1章 故意無き恋なんて、無理な話で

それは日常に唐突に

 気づけばぼくは、そこにいた。

 荒涼とした大地、草一本生えていない地面。

 まっさらな青空、雲一つとして存在しない蒼穹。


 何もなかった。


 ただ、土と、空気と、空しかなかった。

 ぼくの傍を、風が通り過ぎた。

 その源を知らないままに、ぼくは立っていた。立ち尽くしていた。


『ねぇ、』


 声が聞こえた。

 囁くような、歌うような、嘆くような、少女の声。

 感情溢れるようにも聞こえたし、何一つとして情緒の無いようにも感じられた。

 少なくとも、それが誰のモノなのか、ぼくは知らないことは確かだった。


『ねぇ、』


 また、声が聞こえた。


『あなたは、誰?』


 声は、ぼくに問いかける。

 だけど、ぼくは答えなかった。応えられなかった。

 自分が、誰なのか、なんて単純な問いかけ。

 答えを、知らなかったから、明確なそれを持ち得なかったから。


『思い出して。あなたには、それができるから』


 それができるだけの力を持っているから、と。

 声は、言って。

 そして、





 ――ヴゥゥゥゥン、ヴゥゥゥゥゥン


「んェ……?」


 急激な、意識の浮上。

 目を、視界を閉ざしたぼくが感じられたのは、もたれかかっている固いベンチの質感と、全身に浴びる柔らかい温もり、微かな緑の匂い。

 薄く目を開けると、まだ高度を保つ太陽の眩さに灼かれて、反射的に閉じてしまう。

 ならばと俯き、眩んだ視界が回復するのを待ってから再度目を開ければ、足元――座っている錆びたベンチの脚と薄い水色の寝巻きを纏った自分の足、そして人の手で均一に整えられた緑の芝生が見えた。

 顔を上げて周りに目をやれば、その芝や申し訳程度に生えている樹木なんかはごくごく一部、ぼくの周りのほんの僅かな空間だけで、それを囲っているのは五階建ての純白で無骨な建物であることが分かる。


「……寝ちゃってたのか」


 未だ薄ぼんやりとした頭でそれだけを呟き、起き上がろうとしたけれど、力が入らない。力んでみても体は僅かに震えるだけで、できなかった。


「仕方ないな」


 仕方ない、仕方ない。そう独りごちながら、、ぼくはベンチに体を沈ませる。

 時は五月、薄い寝間着姿でも初夏の温もりが燦々と注ぎ、ほどよく温まったベンチは昼寝に及ぶのも無理もないだろう。

 温もり。静けさ。屋外でも微かに漂う、消毒液の臭い。

 病院特有の空気の中で上を見上げれば、四方を囲む白磁の建物に切り取られた青空がある。

 ぼんやりと何を見るでもなくただ空に視線を置いていると、自分が現実からどんどん離れていっているように思える。いや、まあ、世間様の多くが汗水流して働いたり勉強したりしているであろう真昼間から呑気にしているのは、"一般的"から離れてはいるんだろうけれども。

 そんなことを考えたのち、さてもう一度と体に力を込めると、今度はあっさりと胴が背もたれから離れた。


 ぼすん。


「……ん?」


 水色のボーダーの入った寝間着の胸ポケットから重い感触がするりと抜け出て、膝に落ちる。

 見れば、それは黒い、旧式の折り畳み式携帯電話で、ぼくが中学に進学したばかりの頃、両親に買い与えられたモノだった。「お友達ができるきっかけになれば」なんて、有難くも気恥ずかしい気遣いのもとに受け取ったそれのアドレス帳には、しかし両親を含めて片手で数えられる程度にしか名前が載っていない。幼少の頃から入退院を繰り返し、ロクに友達もできないどころか周りから腫物扱いされてきた弊害である。

 いや、イジメやら性質の悪い悪戯の標的にならないだけマシというべきだろうか。久々に登校してみれば机に花瓶が、なんてのを実際に食らったらさすがに立ち直れないだろうから。

 ニュースでやってるイジメやらもなくてこちとら気楽だよ。本当に。

 あっはっはっはー。

 一人、笑う。当然自嘲、自虐だ。


「……まぁ、」


 くだらない自嘲も、地味に辛いのでその辺に放り投げて。

 片手で展開した携帯電話は、年季など何の問題も無いかのように液晶画面に光を灯した。


「あれ、電源入ってたんだ」


 てっきり切っていたものとばかり思っていたから、少し驚いた。

 精密な医療機器がひしめく病院内での携帯電話の使用はご法度だ。少なくとも、この病院ではそうなっている。何かのはずみでボタンが押され、電源が入ってしまったのかもしれない。

 映し出されたのは、暇潰しにいじっていた時にネットで見つけた風景画のトップ画面。向日葵が咲き誇る中央に剥き出しの地面の一本道が延々と続いている、という構図の油絵だ。作者は知らない。


 ……メールが一件、か。


 向日葵の隅っこに通知アイコンを見つける。

 それ自体は、別に珍しいことじゃなかった。頻度自体はそう高くはないけれど、大抵は父や母から送られてくる安否確認、見舞いに来る日付の知らせで、幼馴染から他愛もない雑談のような感じのが一割程度。


 カチカチ、とぼくは携帯電話を操作し、メールの受信ボックスを開く。

 どうせ母さんからの、今度いつ着替えを持っていくかとか、そんな感じの文だろうと思って。


 そして。


「――え?」


 そして。


「何だ、これ?」


 そして。

 そして。


『送信者:死神

  件名:無題

  本文:本日、満天の星空が私たちを照らす時、生と死の混ざる高みにて待つ』

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