第88話
イナンがやって来て屋敷の雰囲気は若干ピリついてはいるが、特に変わった動きはなく普通に食事をして、普通に会話をして普通に一日が終わった。
「なんか拍子抜けだわねぇ」
ベッドに寝転がりながら呟いた。
父様からの言いつけもあり使用人は元より、私も気が抜けない。警戒を怠らず動いているのは何よりも疲れる。
家にいながら何してんだ?と何度思ったことか……
エルスやエミールは疲れの表情を見せなかったが、いつもより早く部屋へ戻って行った。まあ、部屋に戻ったと言っても気配を尖らせて見張ってはいるだろうけど。
「まったく……これが二週間も続いたら精神崩壊しそうだわ」
そう思いながら窓の外を見れば綺麗な満月が目に入った。
「……満月だけはどこの世界も一緒ね……」
まん丸で大きく金色に光る月を見ていていたら前世を思い出した。懐かしさに駆られた私は窓を開け、そこから屋根へと移動した。
屋根から見る月は、窓から見るよりはるかに大きく輝いている。
昔から月を眺めるのは好きだった。
溝鼠と一緒になりながら残飯を漁ったりしても、血にまみれた汚い仕事をしていても、月だけは変わらず光り輝き私を照らしてくれる。その光を浴びると自然と心が落ち着き、悩みなど吹き飛んでいた。
(まあ、その後すぐに現実に戻されるんだけどね)
自嘲するように笑った。
「おや、先客ですか?」
「!?」
感情に浸っていると背後から声がかった。驚き、飛び上がりながら振り返ると、そこにはイナンが立っていた。
「隣宜しいですか?」
そう言うなり私の隣に座って来た。いや、そんな事より……
(この人、いつ現れた!?)
まったく気配を感じられなかった。
ここはいつ襲撃を受けるか分からないシェリング家の屋敷だ。外に出る以上、細心の注意は怠っていない。
(こいつ本当に何者だ!?)
いよいよ正体が分からなくなり、困惑しているとイナンが声をかけてきた。
「月はいいですね」
「え?あ、ああ、そうですね」
唐突に言われたので、気の利いた言葉は出てこなかった。
「……月を見ていると昔を思い出すんですよ……」
月を眺め呟く様に言うイナンの表情は何処か寂し気で、なんて言葉をかけていいのか分からず黙ってしまった。
「私の憧れていた人も月が好きでした。ことある事に月を眺めていたんですよ」
(ふ~ん……)
懐かしむように言う所を見ると、本当にその人の事を好きだったのだと感じる。
「すみません。つい浸ってしまいました」
「別に気にしないわよ」
ハッとしながら照れ笑いを見せるイナンだったが、それを馬鹿になどしない。
「私もその人の気持ち分かるわ。月はどこにいても私を見つけて光を照らしてくれる。辛い時も寂しい時も変わらず照らして続けてくれる。そんな月を見てると元気が出るじゃない?」
ニコッと笑顔を見せながら伝えると、イナンは驚いているのか戸惑っているのかよく分からないが、目を見開いてこちらを見ている。
「……貴女は……」
「──しっ!!」
何か言おうとしたイナンの口を手で塞ぎ、鋭い目を庭に向けた。
庭木に隠れるようにして数人の侵入者の気配を察した。
(四……いや、五人か?)
この程度ならエルスやエミールを呼ばずに私だけで対処出来ると思い、腰をあげようとすると「お待ちください」とイナンに止められた。
「どうやら、彼らの狙いは私のようです」
「は?」
「各国を回っていると、恨みを買うことも多いんです」
呑気に言っているが、自分が狙われているのなら尚更危険だと部屋に戻るよう促すが、イナンは聞く耳持たない。
「まあ、見てて下さい」
そういうイナンの手にはいつの間にかクナイが握られている。そして、躊躇なく屋根から飛び降りた。
だが、驚くべき所はそこじゃない。イナンの動きは素人ではなく、完全にプロの手際だ。
動きに一切の無駄がなく、確実に仕留める為に的確に急所を突いている。
(どういう事?)
今起こっている状況に頭が追いつかない中、更に気付いたことが一つ……
「……あの動き……」
それにクナイと言う点でも合致する。
「いや、そんなはずない」
混乱している内に、イナンがすべて片付けて戻って来る様子が見えた。
返り血を浴びながら、嬉しそうに私の元に戻ってくる姿に
「ハーデス……?」
自然と口が動いた。
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