。

「仲良くしてくれとは言わねぇよ。けど、昨日今日知り合った訳でもねぇんだ。少しぐらい、信用してくれてもバチは当たらねぇだろ?」

 燿は黙ったままだ。表情はほとんどなくなっている。

「これでも戦前生まれでな。今までいろんな馬鹿を見てきた」

「あんた嫌い」

 燿の顔に笑みが戻る。しかし、普段とは違う、棘を含んだ笑みだ。彼はフードを目深まで被ると、間もなくアポロから視線を外した。

 明確な『拒絶』。案の定だ。

 アポロは決して口上手ではないが、相手がアポロでなくても、燿の心は動かなかっただろう。

 一匹狼というのは、人に対し、総じて嫌悪や恐怖を抱いている。個々で事情は違えど、生きるために孤独を選ばざるを得なかった者たちを、アポロは何人も知っている。

 燿がそのまま立ち去ろうとした時、アポロは辛々それ・・に気付いた。

「危ねぇ!」

 一体の黒い影。

 アポロや燿のものと同じ、死神のオーバーコートを纏い、アポロや燿のものとまるで違う、どす黒い・・・・光を大鎌に宿した死神。『裏切り者』。

 突如として現れたこの死神が、上方から燿目がけて大鎌を振り下ろそうしている。フードの奥の狂った眼光に、アポロは情けなくもおののいた。

 けれど、その上でアポロは動いた・・・。大鎌を地に叩き付け、自分よりも大きな燿の体を突き飛ばした。

 背中の肉が裂ける感覚。やや遅れて、燃えるような痛みがアポロの脳内を駆け巡った。

 制御を失った自分の体が、ぐらりと傾く。倒れ伏すまでのごく短い無音の中で、目を見開いた燿と視線が重なった。

 我が身を蝕む激痛に喘ぎながら、アポロは大鎌をたぐり寄せる。まだ、眠る訳にはいかないから。

 眩い黄色の光を大鎌に纏わせて、自己治療を開始する。直後、生温かい液体が雨のように降って来た。

 生温かい鮮血。アポロのものではない。そして――燿のものでも、ない。

 自己治療の片手間に、辺りに視線を這わせる。確認するまでもなく死んでいる裏切り者が、今まさに消滅を始めていた。

 傷が癒え、痛みが引いてきた頃、アポロはようやく身を起こすことが出来た。裏切り者は既に、血の一滴も残さず消えてしまっている。一歩間違えば、アポロ自身がこうなっていたのは明白だ。

「何してんの? 弱い癖に」

 燿の声がした。いつもより低い。

 ゆっくりと立ち上がると共に、アポロは答えた。

「うるせぇ。んなこと関係あるかよ」

 立って、無表情の燿と向き合った。

「おれは――おれたちは、お前の世話役だ」

「だったら何? あんたさっき、下手したら死んで――消滅してたよ。転生したくないの?」

 燿の声が、更に低くなる。震えを帯びているのは、きっとアポロの気のせいではないのだろう。

 ここから先の自分たちのやり取りは、ほぼ予測が可能だった。少なくとも、アポロには。

「んなわけあるか。ただ、教え子を助ける方が重要ってだけだ」

「頭沸いてんじゃないの!?」

 異様な静けさは、燿の叫びによって打ち破られた。

 開いた瞳孔が、アポロを捉えている。燿が初めて見せた、剥き出しの感情だった。

 燿は今まで、ささやかな不満や不快感を示すことはあっても、こんな風に思いをそのままぶつけてきたことは、ただの一度もなかった。

「俺みたいな奴のために、今日までの二十五年を棒に振る!? 頭沸いてんじゃないの!?」

「二回も言うな」

 少々想定を超えてきた罵倒に、アポロは思わず眉を落とした。

 罵倒はそこで終わった。目に見える怒りも。が、燿の言葉は終わっていなかった。

「なんで……。俺のことなんか、ほっときゃ良いのに」

 罵倒でも、文句でも、嫌味でもない。燿が零したのは、ほとんど独り言に近い小声だった。しかし、アポロには届いた。

「生憎、今はその気はねぇよ」

「意味分かんない。どうかしてる」

「悪かったな」

 今の燿の胸中には、色濃い戸惑いと恐れがある。アポロには、それが手に取るように分かった。かつての自分と同じだから。

 こうして余裕を失った燿を見ていると、なんだか子供の相手をしている気分になってきた。口に出す勇気はないが、やんちゃを叱られた悪ガキに似ている。

 そんなことを考えていたら、燿が再度発言した。

「ディアナもアポロも……どうかしてるよ」

「だから、二回も言――」

 衝撃が、一瞬遅れてやって来た。

「ほら、置いてくよ」

 一時的に挙動が停止したアポロの脇を、燿はしれっと通過して行った。最初から何もなかったかのように、すっかりいつも通りの彼に戻っている。

 逃げた。こちらの隙を突いて。やはり、食えない奴だ。なんとも言えない溜息を吐きながら、アポロは後を追った。

「……ま、お前もいつか分かるさ」

 本人に聞かれない程度の小さな声で、アポロは言った。自分の口角が上がっていることには、気付けないまま。



【To be continued】

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