2章 恋、始まります……だと、いいけれど

散歩でもないのに外をうろつく昼日中


 人生は、いつだって思うようにはいかず、かくあれという願いを実現しうるには困難なものである。

 生まれて十七にも満たない年でありながらそれを言葉だけでなくその身で思い知る羽目になったのは、ぼくが死神と名乗る少女と出会った翌日、神崎和と名乗る少女と出会いによるものだった。





 その日も、空は晴れていた。

 絶好の散歩日和、気温も良好、敢えて文句をつけるとするなら、


「陽射しが少し強すぎる、ってくらいか……」


 呟きながら、空の下、院内の中庭をぼくは、歩いていた、

 いつもの寝間着姿で、中庭の踏み石をスリッパが打つペタンペタンという音が空しく響く。

 周囲に人影は乏しい。

 そもそも場所が場所病院なのだからにぎやかであること自体稀であり、これが普通だ。今は噴水の周りで楽しげにおしゃべりに興じる子供が数人と、それを見守る大人が一人いる程度で、他は病室やロビーで世間話に興じているか、寝ているかしているのだろう。


 だから、というべきか、ここに来るまで特に何かあるということもなかった。


『おんや、マコトちゃん、お散歩かい?』


『元気だねぇ』


『元気なのは、いいことだねぇ』


『ウチの孫ときたら、いつも部屋に籠っててれびげーむ、っていうのかね? そればっかりでねぇ』


『そりゃウチもだよ、近頃の若い子は……』


 なんて、一室で肩を寄せ合い話し合うご老人連中に捕まるというトラブルと呼べそうなモノも、あるにはあった。が、大して弾まないうちにまた自分たちの話の輪に戻り忘れられたので、結局大した問題にはなっていない。


 よって、これからの"予定"には、影響なし。


「……なんで、こんなことをしてるんだろうな」


 かく言うぼくは別に、散歩がしたかったわけじゃない。天気がいいから散歩をしよう、ではなく、外に出たら偶然天気が良かった、というだけだ。

 気分じゃない、読みかけの本がある、今の行動を否定する理由ならいくらでもあるけれど、肯定する理由はたった一つ、


 ――昨日のアレは夢だったのか、否か。


 昨夜の来訪者。真っ黒な服の少女。自称死神。

 それから――"死"の予言と、



「ここで、この時間で、よかったんだよな……?」





  ●  ●





 思い返すは昨夜、時間単位で見ればほんの十数時間前の話。


『――君の願いを、叶えよう』


 そう言った死神を名乗る少女は、


「じゃあ、私はこれで」


 用事は果たした、とでも言いたげに、ぼくに背を向けた。


 あっさりと。

 ただ、それ以外のことに興味はなく、願った動機に対してもどうでもいいとでも言わんばかりに、彼女はぼくを意識から遠ざけた。

 それから彼女の足はこの狭い室内と廊下とを繋ぐ出入り口へと、手はその引き戸にかかるのだが、それをぼくは黙って見送っていた。

 突如として訪れた非日常。

 勇気を出して放った言葉。

 それらがやけにあっさりと過ぎ去ろうとしていることに、意識が受け入れきれないでいたせいだろう。いや、そもそもこの事態そのものにすら、ぼくは自分が思っているよりも全くと言っていいほど認識も、危機感も持てないでいたのかもしれなかった。


