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@yi2yu4lian2

『私とは何か』についての下書き

まえがき


 読者の皆様へ、

 

 自分という存在が自分であることを、考えたことはあるだろうか。この文章を書く私はどうやって認識したのかを覚えていない。では、いつの時点を境に自分を自分だとするのか、私は『if』という仮タイトルを付けたこの文章の束を自分を示す情報(information)として提示するので好き勝手に読んでほしい。


 文章の読解についての章や断章が私の作としてどこかに残っているかどうかはこれを書いている私にはわからないので、少しだけその意義について述べることをお目こぼし願いたい。この文章を書き始めた際は、短編小説でも書こうと思っていたのだが、私らしさを打ち消す「もしも(if)」の話を考えていると、私が意識していなかった私の考えが囁いたのだ。


 「私とは何か」


 私とはなんだろうか。辞書もひかずに私は自分の中で定義している私について考え、意味をまとめ始めていた。


 それから小一時間、打鍵を続けて、文章が面白くなってきたので、続きを書きたいと思う程度の修飾をしておこうと、まえがきを書き直し始めたという訳だ。誤ってこの哲学の袋小路に行きあたってしまったことが誰かにとっての役に立てば嬉しく思う。本題に入る前に私以上に手間取る書き手はマルセル・プルースト( Marcel Proust:『失われた時を求めて』の著者)くらいではないか、彼は私よりももっとすごいが……


 さて、私は書き手と読み手の関係について、それらは原則的に一方通行の関係にあることと、解釈(interpretation)が無限大の可能性を持つものであることについてだけ述べておきたい。


 解釈を可能にし、それを活かす知識と行動力があるのならば、文章の解読ということは情報の観察であり、創作物やそれを実演するものを楽しむ「読書」や「聴解、視聴、鑑賞」をするということは、情報の端的な観賞や鑑賞にとどまらず、その「対象」と対象の「主題(topic)」について考える機会であるとは思わないだろうか。


 すべてのものは、それを起点に何かを想像する余地がある。書籍や作品は人間の考え・閃きの発露であり、集大成的なものである。それを繙いていくということは、自分では決して為しえなかった、思いもつかない発見があることを教えてくれる。最初に文字を作った人や、歴史というものを記そうとした人々、音を再現できる機構を編み出した先人たちに最大限の敬意を払いたい。そしてあなたにもそうする価値があることを知ってほしい。「知る」ことは楽しい。考えることは愛おしい。私は先人たちに言葉を重ね、同じ感覚をもつ同好の士にこの文章が届けば良いと冀う。


 さて、なぜ、一方通行の関係であると述べた後に解釈に無限の余地をもたせたのかにあいても述べるておくべきだろう。誰かに遺すための文章に「今だけの自分の感覚」を書くというのは体裁からしても少し変に感じるが、私はこの文章を書く中で猛烈な孤独を感じている。もし、先人の一人、賢人と云われたような人間が同じ時代を生きる人であったなら、もしも、この個人の閃きは現代で通用するだろうか。そういう「if」は二十一世紀の時点では「ゆめ、まぼろし」そのものだ。


 この文章が情感あふれた文章などと誰かが言おうものなら、言っておきたい。「私が生きている内にコンタクトをとることだ」と。あと、たいていの場合、女人との一対一での面会はお断りさせていただきたい。現代ではまだ、恋人や家族がいる男性にそれが許される時代ではないし、私も可能な限り誤解は減らすべきだと思うからだ。たとえ冗談でもこんなことを書いておくと、この文章を読んだだけで私のことをわかった気になれるもんだから、「さぞかしこの著者は自分に自信があるようだ」と、チラシの裏に書かれたりするのだが、これが正しく一方通行の関係であることの証左だと念押ししたい。


 仮に私がそういう自信満々な人間だとしても、それを証明したり、確定的なものにするためには誰のどのような、情報で判断するのかについて思いを寄せていただきたい。「情報元(source)はどこだ」というのが二十一世紀前半のインターネットで流行ったにも関わらず、公的なメディアであるマスコミは自身の存続のためにリテラシーを放棄したのか、腐敗しきっていると声を荒げたくなるような品質のニュースを流す。公開の情報機関交流機関であるインターネットでは、匿名の誰彼がくだらない仮説に対して流言飛語を飛ばし合う。


