出会いと、罵倒と、それから

「なんだ……?」


 噴水の水飛沫の音に混じる、ともすれば聞き逃しそうな小さなそれは、やや高めの少女の声だ。


「にゃぁ……にゃぁ、にゃぁ」


 文字に書き起こせば猫の鳴き声を真似ているようでいて、しかしただ台本を読み上げているだけのように淡々とした、感情の欠片も籠っていない声だ。


 その源は、そう遠くない場所――ここからは死角になっている噴水の向こう側、ほんの三歩進めば見えてしまう位置だ。


 ……誰、だろうか。


 疑問符が浮かぶが、直後にはその回答の候補が脳裏に浮かび上がってくる。


『――昼過ぎ――中庭に――連れてくるから――恋の相手を――』


 深夜の病室が、記憶のそこから蘇る。


 時が止まったような静寂。

 真っ黒なスーツの少女。

 語った願いと、交わした約束。


「……まさか」


 もしかしたらの期待と、どうせの諦観がまぜこぜになった葛藤は一瞬で、気づけばぼくは前へと足を踏み出していた。

 

 その先がぼくの想像通りでも、そうでもなくてもいい。

 その先がぼくの身勝手さへの糾弾でも、選択の重さが、結果が回ってきただけなのだから。


 重く遠く見えた三歩を、冬の水たまりに張った薄氷のように容易く踏み砕き--その先を、ぼくは見た。


「にゃぁーにゃぁーにゃぁー」


 儚げ、という言葉をそのまま表したような、というのが彼女を見て最初に抱いた印象だった。

 服の上からでも分かるほどに細く、小柄な肢体で、羽織っているベージュのカーディガンの袖から伸びる手首がそれを裏付ける。

 ぼくと同じくらいの年なのか、大人と子供の中間のような相貌は無表情で、鳶色の瞳はただ一か所、彼女が抱えるスケッチブックに向けられていた。

 

「にゃぁーにゃぁ? にゃぁー」


 スケッチブックは腿と左手で抱え込むように支えられていて、その上をここからではよく見えないが右手に持っているだろう筆記具が駆けている。

 紺のスカートから伸びる素足は振り子のようにぶらぶらと宙を動き、栗色の髪も連動して揺れる。

 足元の芝には、脱ぎ棄てられた白いサンダルがそれぞれ別の方を向いて転がっていた。

 

「にゃぁにゃぁにゃー」


 無邪気な子供のお絵かきのような風景であったが、その口から洩れるのは鼻歌でも笑い声でもなく、ただただ無機質な猫の鳴きまねで、アンバランスにも感じる。



 そして、勢い任せの熱情から我に返ったぼくの方に、問題が発生した。


 ……どうすればいいんだ、これ。


 結論から述べれば、ここから如何にすればいいのか、ぼくには全く分からなかった。


 ここ数年、ぼくは女の子と会話というものをしたことがない。

 より正確に言えば、同い年の人間、それも異性にあたる人間と交流するという経験が全くと言っていいほどに欠けている。

 小児科のチビたちに絡まれて遊び相手を務めたことはある。医師や看護師とはちょくちょく話すし、入院患者で言えば社会人に会社の愚痴を垂れ流されたりご老体連中に孫扱いされたりもする。

 だけど、その中間、ちょうどぼくくらいの年というと、見かけたことがない。

 自宅療養とか、通院とか、色々あるんだろうけれど、入院患者としては見かけたことが無かった。

 それは、健常者からしてみるとどう思うのか分からないけれど、ぼくとして見れば、年の近い人間と話す機会が減る、というより無くなることを意味する。


 そして、そんな経験不足というか絶無な身には、鼻歌交じりにスケッチをしている見知らぬ少女に声をかける度胸など、備わっていなかったのだ。


 どう話せばいいのか。

 世の流行とやらに疎いというのもあるけれど、女の子がどういう話が食いつきやすいのかがわからない。

 基本受け身で聞き役に徹してきた今までの自分が恨めしい。

 いや、そもそも、話しかけてよいものなのか。

 いきなり見ず知らずの他人に声をかけられるのだ、怪しまれても不思議じゃない。


『急に話しかけんな気持ち悪い』


 なんて言われたりしたら、人間不信になってベッドに籠もって震えながら短い余生を過ごすことになりそうだ。

 想像しただけでやたら生々しい現実感が押し寄せてきて、泣きたくなってくる。


 決心したその瞬間だけなら勢いだけで踏み出せたはずの足が、事態を、現実を知るだけで止まってしまう。

 そんな腑抜けた感情の報い妥当か。


 後ずさった足が、芝生を滑った。

 

