第1章 メリーアンの旅立ち
婚約解消の手続きと、諸々
「聖女様の騎士に選ばれた。浄化の旅に同行することになったよ」
そうユリウスが言ったのは、今から約一年ほど前だったか。
メリーアンの顔に不安が浮かんだのを見て、ユリウスは安心させるように微笑んだ。
「俺ももう十八だ。武勲をあげずに、クロムウェル伯爵を名乗るわけにはいかない。それにもう我慢の限界だ。これ以上領地に被害は出したくないんだよ。必ず無事に帰ってくるから、君はここで待っていて」
そう言うと、ユリウスは恥ずかしそうに笑った。
「君もあと一年あれば、十八歳になる。だから、その……帰ってきたら、結婚しよう」
嬉しくて頷いたその日のことを、メリーアンは昨日のことのように覚えている。
*
このアストリア国には、数百年前より〝ミアズマランド〟と呼ばれる、汚れた土地がある。
ミアズマとは、人や獣を狂わせ、疾病を呼び寄せる、汚れた空気のことだ。
このミアズマのせいで多くのアストリア人が命を落とし、栄華を誇ったアストリアも、今では衰退の一途をたどっている。
メリーアンの両親も、ユリウスの両親も、このミアズマによって呼び寄せられた魔物や疾病のせいで、死んでしまった。
アストリアはここ数十年の間、ミアズマと他国からの侵攻という内外の問題を抱え、苦しい状況に立たされていた。
しかし、そこに現れたのが聖女ララだった。
聖女は、ミアズマを払うことができる唯一の存在だ。
各地に散らばった神殿に祀られた神より、数年から数百年に一度、「浄化の力を持つ人間が現れた」と神託が下る。
男だった場合は聖人、女だった場合は聖女と呼ばれる。
ララは百年ぶりに現れた聖女だった。そして彼女の祈りのおかげで、各地のミアズマランドは浄化されたのだ。
だから今、ミアズマから解放されたアストリアは各地で毎日のように祭りが開かれていた。ミアズマランドが完全に消えたのは、実に百年ぶりのこととなる。
もちろんユリウスとメリーアンが管理するこのクロムウェル伯爵領も、例外ではなかった。むしろ他のどんな地域よりも、人々は喜び、涙を流して神に感謝していることだろう。
国内に七箇所あるミアズマランドのうちの一つが、クロムウェル伯爵領にあったのだから。
だから国中が喜びに湧く今、暗い顔をしているのは、この国でメリーアンだけなのかもしれない。
*
(なぜ、どうしてって聞きたいところだけど……そんな暇はないわね。とにかく、
婚約解消に同意してから数日。
メリーアンは婚約解消に関する書類を用意したり、家政や領地管理に関する引き継ぎを行なったりと、目が回るほどの忙しさだった。
何しろ、ユリウスがいない間の一年は、家政も領地の管理も全てメリーアンが一手に担っていたのだ。
領地管理は本来ならユリウスの仕事なので彼に任せるのはいいとして、問題はこの屋敷の女主人の仕事の引き継ぎだった。
「聖女様、あの、家政に関する引き継ぎを行いたいのですが」
なんの感情もない声で、そう告げる。
ララは妊娠中ということで、移動は体によくないらしく、ここ数日伯爵家に滞在していた。それも体調が良くないということで、主寝室を早速占領している。
なぜそんな状況でこの屋敷に押しかけてきたのかと思ったが、「誠意を持ってメリーアンに謝りたかったから」らしい。
メリーアンの前で腹を愛おしげに撫でるのが誠意なのかと思わなくもないが、考えると発狂しそうになるので、メリーアンは死んだような顔で淡々と引き継ぎを行なっていた。
「こちらの書類にまとめていたのですが、口頭でも説明した方がいいかと思いまして」
できれば一秒でも早くここから離れたいし、ララに話しかけたくない。
でもこれはメリーアンだけの問題じゃない。メリーアンが全てを放り出して逃げてしまったら、困るのは屋敷の使用人と領民たちだ。
そう言うと、ソファでくつろいでいたララは、困惑したような表情になった。