 このような文章を書いて話題になってしまえば、著者さえ知らない誰かと、何某嬢との間に不実な関係があるだのと述べられたり、そういうつまらないことをする者もでてくるだろう。他人に迷惑をかけたり、それをタネに生活の糧を得るということはとことん人間を堕落させるようだ。一方通行であることを逆手に取った迷惑行為は、性善説や徳(アレテー)のような、善悪の二分化した考えの外にあり、利己心が以上に高い人間や、困窮した人間は善悪的な価値判断基準を簡単に破壊してしまえる。そして、残念ながらこの手の行為でも自尊心や虚栄心は満たせてしまう。反社会的な行為がなぜ滅亡しないかが人間の本性論として永く語られてきたことも考えてみればわかるような気がするだろう。読者にも思い当たる節があれば自戒していただきたい。例えば信号無視とか、あなたはよくても周りの子供が真似するから長期的に見れば、それは止めた方が良い。安全な信号を馬鹿正直に守るかどうかは君の価値観次第だ。


 閑話休題、好き放題に危ないことを述べた自覚があるが、せっかく書いたからには残しておこう。誰かの訳に立ててほしい。存命中にこれが発見されたり拡散されてしまって、何か問題が起こった場合、時節の自分の立場的な危険や、言論的な矛盾が出てきたりするのは承知している。未来を生きる自分やその家族、関係者よ、この文章が残ってしまっていて、迷惑をかけてしまった場合、申し訳ないが後処理は生きている人たちに一任する。自分が存命の間はこの情けないテキストを引っ提げて弁解であったり、反論を発表するようにする。自分の言葉に責任を取るということだね。ここまで飽きずにべらべらと文字を並べていたら本文よりも大きくなってしまったけれど、ふざけてはないです。曰く大抵の著述家や創作家と呼ばれる人たちだって、多くは書きたいことはいつも決まっていなくて、筆を執ったり、想いを馳せれば浮かぶものだって、結構見るし。論文やレポートの形式で文章を精密に書くことと、自由に陳述するのでは調子のよさや文章の内容がまるで違う。詩を書こうって形式だけ決めたらあとは、自由に書くでしょうよ。文体が砕けたものになってきたので、これを書く私は筆をおきます。それでは、本文をお楽しみください。



 

1.


 結論から述べることにするが、私が私であることは、「考える」という抽象的な行いを基に、それらしい「要素」が成り立っていたら私が私であることの「証明(proof)」や「定義(definition)」として十分ではないかと仮定する。


 こんな物言いは多くの読者を拍子抜けさせてしまうかもしれないが、結構、確信めいたことを述べているという手ごたえがある。例えば、一人称(the first person )というやつを思い浮かべてみてほしい。自分のことを抽象的に、「もの」扱いして考える際に使う文法の思考上の視点だ。


 日本語のでは作法上、著者は「私(I)」という一人称を使う。私で考えたり、私が考えたりする。「私」という主語(subject)から文字起こししているが、「私」という語を敢えて「ぼく(I)」と俗な一人称で表記してあっても、「俺(I)」としても「おれ(I)」と平仮名で表記しても、それらがすべて「もし、それ(私の思考)が私(存在しない状態を認識した私)から始まっている思考だと自認できる」なら、それらはすべて「私という抽象的意識の存在」を通過して発生した「私の存在の一部、断片」である。



 (註1 当テキストは「私とは何か」について、これを読んだ読者(以後、読み手とする)に考えてみてもらうことを目標としている。したがって、著者の考える「私とはなにか」についてを重点的に述べていくが、「私とは何か」が、哲学や神学についての前提的な知識が読者になくてもこのテキストを著者が意図する娯楽的読み物として扱えるよう、注意すべき語は鈎括弧で囲い、訳語であれば原語を英訳した語を充てて、丸括弧で併記する。特定の学問上の用語については可能な限り説明や解説を付け、読解上の認知のズレや曖昧さを減すように努める。)


2.


