我慢の限界

「慰謝料のことなんだけど……その、ララに請求するのは、やめてもらえないかな」


「……え?」


「今、ララは大事な時期だし……ショック受けちゃったら何があるかわからないだろ? 今すぐは払えなくても、俺がその分多めに払うから」


 ユリウスの発言で、メリーアンは初めて、ララから慰謝料がもらえる立場であることを思い出した。それと同時に、どこまでもララを優先するユリウスに、顔が強張ってしまう。


「……そう」


 メリーアンは青い顔でつぶやいた。

 肯定とも否定とも取れるその言葉に、ユリウスは気まずそうにする。


 もともと、なんらかの事情で二人の婚約が解消された場合の慰謝料も、婚姻継承財産設定を書面にしたときに決めていた。だから別に、メリーアンは慰謝料がどうとか、そういう生々しい話はあまり考えていなかった。


「慰謝料なんて言ったら、まるでララが悪者みたいだから──」


(は?)


 メリーアンの心の中で、何かがひび割れたような音がした。

 体が震え、スカートをぎゅ、と握る。

 もうここにはいられないと立ち上がろうとしたとき、ララが部屋に入ってきて、パッとユリウスに抱きついた。


「お二人とも、なんの話ですか?」


「あ、ああ。なんでもないよ」


 ララはメリーアンとユリウスが二人きりになるのを嫌がっているようだった。ちら、とメリーアンを見て、ユリウスのそでを引っ張る。


「ねえユリウス。私少し気分が悪くて……」


「それはいけない。部屋に戻ろう」



 ああ。


 もう無理。


 ほんっっっっとに無理。


 このままじゃ死ぬ。



 気まずそうに首をかくユリウスに、メリーアンはとうとう我慢の限界を迎えてしまった。


      *


 諸々の手続きを終え、あとは義両親からのサインを待つだけになった。

 幸いなことに、メリーアンは義両親と折り合いが悪い。この様子なら喜んで婚約解消に同意してくれるだろう。


 七日目の早朝。

 メリーアンはたった一人、馬車の待合所に立っていた。

 荷物は、トランクケースたった一つだ。

 中には最低限の着替えと、少しのお金しか入っていない。

 ユリウスはメリーアンが暮らしていけるように、全力で後のことを整えてくれると約束してくれた。けれどメリーアンは一刻も早く、この家を出て行きたかった。ユリウスと、その隣で腹を撫でるララの姿を、辛くて見ていられなかったのだ。


(それに、ここに居続ければ命の危険がある……)


 メリーアンが心を押し殺してとにかく必死に婚約解消を進めていたのは、主にこれが理由だった。

 ユリウスによると、二人の結婚はすでに国王に報告されているらしい。

 おそらく、王は二人の結婚を祝福するはずだ。

 なぜならララは今、ベルツ公爵の養子に入っている。

 ベルツ公爵といえば、古くから王家に忠誠を誓う重鎮だ。実際、先代の国王の末娘が、公爵家に降嫁している。

 クロムウェル領はこれから莫大な富を得ることになるだろう。その所有者たるユリウスとベルツ公爵の養子であるララを結びつけて関係を深めておけば、王家にとっても損はない。


 もしもメリーアンが婚約解消にごねればどうなるか?

 

(……最悪、暗殺されかねないわ)


 メリーアンはたかだか男爵家の娘だ。そんな娘が一人、病気・・で消えたとて、世間は何も思わないだろう。


「……」


 薄暗い闇の中、一筋の光が丘の向こうからやってくる。

 こんなに最悪な旅立ちなのに、朝日は涙が出そうなほど美しい。


「ユリウス……どうして……」


 私たち、今までずっと仲良しだったじゃない。私の、何がいけなかったの?