「えっ……? そういうのは召使のやる仕事よね? だって貴族の女性はパーティやお茶会に参加したりするのが仕事でしょう?」
それは勘違いだ。
アストリアの貴夫人は、プライベートがないほどに朝から晩までみっちり予定が詰まっている。
屋敷の中で発生する金銭の管理は全て女主人の仕事だったし、屋敷の使用人たちの監督に、夜会や茶会の準備、慈善事業への投資に領地の監視。数え上げればキリがない。
それに加えて、クロムウェル領地はど貧乏だ。資金繰りのために、何度も国や他の貴族に金を借りているので、各地へ回って頭を下げたり、屋敷に招いてもてなしたりと、目が回るほどの忙しさだった。
(そういえば聖女様は農民の出だと聞いたわ)
であれば、知らないことは別に恥ずかしいことではない。
ただし、これからは様々なことを学んでいかなければ、この領地を守っていくことは困難だろう。
ミアズマランドと化したここ数十年ほど、クロムウェルは没落の一途を辿っていた。しかし元々マルレイア川中流域に位置するクロムウェル領付近は、岩塩の産地であり、アストリアにとっても重要な土地だった。
塩は人々の生活に欠かせないものだ。
クロムウェル領で精製された塩は船乗りたちがオルグス川を通じて、アストリア各地に送っていた。また川が運んだ肥沃な土のおかげで作物は豊富に実った。塩と作物が豊かにとれるその土地を〝白銀の大地〟とアストリア王は呼んだ。それほどまでにクロムウェル領は栄華を誇っていたのだ。
ミアズマランドがなくなった今、クロムウェル領は過去の栄華を取り戻すことも不可能ではない。白銀の大地がもう一度この地に戻れば、これからは莫大な収入を得ることになるはずだ。
「……いえ、屋敷の女主人が管理します。これからは、聖女様がこの家を守っていくのです」
ユリウスが言うには、ララはこれからユリウスと結婚し、この地に住むのだという。
しかしララは、なぜか涙目になった。
「メリーアンさん、やっぱり怒ってるのね……」
「へ?」
「メリーアンさんの大事なユリウスをララが奪ったから、怒ってこんな意地悪をしているのよね? だって嘘をついて、召使いの仕事をしろって言ってるんだもの」
どちらかといえば、今できる最大限の親切をしているつもりだったので、驚いた。ララの瞳から、ハラハラと涙がこぼれ落ちる。
メリーアンがポカンとしていると、ララが連れてきたという王宮の侍女がキッとまなじりを釣り上げてそう言った。
「失礼ですが。今、ララ様は大切な時なのです。あなたは男爵家の出ですよね? たかだか男爵令嬢ごときが、ララ様に偉そうなことを言わないでください」
メリーアンは侍女の物言いに驚いた。
(たかだか男爵令嬢って……それではララの出自を貶めているようなものだわ……)
それでもララは、出自を馬鹿にするようなその発言に気付いていないようだった。侍女の方も、どうやらララをバカにする気はなかったようだ。……それが余計に、タチが悪い。
(大丈夫なのかしら、この人……。忠誠心だけが高くても、聖女様をちゃんとお守りできないのでは……)
などと、人の心配をしている場合ではなかった。
「……では、一旦執事長にお任せしておきますね。わからないことがあれば、執事長──マルトーに聞いてくださいませ」
執事長は、メリーアンに家政の回し方を教えてくれた人だ。
彼に任せておけば間違いはないだろう。
メリーアンは資料を抱えて、部屋を後にする。
ふと廊下にかけてある鏡を見て、侍女が警戒するのも少し納得できた。
鏡に映った自分の顔は、まるで人形のように、なんの表情も移していなかったのだから。
本当は、こんなことになって泣き叫びたいほど辛いはずなのに、まるで心が凍ったみたいに、つるつると湧き出た感情が滑り落ちていくような気がした。
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