 「私という認識(自我:ego)」は極めて抽象的な概念である。「それ自体 (thing-in-itself)」としての「自我(≒自身への認識)」は「考えること」を起点に体感できる。しかし、考える私自身である「自我」は形を持たないために、見えず、触ることができない。


これを、二十一世紀以後の人間には遠隔操作をするための装置と、それで動作する装置だという説明で堪忍してほしい(リモコンと再生機器など)。

 

 この二つの機能、「操作・操縦をするもの」と、「操作・操縦されるもの」が「精神(heart)」と「肉体(body)」の関係だと定義する。


さらに、日本語では、さらにこの二つを一般に、「自身の身体的な部分(physical part)」と「自身の精神的な部分(spiritual part)」自分を精神・肉体の範囲で区切って呼ぶことは可笑しくない表現になってきている。文中では以後、誤読や混合を避けるべく、「身体に関する:肉体的な」「心に関する:精神的な」を同義の語として扱う。


 自我を精神と肉体の二つに分割して考えることで、超常的な事象の(フィクションや神話における神、神々や超能力などのような、人間の力の限界から創造(想像)されたものの)干渉を除いて、現実では「現実の私だけが私自身の意識を感じられる」と言えるだろう。この「現実の意識」や「思考」等の曖昧な自分そのものを「魂(soul)」と表現することに対して浪漫を愛する私は抵抗がないが、それは一つの私の考え(idea)と価値観(sense of values)であり、私は多神教において有神論的な立場で、グノーシズム(gnosticism)や不可知論(agnosticism)論理実証主義(logical positivism)実証主義(positivism)的な考え方を好む。


 肉体と精神については現代でも様々な分野からの分析が続けられているが、現代哲学や現代神学の分野では、この「魂」にどう向き合っているのかは現代思想の勉強不足なので、申し訳ないがこれ以上立ち入ることができない。


 『私とは何か』という問いかけをこのように分解していくことで、著者は「私とは意識であり、精神的な概念の情報の集合体である」ということを読み手に理解していってもらえること、ここから想像を始めてもらえることを期待している。


 しかし、読者にはどうして本題に触れて間もないのに、この面倒な語の定義づけと分解を試みているかだとか、その説明ではわからない等の不満があるかもしれない。その上に、私自身の勉強不足の告白により、この読み物は素人の雑な文章であることにも異論はなく思う。それでもなおレポート形式の文章を満喫していただけるよう、これまでの説明がもたらした新たな価値観として「LGBTQ+」について考えてみたい。


 

 

 (註2 実際のところ、私の考えの参考にした語を多く提示しているので、それを調べてもらえるだけで、多くの哲学用語への理解の足りなさは解消されると思う。情報過多気味な現代で、自分がどのように世界を考えているのか、このような純粋な問題はお金にもならず、精神的に余裕がないとできないことである。現代人には手元にあるものが見えなくなっているのかな、などとマネーゲーム的現実を生きる人たちを見てに目を瞑ってしまいそうになる。少なくとも私は検索するのに便利なように、特定の分野内で関連する用語を配置している。初学者にとってはそれだけでもかなりの価値があると考えている……)


3.


 私はここまでの叙述で、前提として「純粋な自分とは何か(=精神、魂としての自分=自我)」について述べてきた。精神と肉体の二つの単位で自分を考えることが可能にすることを本章では述べていきたい。


 二十一世紀前半に擡頭し始めた、LGBTQ+的な概念の考え方は元来の人間社会には存在しなかったものである。「身体上の性(sex)」と「精神的な性(gender)」について、自分の立場で考えたり、それについて知る上で、肉体・精神的な区別を明確にすることは避けて通らないほうが、ニンゲンの存亡にとって有用だと感じている。


 性自認(gender identity)と性的指向(sexual orientation)という新たな項目が性別的マイノリティを個性(personality, individuality)として扱うことを検討させている。


 (註3 性的指向が正しい語であり、性的嗜好(sexual preference)が入るとLGBTQ+の概念がややこしくなるし、それに妥当かあるかどうかについては時代や理解が遅れていることは明白で未知数である)


 三時間ほど書き続けて集中力を切らしてしまったので、ここまでを公開しておく。続きを書く確率は低い(激うまギャグ)

 

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