Episode4 若葉マーク
一九九一年十一月某日。
「た、頼む……。殺さないでくれ……!」
戦いに敗れ、地に伏したまま命乞いを繰り返す裏切り者。黒いオーバーコートを纏った空井燿は、そんな哀れな裏切り者を見下ろしながら、物言わず静かに佇んでいた。
「マルス。さっさと
一緒に燿の背中を見守っていたアポロが痺れを切らし、いつまでも動かない燿を急かした。
燿は依然としてこちらに背を向け、黙り込んでいる。その間も、命乞いは続いている。
「迷っては駄目よ。裏切り者は本能で人間や
そう諭すのが精一杯だった。これは燿に与えられた仕事だ。世話役とはいえ、自分達が介入出来る状況は限られている。
「……はいはい。分かってるよ」
ようやく返事をした燿は、炎のように赤い光を宿した大鎌をゆっくりと振り上げた。あとは一瞬だった。裏切り者の肉体も、燿が浴びた返り血も、跡形もなく消滅していた。
「やっと片付いたな」
「そうね」
かったるそうに呟くアポロに一応同意してから、ディアナは燿の下に駆け寄った。
「怪我、治すわね」
「別にいいよ。これぐらい自分で――」
「良いから」
「……」
振り向きざまに白けた視線を向けられ、結構な溜息まで吐かれてしまったが、概ね予想通りだ。
初めてにしては驚異的に軽い燿の怪我を治療していると、後ろからつかつかと歩いて来たアポロが燿に話し掛けた。
「どうだった? 初の実戦は」
「……気分が良いもんじゃないね」
「その割には涼しい顔してんな」
「ぎゃーぎゃー泣く趣味はないよ」
理由になっていない気もするが、突っ込むのはやめておく。日頃の言動も相まって燿の本心は全く見えないが、本人としても見せる気など更々ないのだろう。きっと、誰に対しても。
誰にも心を開かない一匹狼。世話役を任された自分達は、そんな青年の心の棘をほんの少しでも取り除いてやれるだろうか。いや――それすらも、彼にとっては余計な世話でしかないのかも知れない。
「でも、ちょっとだけほっとしてる」
ちょうど治療が終わった頃、燿が突拍子のない発言をした。ディアナもアポロも意図を理解しかね、顔を見合わせつつ燿の言葉の続きを待った。
「死んだ身で言うのもなんだけど」
そう前置きして、燿は笑った。
「やっと生きる理由が出来た」
ゾッと背筋に冷たいものが走った。先ほどから胸に渦巻いていた不安と寒気の正体を、ディアナはここでようやく認識することが出来た。
燿がいつも見せ、今も見せている建前の笑顔を前に確信した。――この子は危うい、と。
* *
二〇〇九年十月某日。
絶命した裏切り者が跡形もなく消滅してゆく。
裏切り者を殺し、その消滅を確認することで任務完了となる。そして今、ここで一つの任務が遂行された。――燿の手によって。
殺し合いが終わった直後には大抵、緊張の瓦解によるひとときの沈黙が流れる。が、今日は違った。少年の悲痛の呻きと泣き声が、ノイズのように静寂な空気を揺さぶっているのだ。
初の実戦で裏切り者に敗北し、背を丸めた状態で倒れている少年――宇野樹。彼が纏う藍色のオーバーコートは、彼自身の鮮血ですっかり変色してしまっている。
「兄さん、いま助けるから……!」
樹の下にもう一人の少年――宇野渚が息を切らしながらやって来た。樹同様、通常の死神のそれとは異なる色のオーバーコートを着ている。
さめざめと泣きながら、うわ言のように「痛い」を繰り返す樹。彼を一生懸命治療する渚もまた、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
治療が終わっても、燿や渚が声を掛けても、樹は全く動こうとはしなかった。泣いて、泣いて、泣いて。この先も幾度となく命じられるであろう殺し合いに怯えていた。
しかし、樹の地獄にはまだ続きがある。
ある雨の日。樹は裏切り者に勝利した。――即ち、地獄の続きを体験したのだ。
地べたに座り込んだ樹は、魂が抜け出したような目をして、今の今まで死体があった場所を見下ろしていた。
「殺した……僕が殺した……」
