第5話
教室に戻ると西川さんの姿はなく、生徒が三人しかいなかった。そのうちの二人も俺と入れ替わるようにして教室を出ていく。
なんのことはない。すでに放課後だった。
なんというか、取り残された感が凄い。
誰かのねぎらいの言葉を期待してたわけじゃないけど、俺は具合の悪い生徒を保健室に連れて行って、やっと戻ってきたんだぞ。
なのに俺を出迎えるのが空っぽの教室とは。
地味に堪えるな。
俺もバッグをつかんで急いでこの場を去りたいところだったが、その前にひとつ確かめたいことが残っていた。
机に座って物入れに手を入れてみる。
端から端まで探ってみたが、何も入っていない。
保健室に行く前は確かにあった、あのふんわりとした感触はどこへ消えたんだろう?
誰かが間違って俺の机に何かを入れて、放課後に持ち去った?
この人のいない教室であれば、その可能性は十分考えられる。
いったい誰だろう。
目撃者は?
俺は教室に残っていたもう一人のことを思い出した。
ちょうど俺と対角線上、教室の右後方に座るギャル系の女子だ。
振り向いた途端、驚いたことに彼女とバッチリ目が合ってしまった。
彼女は俺と目が合うと、『ふん』と言わんばかりの仕草で目をそむけ、俺には理解不能な装飾品で飾ったバッグをつかんで教室を出ていってしまった。
「お前もか……」
うん。ただ言ってみたかっただけ。
翌日の授業中、俺は緊張していた。
だって朝から一言も西川さんと口をきいていなかったから。
いや、それはいつものことなんだけど、昨日あんな別れ方をしたら気になるじゃないか。まだ怒ってるのかとか、仲直りできそうかとか。
そして午前中最後の授業が始まるころには俺は自分の失敗に気づいていた。
「もしかして俺、今朝学校来たときにまず謝るべきだったんじゃね? それをこんな時間まで放置して……。これじゃ俺の方が頑なになってるみたいじゃないか」
俺はイヤな汗をかきながら心を落ち着けようと持っていたペンを何度も握りなおしたが、そんな気休めはまるで役に立たなかった。
なにげなく机の物入に手を突っ込むと、昨日と同じアレがあった。
「あ、あれ? これって……。さっき休み時間に確認したときはなかったのに」
ぷにゃっとして、ぽよんとして、とろっとしたあの感触。その物体がまた俺の手元にあった。
確かめるように手をそわせているうちに、なんとも言えない気持ちになった。童心に帰って母に抱かれているような安心感。それと同時に、大人の階段を上るような高揚感。今の自分の不安な気持ちを癒すような包容力が、その不思議な物体にはあった。
「これ、ダメになるやつ……」
いつの間にか俺は夢中になっていた。
手のひらで水面をたたくような反応を楽しんだり、一本ずつ指を沈めてみたり。その感触は俺が触ったことのあるどんなクッションよりも上質で、とてもやわらかいにもかかわらず弾力性に優れていた。指一本の重みで簡単に沈むのに、指を浮かせれば吸いつくように元の形に戻ろうとする。いったいどんな素材を使ってるんだ?
そして俺は気付いてしまった。
その半球状の物体を包んでいる布には、ちょうど手を入れるくらいの隙間がポケットのように開いていて、そこから俺の手を誘うような妖気を漂わせていることを。
ちょうどゼンマイで動く自動車の仕組みを知りたくて分解したい誘惑にかられるように、俺はそのやわらかさの秘密を知りたい思いにかられた。男である限り、それは避けられない欲求なのだ。
ゆっくりと指を差し入れる。
決して変なことをしてるわけじゃない。
だけどこの妙に落ち着かない気分はなんだろう。
「……おっ」
いかん。思わず声が出てしまった。
たとえて言うなら赤ちゃんの肌、かな。
水分をたっぷりと含んだもちっとした弾力が、俺の指の動きに合わせて波を作る。表面はひんやりと冷たいのに、少し力を入れて指を沈めると中は温かだった。
控えめに言って頭が爆発したみたいな衝撃だった。
俺はもっとたくさんこのふんわりを味わいたいという強い衝動にかられた。
指を三本入れてみる。少し奥へ進むと一度引き、さらに奥へと進める。打ち寄せた波が砂を削っていく感触を確かめるように、俺はそのふんわりが自分の指を受け入れてくれるのを楽しんだ。
もっと奥へと指を進めたとき、ぽにょんとした感触が中指の先端に当たった。不思議に思う間もなく、すぐ隣の席でうめき声が聞こえた。
「くっ、だめ……」
俺はなんだか悪いことをしている気がして、急いで指を引き抜いた。そして隣の西川さんの顔色をうかがう。
西川さんは昨日と同じように少し気分が悪そうだった。
俺が手を挙げて先生に報告しようとしたまさにその時、西川さんが声を上げた。
「せ、先生。お手洗いに……」
そして西川さんは俺から逃げるようにして教室を出て行った。
避けられてる!?
俺が保健室に連れて行こうとするのを察知して、それを阻止しようとしたのではないか?
トイレに行くと言われてしまっては、まさかついて行くわけにもいかず、俺はその場に取り残されたまま呆然としていた。
ああ、俺が西川さんと話したのは昨日が最後だったなあ、なんて思い返しながら卒業式に参加する自分の姿を思い浮かべながら目頭を熱くしていると、挽回のチャンスはすぐに訪れた。
放課後、養護教諭の篠崎先生に、俺と西川さんが呼び出されたからだ。
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