Episode3 いつかの話

 いつだったか。

 樹の発した言葉に逆上した渚が、宇野家を飛び出して行った。

 正直、遅かれ早かれこうなるだろうとは思っていた。弟離れの概念がない樹と、兄離れしたつもりでいる渚。今まで衝突しなかったのが不思議なくらいだ。

 樹の方はすずに任せるとして、問題は渚だ。燿は重くない腰を上げ、渚の回収に向かった。

 そう遠くには行っていないだろうとは思っていたが、肩透かしを喰らうほどあっさり見付かった。

 宇野家から程近いサークルベンチ。そこに渚は座っていた。長くもない髪で顔の一部が隠れるくらい頭の位置を低くくし、悲愴的なオーラを遺憾なく放出している。

 燿は自販機で買った缶コーヒーを手に、渚の方へマイペースに歩いて行く。燿の接近に気付いているのかいないのか、渚は石像の如く動かない。

「隣、座って良い?」

「座ってから聞くな」

 座るついでに尋ねると、燃え尽きた蝋燭のような声が返って来た。いつも通りなのは喋り方だけで、さながら別人だ。

「お代はカモミールで良いよ」

「黙れ」

「ローズマリーでも良いよ」

「黙れ」

 燿はそんな蝋燭を暫く観察してから、思ったことをそのまま口にした。

「君達って、揃いも揃って馬鹿だよね」

 一瞬の間の後、返事が来た。

「わざわざ罵りに来たのか? ご苦労なことだ」

「こんな時ぐらい、強がるのやめたら?」

 今度は何も返って来なかった。「うるさい」も「黙れ」も言わず、渚自身が黙った。そして、そのまま黙りこくった。

 燿にとって沈黙は天敵だ。五分も続けば様々な禁断症状に見舞われる。そんな訳で、燿は一応言っておきたかった台詞を渚に掛けた。

「君は頑張ってたよ」

 我ながら素っ気ない。しかし、渚が隣で僅かに息を呑んだのは分かった。

「見てるこっちがヒヤヒヤするぐらいね」

 渚の肩が震え始める。止まる気配はない。

「……良いんじゃないの。こんな時ぐらい、泣き虫に戻っても」

 空の色が変わり始めた。けれど、どうやらもう少し付き合ってやる必要があるらしい。

 本当に本当に、手の掛かる後輩だ。


 あれから最初の週明け。燿が暮らす二〇一号室に、一通の定形外郵便物が届いた。

 表には住所と「空井耀様」の文字が書き込まれているが、裏には何も書かれていない。字を間違われるのはいつものことなので置いておくとして、差出人名がないのは少々気味が悪い。

 しかし、どことなく既視感のある丸文字を含め、気にならないでもない。一秒ほど悩んでから、燿は封筒を開けた。

 合法のハーブが二種。ノートの切れ端が一枚。封筒の中身は以上だ。燿は肩を震わせながら、ノートの切れ端に綴られた文章を読んだ。封筒のそれと同じ丸文字で「他言はするな」とだけ書かれている。

 もう限界だった。燿は盛大に吹き出してから、腹を抱えて笑い転げた。

「やばい超ウケる」

 隣の住人にも聞こえているのではないかと思うほど、燿は暫し大声で笑い続けた。

 ひとしきり笑った後も、燿は大爆笑の反動ですぐには動けなかった。とにかく腹が痛い。体が熱い。呼吸も上手く出来ず、まだヒーヒーいっている。

「あー、面白かった」

 滲み出た涙を指で拭い、辛うじて元に戻った燿は、ハーブティーを作るためキッチンへ移動した。


 * *


 あの時。

 生前の記憶と悪夢に翻弄され、ボロボロになっていた自分を、鈴が外に連れ出してくれた。

 鈴の優しさに甘え、誰にも言えなかった本音と絶望をぶち撒けた。しかし、そうする内に鈴まで泣き出してしまい、後悔と罪悪感が濁流のように押し寄せて来た。

 胸の内を吐き出し、声を出して泣いたことで、幾らか心は晴れた。けれど、その結果として鈴を泣かせてしまった。

 また泣かせてしまった。胸の内を吐き出したのは間違いだったのだ。樹がこう確信するや否や、鈴に謝られた。

「なんで、鈴が謝るんだよ……」

 涙にむせびながら、涙声で問うた。

「樹君が好きで、大切なのに、どうして良いか分かんなくて、なんの力にもなってあげられなかったから。傍にいることしか出来ないでいたから」

 何故。どうして彼女は、こんなにも温かいのだろう。何も悪くないのに、自分事のように泣いている。一緒に泣いてくれる。

「だから……ごめん。本当にごめんね」

 鈴の温もりが心地よかった。温かい鈴が愛おしかった。駄目だと知りつつも、独占してしまいたくなるくらいに。

 気付けば鈴の方へ身を乗り出し、唇を重ねていた。鈴の動きがぴったりと止まった。

 ゆっくりと唇を離す。鈴は放心していた。

「有難う。あの日、僕を見付けてくれて」

 自分はこんなにも穏やかな声が出せたのかと、内心驚いた。

「有難う。僕を好きになってくれて」

 感情と涙が、次から次へと溢れ出す。

「本当に、もう駄目だと思った。今までの僕には戻れないと思った。だけど、もう少しだけ足掻いてみるよ。鈴が隣にいてくれる限り、僕はきっと頑張っていけるから」

 鈴がいつまでも一緒にいてくれる保証などないが、鈴へのこの気持ちは永遠に消えることはないだろう。死神の役目を終え、来世に行くまで、永遠に続くことだろう。

「……やっと笑ってくれたね」

 言われて、初めて自分の笑みに気付いた。

「おかえりなさい。樹君」

 泣き顔を向け合い、笑い合った。死者である自分には、余りに大きすぎる幸福だった。


 と、ここまでは良かった。問題はこの後だ。

 時間を掛けて冷静になった樹は、自分がしてしまったことの重大さにおののいていた。

 何故あんなことを。自分のどこにそんな度胸があったのか。

 鈴と目が合わせられない。そう思った矢先、目が合った。暫し真顔で見詰め合った末に、互いの顔が火を吹いた。

 互いに目を逸した。どんな顔をすれば良いのか分からない。これから先、再び鈴とまともに会話出来る日が来るのだろうか。

 間もなく家に着く。しかし、果たしていま着いて良いものか。もう渚と燿が帰っているかも知れないし、そうでなくてもディアナがいる。自分の壊滅的な演技力で隠し通せるとは思えない。

 結果を言えば、帰宅後はそれどころではなくなった訳だが、これはまた別のお話。



【To be continued】

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