樹はそんな呟きを反復するばかりで、やはり周りの声には反応しない。燿の声も渚の声も、心配して来てくれたアポロやディアナの声も、彼の心には届かない。
十五歳という若さで死神になった双子の兄弟。それが樹と渚だ。燿は上層部直々に二人の世話役に任命された。拒否した。却下された。
「きついー。仕事よりきついよー。神様助けてー」
買い物の最中に大きな独り言を連発していたら、自分を中心にサークル状のデッドスペースが出来ていた。商品が取りやすくて結構なことだ。
買い物かごが重い。片手で数えられるほどの日用品しか入っていないのに、岩のように重い。
くたびれた顔をしているのは自分でも分かる。柄にもなくあれやこれやと考えては目を回している今日この頃なので、くたびれもする。
自分もいつかは誰かの世話役をやらされるのだろうと、渋々ながら覚悟はしていた。していた。そこは間違いない。それにしても、あれは反則だろう。あれでは世話というより子守りではないか。
きっとあの兄弟は、まともな親の下で真っ当に育てられ、大なり小なり幸せな人生を歩んできたのだろう。だから、突然放り込まれた死神の世界と、押し付けられた使命にあそこまで苦しんでいるのだ。――と、燿は考察している。
ただの考察と言われればその通りだが、もしこの考察が的外れでなければ、どう転んでも無理なのだ。生前の環境とこれにより完成した精神構造が、燿と樹達とでは掠る余地もないほど離れているのだから。
くたびれた顔をしたままレジ前に立った時、燿の瞳がウィンドウ越しに少年の姿を捉えた。
雲行きを見て持って来た傘が役に立った。
推定にわか雨の最中、真っ黒なコウモリ傘を差して少年の背を追う。少年は一人肩を落とし、とぼとぼと歩いている。傘は差していない。持ってすらいないようだ。
「メルクリウス」
哀愁漂う小さな背中に、燿は淡々と声を掛けた。
呼び止められた渚はビクッと体を震わせてから、怖じ怖じとこちらを振り返った。泣いてるんだろうな、と思っていたら泣いていた。
燿は涙目の渚にビニール傘を差し出しながら、おもむろに口を開いた。
「百均クォリティだけど」
「あ……済みません……」
「お代はツケとくね」
「え……」
「冗談だよ」
傘が燿の手を離れ、渚の手に渡った。
渚がネームバンドを外し、周囲を気に掛けつつ傘を広げる一連の動作を確認した後、燿はのんびりと歩みを再開した。
渚と並んで濡れた歩道を進む。帰る場所は同じアパートだ。普段ならここで即興の雑談を吹っ掛けて渚を弄るところだが、流石に今はしない。
今の渚の心境は手に取るように分かる。燿が今やるべきことは一つだけだ。
「なんか悩みごと?」
尋ねる体で促すと、渚が大きく目を見開いた。
見開かれた目から大粒の涙が溢れ出し、渚の頬を更に濡らしてゆく。案の定、誰にも話さず、溜め込んでいた感情があったのだ。
「聞くだけ聞くよ。無理強いはしないけど」
素っ気なく言う燿。渚はしばらく言葉もなく泣き続けていたが、やがて止まらない涙を堰き止めるように両目を擦ると、嗚咽混じりに発言した。
「兄さんが……」
「うん」
「兄さんが壊れちゃうよ……!」
溜まりに溜まった負の感情をぶち撒けた声は、限りなく悲鳴に近かった。
「兄さん、何も悪くないのに、あんなにボロボロになって……このままじゃ兄さんが……っ」
「言いたいことは分かるよ。でも、こればっかりは周りのサポートを受けながら少しずつ――」
「それじゃ間に合わない!」
自分の意見などほとんど口にしない渚が、明確な意思をもって燿の言葉を退けた。
二人の足が止まる。割とびっくりして二の句を失っていた燿の隣で、渚は尚も声を震わせる。
「僕が……なんとかしないと」
渚はただ一人、声を震わせ、意思を口にする。
「僕が強くならないと……」
この時の渚の表情は、一言で言い表せるものではなかった。そして――この時の渚の言葉の意味を、燿は間もなく知ることとなった。
【To be continued】
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