藍色の死神 Rebirth

福留幸

Episode1 きょうだい(1)

 一九九八年十二月。

 宇野美埼うのみさきが祖父に買って貰った童話の本を読んでいた時のことだ。

「姉さん姉さん姉さん姉さん姉さん!」

 落ち着きから一光年離れた大声と足音が迫って来るのが嫌でも分かってしまったため、美埼は顔を顰めながら本を置いた。程なくして、右手をグーの形にしたダッフルコート姿のいつきが、美埼のいるリビングに闘牛の如く駆け込んで来た。その一片の曇りもない純真無垢な笑顔が、今日も美埼の神経を逆撫でする。

「姉さん! さっき母さ――いひゃい!」

「う、る、さ、い!」

「いひゃいほれえひゃん!」

 痛いよ姉さん、らしいが知ったことではない。美埼は意図的な溜息を吐きつつ五歳の弟を解放し、頬杖を突いた。

「で?」

「うう……」

 美埼につねられた頬をさする樹は、大層不満げだ。少し加減を誤ったか。美埼は米粒大の反省をして、大人しく樹が元に戻るのを待った。

 といっても、誰かさんと比べて切り替えの早い樹の機嫌は、放っておいてもすぐ直る。今日も例に漏れずで、グーにしていた手を解きながら、樹は改めて美埼の神経を逆撫でした。

「母さんが、これでお菓子買って来て良いって!」

 樹は声を弾ませて、持って来た三百円を美埼に見せた。

「お母さんが?」

「母さんが!」

「……三人で?」

「三人で!」

「二人しかいないけど?」

「へ?」

 樹が後ろを振り返る。誰もいない。

「あれ? なぎさは?」

「知る訳ないでしょ」

 愚問に鼻を鳴らす。白ける美埼の傍で、樹による末っ子の捜索が始まった。

 結論から言えば、捜索活動はすぐに終わりを迎えた。樹がダイニングテーブルの下を覗き、テレビ台の裏を覗き、カーテンを開け、冷蔵庫を開けたところで、リビングのドアから探し人がそろりと顔を覗かせたのだ。

「あ、渚!」

「あんた、何してんの?」

「……」

 樹と同じ顔をした末っ子の渚は、姉と兄から注目されて、おどおどびくびくしながらリビングに入って来ると、羽虫が鳴くような細声で事情を話し始めた。

「に、兄さんと姉さんが喧嘩して……だから……」

「怖くなって隠れてたわけ?」

「ごめんなさい……」

 いつもながら、意味が分からないほど萎縮している。しかし、樹はそんな渚の体たらくを気にした様子もなく、そそくさと渚の目の前に立つと、曇もりなく笑って見せた。

「大丈夫。喧嘩なんかしてないよ。僕がうるさくして怒られてただけ!」

 言う傍ら、樹は渚の頭に手の平を置いた。

「よしよし」

 馬鹿馬鹿しい。

 美埼は密かに嘆息し、二人に言った。

「コート取って来るから、ちょっと待ってなさい」

「うん!」

「うん……」

 返事を聞き届け、踵を返す。

 ――三つ子なら良かったのに。

 燻り続ける本心を隠し、美埼は早足で子供部屋へ向かった。


 今日は一段と寒い。はらはらと木の葉のように舞う雪が、美埼達の歩く地面を仄かに濡らしていく。暖地なので凍結することはないだろうが、地面の状態など関係なくすっ転ぶ人間が目の前にいるため、安心は出来ない。

「渚! 早く早く!」

「待ってよ兄さ――あっ」

 どてっ。

 思ったそばからこのざまだ。もう驚くに値しない。

 地面にくっ付いたまま泣きべそを掻く渚と、慌てふためきながら駆け寄る樹。とっくに見飽きた光景だが、どうせ今後も見せられ続けることになるのだろう。自分達は兄弟だから。

 駄菓子屋までの距離は微々たるものだ。先頭を歩いていた樹が引き戸を開けると、早速店の主が声を掛けてきた。

「いらっしゃい。美埼ちゃん、樹君、渚君」

 暖簾の向こうから、店の主が顔を出す。小柄でおっとりとしたおばあさんだ。おばあさんは店内にやって来るが早いか、慣れ親しんだ美埼達を温かく迎え入れた。

「おばさん、こんにちは!」

「こんにちは。樹君はいつも元気ねぇ」

「うん!」

 ぱたぱたと店内奥へ駆けて行く樹。その後ろを金魚のフンの如く追い掛けようとした渚にも、おばあさんは声を掛けた。

「こんにちは。渚君」

「あ……こんにちは……」

 渚の人見知りによる挙動不審に近い言動にも、おばあさんは嫌な顔一つしない。

 いや、渚だけではない。美埼や樹に対しても、おばあさんは可愛らしい孫を見るかのように、穏やかに目を細めるのだ。樹や渚にとって、それは心地のよいものなのかも知れない。けれど、美埼の場合は少し違っていた。

 挨拶を済ませ、樹の姿を探し始めた渚をひとしきり見守った後は、いよいよ美埼の番だ。

「こんにちは。美埼ちゃん」

「こんにちは」

 返す美埼の声音に、抑揚はなかった。

 誰かの温容に接する度、美埼はむず痒さを覚える。不快、とは違う。強いて言うなら、ような。

「美埼ちゃん、今年小学生になったのよね?」

「うん」

「学校は楽しい?」

「……普通」

 おばあさんは悪くないが、美埼としては余り面白くない話題だったため、無難な受け答えをしてかわした。買い物かごを手に取ると、早々とおばあさんから距離を取った。

 お菓子の棚を見て回る。余りこだわりはないので、今日も適当に気分で選ぶつもりだ。僅かな思考を経て、美埼がマシュマロに手を伸ばした時だった。

「姉さん」

 ぼーっとしていると聞き逃しかねない小声が上がって来たかと思えば、上目遣いに美埼を見る渚と視線が重なった。

「ん? 決めた?」

「えっと……僕、これが良い」

 渚は自信なさげにそう言って、ふ菓子と干し梅を美埼に差し出した。

「相変わらず渋いわね」

「……」

「待ちなさい」

 しょんぼりと肩を落とし、回れ右をした渚の腕を引っ掴む。こちらが何気なく放った言葉を、ここまでネガティブに受け取れる理屈が分からない。毎度毎度、渚には恐れ入る。

 ふ菓子と干し梅、マシュマロと金平糖をかごに入れた時、ちょうど樹が戻って来た。

「僕はこれ!」

 きな粉餅と醤油煎餅。こちらもなかなかだ。

 お金を払い、おばあさんに見送られながら外に出た頃には、雪が少しだけ強くなっていた。

「樹。これ持ってて」

「? 良いよ」

 美埼はお菓子が入った袋を樹に押し付けてから、右隣にいる渚の手を取った。渚がびっくりした様子でこちらを見る。

「姉さん……?」

「また転ばれても困るからよ」

 戸惑う渚に、美埼は素っ気なく答えた。

「あー! 二人だけずるい!」

 樹が良く響く声音で不満を口にする傍ら、美埼の空いた手を掴んだ。

「僕も繋ぐ!」

「……」

 結果的に弟二人に挟まれて歩くことになり、美埼はむず痒さと気恥ずかしさを持て余しながら歩みを続けた。

 むず痒くて気恥ずかしい。でも、別に嫌ではない。そんな複雑な感情が、美埼の胸中にひしめく。

 ――三つ子なら良かったのに。

 今日は、良い日なのか悪い日なのか分からない。



【To be continued】

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