社畜のクネクネ
楠本恵士
第1話・脈々と伝え継がれてきた【社内伝説】
退社時刻を二時間ほど過ぎた社内──一人しかいない部屋で、パソコンで黙々と書類作成をしている、若い男子社員がいた。
(今日も、残業代は請求しても一切出ないサービス残業か……一週間連続の残業は体に堪える)
目頭を押さえてから、目薬を点眼したY氏は首回りの凝りをほぐすように、椅子に座ったまま体を動かす。
「ここまで、やっておけばなんとか形にはなるな……続きは明日だ」
帰り支度をはじめた、Y氏はドアの窓に映る人影に気づく。
ドアが開いて、白いレジ袋を提げた。上司のK氏が顔を覗かせる。
K氏が言った。
「お疲れさん、明かりが見えたから近所のコンビニで、食べ物と飲み物を買ってきた──差し入れだ、これから寮に帰って食べるのも大変だろう。ここで何か少し食べていけ」
「いつも、ありがとうございます……それじゃあ、遠慮なく」
Y氏は机の上に置かれたレジ袋の中から、サンドウィッチと缶コーヒーを取り出す。
椅子に座り直して、食べているY氏に向かって、K氏が静かに言った。
「階段のところの壁に大鏡があるだろう、角に少し亀裂が入った鏡だ」
この会社には、先々代の社長の時に壁に取りつけられた、大きな鏡がある。
「ありますね……どうしてヒビが入った鏡を交換しないんですか?」
「できないんだよ……あの鏡は壁から外せない」
「??? 壁に埋め込まれているんですか?」
「いや、鏡を固定している金具を外せば問題なく外せるが、以前業者に頼んで危険だから外してもらおうとしたコトはあったが……業者が悲鳴を発して逃げ出した、鏡の中に何かを見たらしい」
「何を見たんですか?」
「それは、わからない逃げ出した業者は、直後に行方不明になってしまったからな……ただ、あの大鏡には、上司から部下へと脈々と伝わる社内伝説みたいなのがある」
ドリンク剤を飲み終ったY氏は、少し興味津々で上司のK氏に訊ねる。
「どんな社内伝説なんですか? 教えてください」
「君は、この手の話が好きそうだな……いいだろう『仕事に耐えられなくなったら、階段のところにある大鏡に向かって、夕日が沈む時刻に合わせて、合わせ鏡をすると見てはいけない世界と繋がる』と、言うものだ」
「どんな世界なんですか?」
「それも見た者にしかわからない……ただ、過去に偶然、繋がってしまった世界を目撃して。急いで逃げ出した者が伝えた話しでは『ヒビ割れの中から黒いシミのような空間が染み出てきて、その中に歪んだ無数の紅い目が広がる空間があって、白色をした得体の知れないモノが蠢いていた』らしい……」
なんでも、まだこの会社がブラック企業化していなかった先代社長の頃に、社内伝説を知らなかった新人女性社員が、化粧で合わせ鏡を使ったために偶然遭遇した怪異で……その女性社員はすぐに会社を辞めてしまったそうだ。
ここで、K氏は声をひそめた。
「異界を見て、無事に逃げるコトができた、その女性社員は特に会社への不満が無かったそうだ……この社内伝説は、上司から部下に伝えるのが暗黙の伝統になっている」
喉の渇きを潤すために、ペットボトルに入った、ミネラルウォーターで喉の渇きを癒してK氏はしゃべり続ける。
「社内伝説の怪異をバカにして、伝えなかった上司は全員不幸な目に遭遇しているからな……だからオレも今日、君に伝えた」
「白い得体が知れないモノって、いったい?」
「君も一度は聞いたコトがあるだろう……クネクネの都市伝説、表現するならアレが一番近いらしいな」
「都会にクネクネ……ですか?」
【クネクネ〔くねくね〕】山間の農村で、離れた田圃や畑で人ではない異様なモノが、くねくねと動いている。
それを目撃してしまった者は発狂してしまうと
いう怪奇伝説だった。
「近いというだけで、クネクネとは限らないが……数年前に、あの大鏡の前に暗い表情で立っていた女性社員が行方不明になった事件もあったからな……興味本意で、夕刻に合わせ鏡はやらない方がいい」
時計を見て、時間を確認したK氏が言った。
「引き留めて、長々と話してしまって。すまなかったな──それにしても、今の社長になってから。やたらと残業が増えたな……この会社もブラック企業化しているのかも、知れないな……ムリはするなよ、体を壊しても会社の対応は冷たいからな」
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