 もともと履いていたのが底面が滑らかなスリッパで、芝も踏ん張りやすいとは言い難い。加えて姿勢自体にほとんど意識が向いていなかったというのもある。

 いや、言い訳は止めよう。

 特につまずくモノもない平地で転んだ、これだけが事実だ。

 気づいた時にはすでに遅く、ずるっとすっころび、ぼくは腰をしたたかに打ちつけた。

 転んだ先が道を舗装するアスファルトではなく芝生だったおかげで、大して痛くもなかったのだけれど、だからといって何事もなく終わる、気づかれずに去るとはいかなかった。


 起き上がった時には、驚きや怯えが混ざった目が、ぼくを見ていた。


「なに、してるの……?」


 絞り出すような声は問いかけで、第一声が悲鳴や罵倒でなかったことに少しだけ安堵する自分が、ひどく浅ましいものに思えた。


「ちょっと、ベンチで昼寝しててさ、それで」

「尾けてきたの?」


 弁解の間もなく、遮りながら放たれた新たな問いかけは、一言目とは打って変わって咎めるような怒気を孕んでいた。

 彼女の表情もまた、変わっていた。不機嫌そうに眉を顰められ、視線も鋭く、攻撃的だ。

 閉じられたスケッチブックはぼくに渡すまいとするように両手で抱えられ、鉛筆を握りしめる手は小刻みに震えている。


「尾けて、って、それはどういう」


「とぼけないで。ずっと尾行してきたんでしょ、わざわざこんなところまで……最低」


 聞いちゃくれねえ。おまけに罵られた。


「いや、だから」


「今は無理って、何度も言ったはず。あなたたちが何をしたところで、邪魔にしか」


「違うって!」


 気づけばぼくもまた、彼女と同じように声を荒げていた。

 勝手によくわからない思い込みで罵倒されたことへの怒りか、取り返しがつかなくなる前に誤解を解こうとする焦りか、理由はぼく自身にもよくわからなかった。

 ただ、強く出られたのが予想外だったのか、目の前の少女はびくりと震え、ひるむ。

 再び見せた怯えの表情に、罪悪感が込み上げてきたけれど、こうでもしないとこちらから弁解もできないことを考えると、好機と言ってよかった。


「……話を、聞いてくれないか」


 どうして、ぼくが責められなきゃいけないのか。

 彼女に会ったのは偶然で、こそこそ逃げようとしたのは、良くなかったのかもしれない。だけど、それと、ぼくに見せた怒りとは、理由となるべきものが違うような気がした。

 彼女が静かになったのを発言の許可と受け取って、ぼくは話し始めた。


「まず、ぼくは、君のことを知らない。君が誰なのか分からないし、どうして怒っているのかも、分からない」


 実際に口にしたのは、ただの事実の羅列だ。

 上手い言い回しが思いつかなかったというのもあるし、下手に取り繕おうとして、失敗した時の方がマズイんじゃないかと思ったから。


「……なら、なんでこそこそしていたの?」


「それは、その……気づかないふりした方が、いいと思って」


 足プラプラ揺らして鼻歌交じりにお絵かきなんて、人目があったらできないだろうと思っていたが、本人は違ったらしい。

 特に恥ずかしがる様子もなく、頷いて少女は了承の意を返す。


「なんとなく、あなたの言いたいことは、分かった」


「なら、よかった」


「女の子の恥ずかしい場面を見て、バレないように逃げようとして失敗したと」


「言い方がひどい……」


 事実だけなら何も間違っていないのが、救いようがない分一層ひどい。


 それから、少女はぼくの服装――寝間着姿にようやく気付いたのか、ああ、と呟く。


「あなたは、ここに入院してるの?」


「そうだよ。

 ここ2,3年くらいかな、ずっと外に出ていないから、君と会ったことはない。

 だから、君が……ぼくを何と思っていたのかは分からないけれど、ストーカーとかの類じゃないことだけは、はっきりと言える」


「……そう、なの」


 納得したような、よくわからない相槌を打ってから、彼女は考え込むような仕草をしてから、


「それと、もう一つ、訊かせて」


「なに?」


 それから、一拍の間を開けて。

 まっすぐにぼくを見て、少女は言った。


「あなたは、どうしてここに来たの?」


「どうして、って……ただの、散歩だよ。

 部屋に籠もりっきりだと、気が滅入るから」


 自称死神に誘われて来ました、なんて言えないから、急ごしらえの理由をでっちあげる。

 たまに散歩するのは事実なので、完全に嘘というわけじゃないし、別に散歩自体はおかしくない。


 だけど、彼女はその返答に満足しなかったようで、更に問いかけてくる。


「今日、ここに来たのも、そうなの?」


「日課なんだよ。

 入院患者が軽い運動がてら散歩するのが、そんなにおかしいか?」


 予感が、した。

 だけど、それを口にするのは躊躇われて、ぼくは知らないふりをする。


 対する彼女はそれでも納得がいかないのか、不満げな表情は晴れない。

 それから、うんざりしたような声で、


「もう、らちが明かないから、率直に聞くけど」


 一歩、ぼくへと踏み込んで。



「あなたは、?」

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