 呟くと、目頭が熱くなった。

 今泣いてしまうとここから動けなくなるような気がして、顔をくしゃくしゃにしながらも涙を拭う。


 メリーアンは後ろ髪を引かれる思いで、長年世話になった伯爵邸を振り返った。

 事情があり、生家である男爵家を出て、十歳の頃からこの家にお世話になってきた。長年家族のように面倒を見てくれたこの伯爵家と領民たちには、感謝しかない。


 だから礼にもならないかもしれないが、なんとかこの後がうまくいくように、引き継ぎだけはしっかりとしてきた。


(さようならユリウス。さよなら、みんな)


 どうか、みんなの生活がうまく回りますように。

 本当は、一人一人にお礼を言って、別れたかった。

 でも、今は無理そうだ。

 一刻も早く出立しなければならない。

 落ち着いたら、その時に来ればいいのだ。


(……そんな日は、来るのかしら)


 知り合いの家にしばらく世話になる旨を書いた短い手紙を置いて、トランクケースをたった一つだけ持って、長年暮らした婚約者の家を出た。


 目的地はない。

 知り合いの家に行くなんて、嘘。

 帰る場所も、ない。

 ただ来たばかりの馬車に乗って、メリーアンは遠くに行く。


     *


 それからの三日間、メリーアンはお金が尽きるまで適当に馬車を乗り継いで、とにかくクロムウェル領から遠く離れた場所に向かった。

 今朝からどれくらい馬車に揺られていたのだろうか。

 目を覚ますと、外はすっかり明るくなって、正午の優しい光が金色の麦畑を照らしていた。


「嬢ちゃん、目を覚ましたかい?」


「あ……はい」


 馬車に乗り合わせていた旅人が、目を擦るメリーアンを見て微笑んだ。


「一人旅なんて珍しいね。嬢ちゃんはオリエスタに向かうのかい?」


「……」


 メリーアンは頭の中に地図を思い浮かべた。

 オリエスタはクロムウェル領から南方、王都の近隣にある、学業で有名な街だ。貴族が通う由緒正しいスクールというよりは、その道を極めた学者や研究者が多く集まるため、研究所や学術機関がいくつもある。

 若い学生が集まる街でもあるので、まだ十八歳になったばかりのメリーアンが一人でいても、誰にも不審には思われないかもしれない。


「俺もたまに滞在するがね。オリエスタはやはり若者が多くて、活気があっていいもんだ。大学も立派な建物が多いが、一番綺麗なのはクロノアの神殿と、魔法史博物館だな」


 旅人は髭を擦りながら言う。


「魔法史博物館は入館料もそんなに高くないわりに展示物は結構あるし。壮大な歴史に触れると、少しは気もまぎれるかもよ」


「……」


 メリーアンがあまりにもひどい顔をしていたからだろう。

 旅人は気を遣って、そんなことを教えてくれたのかもしれない。


(オリエスタで降りよう)


 メリーアンは旅人に礼を言うと、御者にオリエスタで降りる旨を伝えた。


     *


 旅人が言うように、オリエスタは活気に満ち溢れていた。

 おまけに聖女ララを祝う祭りまで行われていて、楽しそうな歌が聞こえてきたり、屋台が出ていたり、ダンスを行っていたりと、街はどこもかしこも幸せそうな雰囲気だ。

 

「はあ。ここで降りたのは、失敗だったかも」


(こんな暗い顔してるのって、私だけよね?)


 聖女ララを讃える歌に耳を塞ぎなら、メリーアンは足早に今晩の宿を探す。

 けれど俯いてばかりいたからだろうか。

 すっかり宿屋街からは離れて、比較的静かな区画へと気づいたらやってきてしまった。


「……?」


 ふと顔を上げると、目の前にまるで貴族の屋敷のような、大きな建物があった。


〝オリエスタ魔法史博物館〟


 入り口にはそう書かれている。

 

(あのおじさんが言っていた博物館……?)


 メリーアンは吸い寄せられるように、気がつくと博物館に足を踏み入れていた。

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