折ったフラグが折れてくれない

「……えー、っと」


 "それ"を、見た瞬間。


「うーん、と」


 ぼくの思考はくるくるぐるぐると空回りを始める。


「……何のことやら、さっぱりだ」


 悪戯、だろうか。

 もともと世事には疎い自覚はあった。

 流行り廃りを話す友人は希少で、テレビを見たりネットの海に潜る習慣はない、つまり新しい情報を仕入れること自体が稀なためだ。

 病院籠りで世間から離れている間に新しい流行でもできたのだろうか。都市伝説とかオカルトが流行ったこともあったし、それと出会い系をかけ合わせればこんな感じになりそうだ。

 だけど、それにしたって、消えない疑問というのはある。


「こんなアドレス、登録してたっけ?」


 ぼくの持っている旧式の携帯電話は、自身のリストに登録されていないメールアドレスからメールが送られてきても、送信者の部分には、送り主のアドレスであるアルファベットと数字、記号の羅列が表示されるだけだ。

 そして、ぼくのアドレス帳には間違っても〝死神〟なんていう名前は存在しない。念のため確認したけれど、画面をスクロールする必要もない程度には件数の少ないアドレス帳に、それは存在しなかった。


 誰が? どうやって? 何のために?

 その全てが不明で、不可解で、故に不気味だった。


「……うーむ」


 B級ホラー映画にでも迷い込んだような感覚。

 心に生まれた疑問が徐々に大きく、意識を乗っ取られるみたいで。


「こうなったら、」


 それからの行動は、迅速を極めた。

 カチカチカチと未だ使い慣れないキーの操作、それを終えるとカチャッと音を立てて携帯電話の展開していた部分を収納、寝間着の胸ポケットに戻す。


「これで、よし」


 簡単な話だ。

 このうえなく、簡単な。


 ――サブメニュー画面を呼び出し、削除を実行する。


 ただ、それだけ。臭いモノには蓋をせよ、昔のヒトはいいことを言うものだ。


「戻るかー」


 立ち上がり、ぼくは歩きはじめる。

 散歩の時間は終了、後は午後の検査に備えて病室に戻るだけだ。

 これでどこかの知らない誰かの都合が悪くなろうが、そんなのぼくの知ったことか、と。


 非凡は不要、平凡こそ歓迎したいところ。

 ぼくにとってはただ、緩やかな時間を生きることだけが望ましい。




  ● ●




 初めは、小さな異変に気付かなかった。


 謎の怪文書メールを送られ、ゴミ箱に叩き込んだその日の夜、時刻は消灯が為されるそれをとうに過ぎていて、ぼくはベッドに横になりながら隣の患者を起こさないよう光量を抑えた読書灯の下で本を読んでいた。


 目は紙面に広がる文字の羅列で、耳はヘッドホンから流れるアコースティック・ギターの旋律で塞ぐ。


 物語に没入しつつ、とろりと眠気が脳に流れてくるのを待つのがぼくの日課だ。

 読む本については、特に事欠くことが無い。

 その理由は、見舞いに来る両親が自宅の蔵書をたまに持ってきてくれることでもあるし、やたら品ぞろえのいい売店でもあるし、同じ小学校と中学校に通っていた――と言ってもぼくはほとんど登校できなかったけど――友達が、たまに見舞いに来ては、

『ヒマ過ぎるのも大変だろ? ほれ、差し入れ』


 なんて言ってはマンガやら雑誌やらを貸してくれたりするおかげだったりする。というか年頃の健全な青少年としては差し入れの雑誌(主にきわどい系)の存在は割と助かっている。いろんな意味で。真面目に。


 今日もまた、いつも通りのそれは続行中だったのだが、


「――?」


 ふと感じた違和感に、ページを捲る手を止める。

 そう、違和感だ。上手く言えないけれど、そうとしか表現できない。

 音とか光とか、妙なものに触れたとかいうのでもなくて、気配、とでも言えばまだ分かりやすいのだろうけれど、第六感とかオカルトじみたモノには関わらずに生きてきたぼくには到底説明のしようがない。


 本から顔を上げ、周りを見てもカーテンに仕切られた空間には特にはこれといった異変は見当たらない。仮にその外側に何かがあったとしても、ここからじゃ分からないだろう。


 次いだ動作でヘッドホンを外しても、最初は何も感じなかった。

 しかし、気のせいかと、思い直して読書に戻る気も起きず、そのままの姿勢でしばらくじっとしていて、


「……なんだ?」


 ――〝異変〟に、気づいた。


……?」


 無音。静寂。

 言葉としてはそれだけで終わる、だけど異常と呼ぶには十分すぎるほどの事態。

 四人用の大部屋で、窓際の二つには老夫婦、廊下側の一つをぼくが使っていて、もう一つはというと、現時点では誰も使っていない無人だ。そして、ぼくを除いた二人は眠っていて、起きているのはぼくだけだ。

 それでも、機材は動いていればほんのわずかでも音を出すし、病院内で誰かがスリッパで歩いていれば音は響く。急患とか入院患者の様態が変わればそれはそれで騒ぎが起きる。


 ホラー映画に出てくるシンと静まり返った病院、なんてのは所詮フィクションでしかないのだ。

 

 そもそも、実際は聴覚を完全に喪くした聾者でも無い限り――実際にそういった経験がないので分からないけれど――、全く音の無い環境というのを知覚することは、まず不可能だ。

 

 微かな物音、大気の動き、

 隣人の寝息、誰かが寝返りを打った時の衣擦れ、

 たとえそれらを耳栓で完璧に遮ったとしても、自分の体で蠢く心臓の音までも消すことはできない。

 だから。


「どうして……?」


 音が、無かった。

 目を落とせば、自分で止めたわけでもないのに、音楽プレイヤーは停止していた。

 何も、聞こえない。

 寝息も、遠くの足音も、精密機器の駆動音も、何もかも。

 それこそ――自分の鼓動の音さえも、消えていた。


 なぜ、なぜ、なぜ?


 同じ言葉だけが上滑りして、脳内を駆け回る。


 ぼくが発した言葉は、はっきりと聞こえた。

 だけど、それ以外は全く聞こえない。


 体を動かしても、ベッドの軋みはおろか寝間着が擦れる音すらも無い。

 内側から響く音も、皆無だ。


「――まったく、約束を破るなんて、酷いことをするじゃないか」


 どれだけの時間を戸惑いで浪費していたことだろうか、いや、ほんの一分や二分程度だったのかもしれないけれど、ふいに〝声〟がぼくの耳を打った。


「え……?」


 鼓膜を震わせたそれの方向――ベッドに座るぼくの正面、カーテンの仕切りが、


「やぁ」


 〝声〟と共に、音もなく開かれ、


「はじめまして、かな」

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