二度と戻らないもの
「……久しぶり」
ぼけっとステンドグラスを眺めていると、後ろから声をかけられた。
神殿の会衆席。朝の早い時間だからか、人はまばらだ。
振り返れば、ユリウスが立っていた。
昨日は気づかなかったが、随分と痩せたような気がする。
「昨日会ったばかりじゃない」
「……ああ、そうだったな。こうして二人でゆっくり話すのはって意味」
「そうね」
メリーアンは頷いて、ユリウスに隣の席を進めた。
「話、聞いてると思うけど。無用なトラブルを避けるために、エドワード……殿下にそばにいてもらうから」
メリーアンはそう言って、端で足を組んでじっと前を見つめているエドワードを見た。
「……わかった。でも、昨日、殿下が宿に来た時はびっくりしたよ。またララが騒いで大変だったんだ」
深いため息をつくユリウス。それから頭をくしゃくしゃにする。
(……変わってないわね)
その姿にひどく懐かしさを感じて、メリーアンは緊張していた心が少しほぐれた。昔からそうなのだ。何か頭が痛くなるような出来事が起こった時、ユリウスはいつも髪の毛をくしゃくしゃにする。まるで子どもみたいに。
「その癖、相変わらずね。髪の毛が鳥の巣みたいになってるわよ」
クスリと笑うと、ユリウスは照れたようにメリーアンを見た。
彼の髪を直してあげるところまでが「いつもの癖」だったのだが、メリーアンはそうしなかった。そのことにユリウスは気づいたのか、少し気まずそうに髪の毛を整える。
「それでユリウス。あなた、どうしてわざわざここまで来たの? 婚約解消の書類もまだ提出していないとか?」
「……そう。そのことで君に会いに来たんだ」
ユリウスはポツポツと、慰謝料についてメリーアンの両親と揉めていると言うことを説明してくれた。
メリーアンは家族の醜悪さに呆れて、ため息をついてしまう。
「ごめんなさいユリウス。そんなことになってるなんて知らなくて」
「いいや。全部俺が悪かったんだ……。だから別に契約書を作ってきた。約束通りの慰謝料を君のご両親に支払う。そして君自身にも、今後絶対に不自由させないような額の慰謝料を払うよ」
ユリウスはそう言って、懐から紙を取り出した。
そこにはちょっと驚くほどの数字が並べられている。
おそらく、今後予想されるクロムウェル領の領収から支払うつもりなのだろう。
「……あなたがこれでいいなら、別にいいけど。大丈夫なの?」
「これくらいさせてくれ」
ユリウスは力なく笑った。
疲労困憊、といった様子だ。
「これでいいなら、サインをもらえないか? 君のサインをもらい次第、書類を提出しに行くから」
「……分かった」
メリーアンはペンを受け取ると、その書類にサインをしようとした。
(これで、本当に終わるんだ)
けれどどうしてだろう。
サインしようとすると、指が震える。
(私たちの十年が終わってしまう……)
うまく文字が書けない。
「……」
メリーアンが震えながらも指を動かそうとすると、パッとそのペンに、ユリウスの手がかかった。まるでメリーアンの行動を止めるかのように。
はっとして顔をあげると、泣きそうなユリウスの顔が見えた。
ユリウスの瞳には、同じように泣きそうなメリーアンの顔が映っている。
「ユリ、ウス……」
「……」
お互いの間に、沈黙が落ちる。
何を思ってユリウスがそんなことをしたのか。
考えれば考えるほど、体は動かなくなる。
──これじゃあまるで、お互い最後の希望にかけているみたいだ。
(自分の気持ちがわからない……)
あれほどひどいことをされたのに、ユリウスと過ごした十年が、メリーアンの心の中であたたかい炎を灯し続ける。
もう好きじゃない。でも嫌いになりきれない。
だから……だから何もかもが辛かったのだ。
屋敷を飛び出してから今日この日まで。
好きと嫌いが混じり合って、もうぐちゃぐちゃになっていた。
(私は、どうすれば……)
メリーアンが泣きそうになった、その時。
ピンッと何かが弾かれる音がした。
音の方を見れば、エドワードが空中に向かって、何かを弾いたようだ。
……よく見れば、それは博物館の鍵の一つだった。
鍵は宙高くに舞い上がると、ゆっくりと吸い込まれるように、エドワードの手のひらに戻っていく。
それを見た瞬間、メリーアンは現実に戻ってきたような気がした。
どうすればいいのか。
自分がどうしたいのか。
──全ては自分で決めるのだ。博物館でそうしてきたように。
(これを書いたら、私たちの縁は切れる。でも、だったら……)
傷ついてもいい。
このまま膿んでクズクズした傷を抱えているような状態でいるよりも、膿はさっさと出してしまった方が、ずっと、ずっと。
(ちゃんと話し合ってから決めよう。それでも遅くないわ)
「……ユリウス。話して欲しいの、全部」
「……」
「どうしてこんなことになっちゃったのか……どうしてあなたがララを選んだのか」
ユリウス自身もわかっていたのだろう。
腹を割って話さないことには、この先には進めないと。
「……分かった」
ユリウスはうなずくと、ステンドグラスを見上げた。
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