第4話 六十六回
難所を抜けた瞬間、幸人は持てる限りの力で走り出した。前方の視界は良好で広大な上に足場はしっかりしていた。新たなスニーカーのアイコンを入手して後方の死神を突き放す。
走る速度を緩めた。後ろに目を向けると小指の先端くらいの黒い靄が見える。死神と認識できない距離の開きに幸人は心底、胸を撫で下ろした。しかし足は止めない。油断は禁物と態度で示した。
「なんだ?」
ジョギングの状態で点在する物に目がいく。近くに落ちていた丸い物体はバスケットボールだった。表面の一部に擦れたような跡が見て取れる。
その左斜め先にはアスファルトの道がある。ヘアピンカーブの部分が切り取られ、地面の一部として取り込まれていた。
「見たことがあるような……」
歩を進めると酷く傷ついたガードレールが目に留まる。側でクロスバイクが横倒しとなっていた。下になったブレーキが折れた上に前輪はひしゃげ、複数のスポークが外れている。地面には赤黒い血痕まで残されていた。一目で凄惨な事故現場を想像できる。
自分自身に降り掛かった出来事のように幸人は体を震わせた。実際、表情は強張り、視界に入れないようにして走り抜けた。
「この世界は一体……」
口にしたものの答えは出ない。後ろにチラリと目をやり、取り敢えず心を落ち着かせた。
走り続けていると広々とした地面の境界が見えてきた。薄茶色から黒褐色へ綺麗に二分されていた。境目には小柄な少女が立っている。紺色のスクール水着を着用して腕組みをしていた。
幸人は少女に向かって気軽に声を掛けた。
「
「はあ? 誰だよ、それ。そんなことはどうでもいい。買うんだろ?」
少女の手前にはスニーカーのアイコンが置かれている。靴の側面には羽を模した物が付いていた。
幸人は足を止めて黒褐色に目を移す。表面がぬらぬらして泥深い沼を思わせた。
「坪坂とは十年来の幼馴染みだし、俺を騙さないよな」
「騙したとして天使のあたしに、なんの得があるんだよ」
「そういう設定なんだな」
「勝手に思い込むな。ちゃんと天使の輪もあるだろ」
黒々としたボブカットを幸人に突き出す。仄かに光る輪が斜めに嵌められていた。
「天使の輪って頭の上に浮いているもんだよな」
「個性の違いだ」
「スクール水着はどうなんだ? 天使の要素の欠片もないんだけど」
「わかってないね」
自称、天使は肩を
真顔になった瞬間、白い翼が背中から生えて周囲に純白の羽を撒き散らす。
「翼の関係で都合がいいんだよ。理解した?」
「なるほど。急に話は変わるけど、そのアイコンは」
「七十コインだ。値引きは一切しないからな。サキュバスに
「それは大丈夫だけど、そのアイコンの効果で空を飛べるようになるんだよな」
幸人はスニーカーの羽を見ながら言った。
耳にした天使は呆れたような表情を浮かべた。
「期待し過ぎ。地形効果を無効にするだけだ」
「それだけで七十コインは少し高くないか?」
「値引きはしないと言ったが」
納得できない幸人は天使の横を通り抜けた。
試しに沼へ右足を入れてみる。足首が呑み込まれ、脛の中程で止まった。底なし沼ではなかった。
同じように左足を入れて歩行を試す。気張るような顔は数秒で赤く染まった。
「なんて、粘り気、なんだよ」
「そんなに遅いと確実に死神に追い付かれる。素直にアイコンを買えよ」
「ゲームみたいな世界で深刻に考える必要があるのか? セーブ機能はないかもしれないが、ペナルティはスタートに戻される程度じゃないのか」
冷静に返した幸人は沼から上がった。靴やスラックスは真新しく、僅かな汚れも付着していなかった。目にしたことで一層、ゲームの信憑性が高まった。
「ここは現実の世界ではないよな」
「また、それか」
「どういう意味だ? 俺からすれば初めての挑戦になるが」
「違うな。今回で六十六回目だ」
天使は真剣な顔で重々しい一言を吐き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます