Episode2 きょうだい(2)

 一九八一年五月。

 少女向けアニメを観るため、居間へやって来た空井灯そらいあかりは、目の前の先客の姿に業を煮やした。

 家族の中でも特に疎ましい存在である兄のようが、生意気にも灯の先を越してテレビを点け、黙々と教材と向き合っていた。灯が入って来たことには気付いているだろうが、例の如く無反応だ。

 灯はつかつかと足早にテーブル脇まで歩み寄ると、七つ上の兄に傲然と話し掛けた。

「ねぇ、木偶の坊」

「何? 阿婆擦れ」

 こちらを見もせず、燿は素っ気なく応じた。

 見られるのも不快だが、こうして空気のように扱われるのも同等に不快だ。言い換えれば、存在が不快だ。

「勉強するなら自分の部屋でやって。邪魔」

「テレビ観てるから無理」

「テレビって、将棋じゃん。他人ひとの見て何が楽しいわけ? 馬鹿みたい」

「……」

「ちょっと、なんとか言ったら?」

「なんとか」

「死ねば良いのに」

 頭をかち割ってやりたい衝動に見舞われながら、灯は露骨に顔を顰めた。そんな彼女に、燿が依然として心の込もっていない単調な声音で言う。

「安心しなよ。来年には就職して出て行くからさ」

「就職? 夢見すぎでしょ」

「死ねば良いのに」

 いつもの泥試合。埒が明かない兄妹喧嘩。

 灯がいかに燿をねじ伏せ、チャンネルを奪おうかと考え始めた時、燿がおもむろに口を開いた。

「灯」

 珍しく名前で呼ばれて、若干調子が狂った。いったん間を置いてから、灯は応じた。

「何?」

「これ以上、この家に毒されない方が良いよ」

「は?」

 予想の斜め上を行く忠告らしきものに、思わず頓狂な声が出てしまった。同時に、よりにもよって燿如きに指図されたことで、灯のプライドは著しく傷付いた。

「お子様にはまだ分からないかも知れないけど、外の世界にこの家の『当たり前』を持ち出したら、確実に孤立するよ。外の世界で孤立したら、あらゆる自由を取り上げられて、身動きが取れなくなる。……だから、ドMじゃないなら自衛した方が良いよ」

 灯の内情などどこ吹く風で、燿はそう締めくくった。

 内容は置いておくとして、燿が灯に対し、このような長い言葉を向けてくるのは、随分と久しい気がした。

「何それ。説教?」

「さあね」

 一度だけこちらを見て、燿は答えをはぐらかした。


 * *


 二〇二二年六月。

 来たくもなかった大都会。現場となった雑居ビルの屋上から地上を見下ろしていると、背後に気配を感じた。

「ミネルヴァ。こんなとこで油売ってる場合か」

 聞き飽きた低く丸い声。条件反射で眉が寄る。無視したかったが、立場上そうもいかず、空井灯は渋々そちらを振り返った。

「何? ウスラトンカチ」

「ウルカヌスだ」

 黒いオーバーコートを纏い、大鎌を手にした同課の優男が、こちらに複雑な視線を寄越しながら遺憾の意を表した。

「まだ仕事が残ってるだろ。分かってて聞くなよ」

「裏切り者なら、さっきぶっ殺してあげたでしょ」

「あのな。お前の頭には粛清しかないのか?」

「他三つは詰まんないから嫌。ウスラトンカチがやってよ」

「ウルカヌスだ」

 二度目の遺憾は聞き流した。灯は黒いオーバーコートをなびかせながら男と向かい合うと、苛立ちから来る八つ当たりを繰り出した。

「っていうか、どうしてこんな変な時期に、よりによって人がウジャウジャいる都会に飛ばされなきゃいけないわけ?」

「ああ……なんでも、最近までここにいた部署の連中の都合らしい。俺も詳しくは知らないが、よっぽどのことがあったんだろう」

「うざ。纏めて死ねば良いのに」

「……お前、そろそろほんとに孤立するぞ」

 何気ない発言だったのだろう。しかし、灯はそれに小さな引っ掛かりを覚えた。原因を頭の中で探す。探して、見付けて――歯噛みした。苛立ちが嵩を増し、そこに屈辱感が加わった。

「孤立、ねぇ……」

「ミネルヴァ?」

「別に」

 灯は鼻を鳴らして、男の横を悠然と擦り抜けた。

「行くよ。ウスラトンカチ」

「ウルカヌスだ」

 男が付いて来ているのを気配と足音で確認する傍ら、灯は不本意にも思い出してしまった兄の声と、あの時掛けられた胸糞悪い言葉を苦々しく思った。

 昔も今も大嫌いな実兄。空井燿。しかし、灯が嫌悪し、見下していた燿の言葉は絶望的に。燿は灯の未来を予見し、灯はその予見通りの人生を歩んだ。結局、灯は最期まで燿を超えることは出来なかったのだ。

 人間だった頃の灯が現世に残した唯一の悔いであるそれは、たびたび死神げんざいの灯の心労の種となって現れる。今この瞬間のように。


 * *


「ぶえっくしょん!」

 周りの客の視線が集まるほどの盛大なくしゃみに自分でびっくりしていたら、隣席のアポロに後頭部をはたかれた。

「うるせぇんだよ。口ぐらい覆え」

 アポロからは暴力とお叱りを受け、ディアナからは困り顔で遠回しに非難されるという散々な目に遭ったのは、連れて来られたバーで二品目の注文を済ませた直後のことだった。

 自分がやらかしたベタなくしゃみに関しては反省するが、反省を促してきたのがこの二人となると、少なからず心境は変わってくる。可愛い後輩を相手に二体一とは感心しない。

「そんな寄ってたかって責めないでよ。君ら良心とかないの? 鬼? 悪魔? 死神?」

「黙れタコ」

「俺イカ派」

 ビンタされた。

「いったいなー! アポロって、弱い癖に暴力大好きだよね!」

「ああっ? もう一回言ってみろ!」

「二人とも、落ち着きなさい」

 静かながらも凛としたディアナの声が、燿とアポロの不毛な戦いに終止符を打った。

「あー、もう。どこの誰なの。俺の噂してんの」

「誰もしてねぇよ。責任転嫁すんな」

「幾ら俺がかっこいいからってさー」

 刹那的に空気が凍結する。

「……お前、何言ってんだ?」

「マルス……もう酔ってしまったの?」

「二人とも死刑ね」

 危うく大鎌を喚ぶところだった。

 目の前に置かれた二品目のカクテルを早々に煽り、怒気と殺意を鎮める。惜しいことをした気もするが、奢りなのでまあよしとする。

「あのさ」

 アポロ達の視線がこちらから逸れたのを見計らってから、なんでもない風を装って口を開いた。

「この間はありがとね」

 密かに言う機会を窺っていた言葉を、いつかみたいに酔いのせいにして伝えようと試みる。一瞬の間が空く。

「良いのよ」

「今更だろ」

 察しが早くて結構なことだ。

 二人には取り繕う必要もなかったな、と内心苦笑する。あっという間に、ただの飲み会に戻ってしまった。

 命拾いをしたあの日から、かれこれ一ヶ月が経つ。あの時の記憶は、たびたび余計なものまで連れて来る。燿は未だの扱いに悩まされていた。

 自分が死んだ理由。死んだ切っ掛け。あれはなかなかの黒歴史だった。ウラヌスに直談判でもすれば、また取り上げて貰えるのかも知れないが、どうにも踏ん切りが付かない。

 踏ん切りが付かないまま、苛立ちを覚えたまま、時間だけが流れて行く。



【To be continued】

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