反撃① フェーブル
え、なんの話……。
メリーアンはポカンとしてしまった。
(婚約破棄に応じないって……私たち、もうすでに離縁したはずよね?)
そもそもの話、婚約解消に同意し、書類の用意までしたのはメリーアンだ。
業務の引き継ぎだって、やれるだけやってきた。
何も言わないメリーアンに、心当たりがあると思ったのか、アリスは勝ち誇ったように笑みを見せた。
隣に座っていたリチャードが、メリーアンを諭すように言う。
「これからクロムウェルはアストリアでも重要な立場におかれる。君はそんな計り知れない価値のあるクロムウェル伯爵夫人の座につきたいだけなんじゃないかな。でもよく考えてごらんよ。本当にその座につくべきなのは、今まで尽くしてくれたララなんじゃないのかい?」
「婚約破棄を認めないなんて、みっともないですわよ」
メリーアンは深呼吸した。
「……その話はどこからお聞きになったのですか?」
「ララ様からに決まっているでしょう? わたくし、彼女と本当に仲がいいんですのよ」
「……」
(どうしてララ様がそんなことを?)
全てうまくいって、何もかも手に入ったはずなのに、今更なぜそのようなデマを流すのか。彼女の考えていることは全くわからない。
(……どうして私なんだろう)
私たちはなんの変哲もない、普通の貴族だった。
他の人たちは、みんな政略結婚でも結ばれて、うまくやって、幸せにしている。
なのになぜ、私たちだけが、こうもうまくいかないの?
ララはなぜ嘘を言いふらしているのか。
なぜアリスにこのように侮辱されなければいけないのか。
目の前が赤くチカチカする。
なぜそんなふうになっているのか、メリーアンはしばらく理解できずにいた。
しばらく考えて、自分の中に沸いた感情が何か、ようやく分かった。
(私、怒ってるんだわ)
なんの役にも立たない令嬢。
言われてみればそうなのかもしれない。
確かに死者数はできるだけ抑えてきたが、メリーアンよりももっと上手くやれる人は、別に他にもたくさんいたかもしれない。
だけど。
(だけど、あそこには私しかいなかった。それに全力を出さなかったことなんて、一度だってないわ)
全ては領民のために。
そう思って、毎日毎日寝る間も惜しんで働いてきた。
アリスはおそらく、メリーアンが普通の貴族夫人のように暮らしていると思っていたのかもしれない。
けれどアリスは知らないのだ。人々が疾病と魔物に悩まされ、死んでいく姿を。正直なところ、平和ボケしているのはアリスの方だった。
(私とユリウスの始まりは政略結婚だった。でも積み重ねた私たちの十年を、そんなふうに語ってほしくなかった)
何も事情を知らないアリスとリチャードに。
それも侮辱する気満々で。
メリーアンは怒りに震えた。
怒鳴ろうと思えば怒鳴れるし、その頬を引っ叩こうと思えば引っ叩ける。
だけどそうすればどうなる?
(私は、守るのよ)
血が滲むほど、メリーアンは拳を握りしめた。
(エイダを取り返す)
守らなきゃ。
私はみんなを守るって、そう約束した。
怒りの炎に身を焼かれながら、メリーアンはその痛みに耐え続けた。
次第に炎は少しずつ弱まってくる。
ピークは過ぎたが、それでもメリーアンは顔を上げることはできなかった。
目の前のアリスは、震えるメリーアンを見て楽しんでいるようだった。
リチャードは鼻で笑っている。
(私の尊厳なんてどうだっていい)
メリーアンは唇を噛み締めた。
(自分のすべきことをするのよ、メリーアン)
メリーアンは心を落ち着かせると、微笑みを浮かべた。
「それは……失礼いたしました。ですがアリス様。リチャード様。私はもう、婚約解消の書類にサインをし、ユリウスに預けているのです。あとはユリウスが書類にサインをするだけなのです」
「いいえ。ララはそう言っていなかったわ?」
……アリスがそれを黒といえば黒になるのだ。
貴族の序列の強さに歯噛みしつつ、メリーアンはアリスに尋ねた。
「……私に何をお望みですか」
「よく弁えましたね」
アリスはふふ、と微笑んだ。
「簡単な話です。アリスとユリウスの結婚が皆から祝福されるように、協力して欲しいだけなのよ」
「協力、と言うのは」
「今のままだと、まるでララが婚約者がいる方を略奪したみたいでしょう?」
(私からすればその通りなのだけど)
真実ではないか。
「それだと外聞が悪いから、あなたは領地でわがまま放題をする、世間知らずな悪妻だったということにしようと思うの。ユリウスは離縁できなくて困っていたけれど、そこに国王陛下の命令があり、離縁が成立。晴れて聖女と騎士は結ばれ、悪妻は平民に落ちる。素敵なシナリオでしょう?」
呆れて声も出ないとはこのことだ。
(そこまでして、この人になんの得があるというの?)
メリーアンは怒りを通り越して、不可思議なものを見ているような気になった。確かにララと仲良くしていれば、ここしばらく続いていた王家との不仲も多少は回復するかもしれない。おそらくだが、今回の事件の真相は、この辺りにあるのではないかとメリーアンはずっと考えていたのだ。
しかしアリスのララへの心酔ぶりは以上だ。
リチャードはそうでもないようだが、ララのことを語るときのアリスの目は異常な気がする。
何がそんなに彼女を駆り立てているのか。
「……協力すれば、エイダを解放してくださるのですか」
「もちろん。これ以上あなたの大切な人々に手出しはしないわ」
その逆も然りですけど、とアリスは微笑む。
(別に貴族としての私の評判がどうなろうが、どうだっていいのよ)
そもそもメリーアンは、もう二度と結婚する気なんかない。
恋愛だってきっとできないだろう。
ユリウスとララにはだんだん怒りを覚えるようになった。
全てを奪われたような気がしたから。
けれどメリーアンの中には、感謝の気持ちも残っていたし、領民たちを守りたいという気持ちは今でも強くある。
(……だから、やれることはやるわ)
よく怒らずにここまで耐えた。
自分を褒めながら、取引の答えを出そうとした時。
『メリーアン』
不意に、フェーブルに声をかけられた。
『その紅茶、飲んでもいいよ』
(──え?)
いきなりなんの話をしだすのかと、メリーアンは思わず振り返りそうになった。フェーブルはテーブルの横に立つと、紅茶を手で示す。
『言い忘れていてすまなかった。この紅茶は出された時に、私が毒を抜いておいた。君はきっと、毒が入っていたことをわかっていたから、手を出さなかったんだね』
のんびりとそう言うフェーブルに、メリーアンは背筋がゾッとした。
(毒……)
フェーブルは水の魔法が得意だと、不意に思い出す。
『そして私は今、この紅茶から抜いた毒をここに持っている』
フェーブルは人差し指を上に向けた。
そこには、ほんの一滴にも満たない、小さな水の粒が浮かんでいる。
小さすぎで、誰も気づいていないようだ。
『さて。君が許すなら、私はこの毒を、こちらの少女か、それとも青年の紅茶に混ぜようと思うのだが」
フェーブル!?!?!?
メリーアンはようやく気づいた。
言葉も穏やかだったし、表情もいつも通り。
けれど、目が笑っていない。
(フェーブルが、怒ってる……)
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