「ちょ……っ、」


 付随すべき音もなく戸が開くと同時、辛うじて吐き出せた言葉とは言えない音に、彼女の手が止まる。


「ちょっと、待ってくれ」


 半ば反射的に絞り出した、趣旨もなく弱々しい言葉。

 構わずに行ってしまうかと思ったが、意外にも彼女はそこで振り向いた。


「……なんだい?」


 白銀の髪を揺らしながら、更に本当に意外なことに、じっとぼくを見つめ、何の用があるのかと発言を待ってくれていた。


「ぁ……っ、えっ、と、」


 問われ、しかし、ぼくは返事に迷って、意味のない音を連発させてしまう。


 舌がもつれる。

 乾いた唾液が喉にへばりつく。

 それらが、発したい言葉を妨げる。


 ――もどかしい。じれったい。


 話したいのに。

 もっと、これからを、これから何が起るのかを。


 話さないと。

 もっと、話さないと。


 ……いや、違う。

 話したいことなんて、何も考えていなかったじゃないか。


 ただ、目の前につきつけられた非日常に驚き、場の空気に飲まれながら考えた対応であっさりと事が進んだことに耐え切れなくて、待ったをかけただけだ。

 半端に乾いた口の中がべたべたと粘つく。

 緊張の冷汗が背筋を伝うのが、たまらなく気持ち悪い。


 考えろ。話すことが無いのなら、今すぐここでひねり出せ。

 考えなしで弾き出した身勝手だけれど、それでも、知りたいことを知るために。


「あー……今までのって本当に、夢とか冗談じゃ無いんだよな……?」


 あまりにも自信が欠けすぎている自分の言葉に情けなくなってくる。


「……君は、何を言ってるんだ」


 案の定、死神の応えは呆れ混じりで、


「だ、だよな。これが現実なんだよな。疑って悪か」

「違う、そうじゃない」


 はぁ、とご丁寧に重々しく溜息まで吐いて、いいかい、と出来の悪い教え子にでも諭すような言葉遣いで死神は話す。


「今の状況、私が告げ、問いかけ、君が応えたこと。それらが君にとってどれだけ常識の範疇外にあって、驚きに満ちて、受け入れるのが難しいことか、分からなくもない」


 まるでぼくの心を見透かしたように、全てが的を射ていたから、何も言えなかった。

 理解したフリをして、威勢のいい啖呵を切って願いを口にしたところで、表面に張り付けたメッキはメッキでしかない。上っ面だけの自信なんて軽く爪を立てただけで簡単に剥がれおちて、ボロが出る。


「そう、分かるんだよ。今起こっていることも、これから起こるであろうことも、私は説明できる。だけど、君はそれを信じ、真の意味で理解することはできない。

 分かるかい? 

 だから、夢や妄想、果ては幻覚で片付けようとする。そうしたいのも分かるんだ」


 言葉の一つ一つが、臓腑を抉るようだった。

 何かトンチの効いた返しの一つでもできればいいのだけれど、情報を理解するだけでも一杯一杯で、上手く言葉が出てこない。

 ただ黙って、彼女の言葉を聞く。それだけが、ぼくに許された抵抗だった。


「だけどね、結果として君は、無理やりにでも縋ろうとしている。今すぐ、何かに。それが何であれ、であれ、ね」


 耳を塞ぎたい、何か大きな騒ぎでも起きて目の前の少女の声を掻き消してくれればいいのに、彼女曰く『固定された空間』であるらしいここでは、遮るモノなんて何もあっちゃくれない。

 だから、嫌でも聞こえる。

 認めたくないのに、事実が堂々と鼻先につきつけてくる。


「君は本を読んでいるうちに眠ってしまって、ここは夢の中。君の目の前にいる私はその登場人物、つまり妄想の産物。今の会話も単なる小道具に過ぎない夢の一部――私がそう言えば、君は信じるのかい?」


「…………」


「なら、こういうのはどうだい。

 今、君は刻一刻と悪くなる病状への不安に対するメンタルケアの真っ最中。処方された薬で夢見心地になりながら、自分を満足させる幻覚をこねくり回している真っ最中だ、とかね」

 嘘か真か、その信頼の置き所すらも怪しい相手にその真偽を問うたところで、意味がない。

 縋るべきものなんて最初から無かったぼくは、結局のところ、黙って聞いて、受け入れるしかなかったのだ。


「わかったかい?」


 終始淡々と、ただ言葉を丁寧に並べただけで逃げ道を潰した死神は、再度の了解をとる問いを出す。


「認めたくない現実をどうにか認めようと頑張るのは勝手だし、それは仕方ないとは思うけど、付き合う私もヒマじゃないんだ」


「……ごめん」


「分かったならいい」


 きつい言葉とは裏腹に、怒るどころか苛立つ素振りすらもなく、じゃあ、と今度こそ死神は病室を去ろうとし、


「――ああ、訊き忘れたけど」


 今度は死神の方から止まる。

 戸に手をかけたまま、顔だけこちらに向け、


「明日の午後、予定はあるかい?」

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