第2話 日本一のきびだんご
すると家の奥から「はあい」という涼やかな声が響いてきた。
「おかえりなさいませ、父さま」
出迎えてくれたのは、俺と同じくらいの年頃の女だった。
「いらっしゃいませ」
男にあまり似ていないが、娘なのだろうか。色褪せた着物をきりりと着て、丁寧に頭を下げてくれる。彼女が顔を上げた時、目が合った。
目を細め、人懐こそうな笑みを浮かべている。その頬はふっくらとしていて、健やかな薄紅色だ。
まるで、庭に咲いていた桃の花のような人だ、と思った。
「娘の
「鬼退治……」
希滋の顔が強張る。
そうか。彼女にとって、俺は憎悪の対象でしかないはずだ。
俺は「柴刈り」と「洗濯」の稼ぎで、十五になるまで生きてきた「桃太郎」だ。そして彼女の父達を退治するという名目でこの島に来た。
俯く。泥と吐瀉物が染み込んだ着物が目に入る。
俺は、俺という生き物は、この着物よりもずっとずっと汚い。
「桃太郎さま」
希滋の声が耳に揺れたので顔を上げる。
「それは、さぞかし、おつらかったことでしょう」
忘れられたまま秋を迎えた風鈴の音のように、悲し気な声がちりんと響く。
彼女は一度ぐっと目に力を入れた後、笑みを浮かべて明るい声を上げた。
「ささ、どうぞ上がってくださいな。なんのおもてなしもできませんが、ゆっくりとお休みになってくださいね」
その声に応えるように、男は俺の肩を何度か叩いた。
「おう、そうだそうだ。まずは腹ごしらえして、ひと眠りするといい。でな、今後、お前さえよければ、この島に腰を据えるのも悪くないと思う。ここは『鬼ヶ島』なんて呼ばれているが、別に俺らのような役人ばかりじゃねえし、不便なのもあって人があんまり居つかねえ。だから贅沢言わなきゃ働き口ならあるぞ」
「そうそう。誰も『桃太郎の鬼退治』を『鬼退治』だなんて思っていませんから、きっと島の皆さんから歓迎されますよ」
陽気で人懐こく、どこか端正な佇まいの父娘が、そんなことを言ってくれる。俺はたまらなくなって拳を強く握った。
「ありがとうございます。俺なんかにこんなに良くしてくださって、なんとお礼を申し上げたらいいのか」
毛穴の一つ一つから、どす黒い
この虫は、俺だ。
「でも、この島でお世話になることはできません。俺は厄介者の桃太郎で、髪も、爪も、全部が『柴刈り』と『洗濯』で出来ています。俺は、汚い」
希滋を見つめる。
「希滋さまは、桃の花のように清らかできれいです。風鈴の音のように澄んでいます。それなのに俺がここにいたら、きっと穢れが
思いつくままの言葉を紡ぎ、訴える。
傍らで男が声にならない声で何かを言っている。希滋は目を見開いて体を引いた後、ふっと柔らかく微笑んだ。
桃の花がほころぶように。
「汚れなんて、洗えば簡単に落ちますよ」
微笑みながら男に視線を移す。男は少し何かを考えるようなそぶりをした後、うんうんと頷いた。
「そうだな。希滋の言う通りだ。性根が腐っちまっていたらもとには戻らねえ。でも汚れなんざ洗えばいいんだ。気にするな」
二人は顔を揃え、俺に向かって笑いかける。
肌をのたうつ虫が、ふっと煙になって消える。
俺は促されるままに家に上がった。
希滋が席を外している間、男から島について聞いた。
この島で暮らしている人々で一番多いのが、「鬼」と呼ばれる役人とその家族だ。
「柴刈り」の罪を見逃してもらおうと金品を渡してくる人がいるので、その誘惑を断ち切るために不便な離島に住んでいるのだそうだ。
誘惑も娯楽もない島での生活は、単調だが平和で、男は結構気に入っているらしい。
「はあい。お待たせしました」
希滋の声がすると、男はおっと明るい声を上げた。
「おお。久しぶりだなあ、黍団子」
「実は沢山作りすぎてしまって、どうしようかと思っていたんです。さ、召し上がって下さいな」
希滋が持ってきたのは、黍団子だった。
団子は淡い黄色の肌を仄かに艶めかせ、ひとつひとつ行儀よく丸まっている。手を出すのを躊躇っていると、男は俺の手に団子を乗せ、口に持って行った。
団子は口の中でもっちりと動き回り、黍の優しい風味が鼻と舌に広がる。飲み込むと、飢えた腹の中が歓喜に身をよじった。
「うまい……」
「だろ。希滋の黍団子は日本一の黍団子だからなっ」
その言葉に頷くと同時に涙が溢れる。
すとん、と何かに収まったような気がした。
今まで、家の中でも、村の中でも、俺は厄介者で居場所がなかった。家にいても、どこか宙に浮いているような気がしていた。
それなのに、今日初めて出会った二人の前では、確かに「ここにいる」という気がする。
希滋を見る。
清らかな桃の花のような笑みを向けてくれる。
この桃の花を汚してはならない、と思う。
俺はこの島で生きると決めた。
そして、三年後。
俺と希滋は、
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