5-3 不穏な雲が流れ、
清廉な姿を見送り、しののめは考え直した。
薬を作って届けてくれた朝春を信じたい。自分の生んだ子を、当の母である自分が信じなくて、どうする。
殿は、多くの人に恨まれていた。ぽっかりと開いた底知れない闇に、きっと引きずり込まれたのだ。
そう思えば、鎌倉殿の死に関わっているのではないかという疑いも、徐々に薄れてきた。人々を救おうと薬師を志している朝春が、命を奪うわけがない。
朝春は政子に狙われて鎌倉を脱出したのだ。嫉妬のあまり、何人もの愛人を駆逐してきた政子ならば義息を暗殺するぐらい、するかもしれない。殿を狙ったのも、北条氏の勢力かもしれない。朝春は、被害者だ。
姫が快復すれば、また会えるだろうか。自分にはともかく、頼春は姫に同情していたからこそ、貴重な薬をくれたのだ。
しののめは、姫の部屋に直行した。
三幡姫は、すでに褥から頭も上がらない状態である。毎日をうつらうつら、現世と夢とを交錯させていた。
「姫、妙薬をお持ちいたしました! 京より届いた、秘薬にございます」
姫は起きていた。かすかだがうつろな目を開き、天井を眺めていた。
あれほどしののめを疎んじた姫だが、今では抗う力もなく横たわるだけの身と化している。しののめは、込み上げてくる涙をこらえた。
「姫を思う尊い方が薬を作ってくださいましたよ。さっそく飲みましょう」
薬袋を開くと、意外にもよい薫りがした。一見、練り香のようだが、黒い丸薬である。何種もの薬を調合したような言い方をしていたので、きっと薬の効き目も強く、薫りも味もきついのだろうと安易な想像をしていた自分が恥ずかしい。
薬に、添え書きはもちろん文もない。朝春に指示された通り、しののめの記憶に残っている限りで服用させるしかない。
「生きていても、つまらない。このまま死にたい。私を慕ってくださるお方なんて、この世にひとりもいない」
すっかり気弱になっている姫は嘆いた。朝春が作った薬だと説明できたら、どんなによいだろうか。姫は、朝春を忘れていない。急にふっつりと姿を消した若者を、いつまでも待っていた。朝春は悟ったようだが、姫はなにも知らないでいる。
「悲観的にならないでくださいませ。この時季の、暑さのせいですよ。健やかなはずのわたくしも、この暑さには辟易しております。さあ、お薬にございます」
しののめは姫のために、少々無理をさせてかかえ起こした。寝たきりでは薬が飲めない。姫はいやいや身を起こし、渡された薬を手にした。
「まあ、これが薬。お香ではなくて、薬?」
素直に姫も驚いている。手のひらで転がし、香りを確かめている。
「貴重な妙薬を混ぜ合わせて作ったそうです。白湯で飲むと効果が上がると」
「初めてね。こんないい香りのお薬は」
少し、興味をいだいたようだが、姫は飲もうとしなかった。まるで人ごとのように、首を傾げてじっと薬を眺めていた。年が明けて十四になったはずの姫だが、しののめには幼女のように映った。
薬を飲ませるために、しののめは思い切って告白することに決めた。
「さあ、さあ。これは、朝春さま手ずから作られたお薬にございますよ」
「朝春さまの?」
いささか強引に、しののめは姫の唇を押し開き、薬を口内へ放り込んだ。白湯も口もとへと運ぶ。
「苦いわ」
姫は白湯を少し戻したけれど、薬はどうにか飲み込んだ。久々に聞いた、朝春の名に動揺している。
「申し訳ありません、姫さま」
「ほんとうに? 薬を飲ませるための嘘ではないの?」
むせ返りながらも、姫はしののめに正面から向き合った。こんなふうに語るのは、いつ以来だろうか。
「お声が大きゅうございます。話せば長くなりますが、朝春さまは北の方さまに命を狙われ、身を隠しておいでです。ご出家して姿形を変え、京で薬師になるべく学を積んでおられるそうです」
「まあ、僧侶に? なれば、私との結婚の約束は」
「お命をつなげるためです。諦めてくださいませ」
「しかも、母上が……朝春さまのお命を。朝春さまがいくら秀でておられたからって、ひどい。父上がいらっしゃったら、こんな横暴はけっして許されなかったのに。ねえ、しののめもそう思わない?」
しののめには、萎れた姫にかけるべき慰めのことばがなかった。ついた嘘がさらなる嘘で重なり、固められてゆく。
「こちらへ薬を届けたのは誰? ご本人? しののめは、会ったの?」
「……いいえ。けれど、京よりいらした薬師の中に、いらっしゃるようなのです」
嘘にまみれたしののめは、胸が苦しくなった。次第に、声が小さくなる。
「もしかしてしののめ、朝春さまより届いたお薬と言えば飲むと思って、嘘をついた?」
「いいえ。使いの者が、確かに朝春さまの手跡による覚書を持っていました。黒々とした、新しい墨で書かれたものです。けれど、服用の覚書は門外不出とのことで、頂戴できませんでした……申し訳ございません」
とうとう耐え切れず、しののめは俯いた。
疑心暗鬼に陥っている姫に対し、口先だけで朝春さまの薬と説明しても、信じてもらえないことは分かりきっていた。もっともな理由を、もっと考えておくべきだったのに。姫が快復すれば、朝春にまた会えるかもしれない、その一心だった。
「ねえ、やっぱり嘘なの?」
意外にも強い力で、姫はしののめの袂をつかんで揺さぶった。拍子に、床の上にはらりとなにかが落ちた。白い包み紙……朝春がくれた薬袋と同じものだった。渡された覚えがない。しかし、ほかの紙とは違い、なにかが書いてある。
「この字、朝春さまのものだわ! じゃあ、ほんとうに?」
覗き込めば、そこには『祈』という一字があった。姫が言う通り、まさしく朝春の字である。最後に抱き寄せられたとき、装束の中に忍び込ませたのかもしれない。
「うれしい。朝春さまは、変わらずに私を思っていてくださったのね。私ばかり、おろおろしていたなんて。この薬袋はもらうわ。私、朝春さまのお薬を飲む。治してみせる。母上を見返してやる。はじまりは仮病、それに気鬱だもの。私、耐えるわ」
姫の双眸に、光が戻った。
「北の方さまは姫のために、京より医師を呼んでくださいました。このあと、往診があるはずです。お招きしても、よろしいですね」
「受けないわ。母上の情けなんて。私のことなんて姉の形代としか考えていないし、ずっと前に見捨てたくせに……と言いたいところだけれど、京の医師の中に朝春さまがいるのね? 薬師とやらを召せば、会えるはず。ああでも、どうして母上が朝春さまを亡き者にしようとするの? そんなに佐治原が憎いのかしら……いいえ、眠くなってきたし、少し休むわね。薬のせいかしら」
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