5-2 不穏な雲が流れ、
「申し訳ございません、つい」
「いいえ。姫へのお心づかい、感謝しております」
「しののめさまゆえお話ししますが、実は……ここだけの話、北の方さまに命を狙われかけまして。出奔して出家したのは成り行きと言いますか、保身のためでした。北の方さまは、わたしが前の殿の胤と知り、消そうとしたようです」
「まあ、そのようなことが」
落ち着いて驚くふりができた自分を、しののめは軽侮した。
「北の方さまは、ずっとわたしの出自を疑っておいででした。特に元服時、わたしが『朝』の字をいただいて、その疑念を強めたようです。そして、今回の隠し子騒動。とてもあわてましたが、今となっては出家してよかったのかもしれません。医の道を究めようと、毎日が充実しています。権力を振りかざしても、財を築こうと、黄泉までは持ち運べませんからね」
「命を助ければ、いつかきっと恩が帰ってきますよ。なんと、ご立派になって。朝春のさまのお姿、殿にお見せしたかった……」
「わたしが消えたことで、新中将殿(頼家)の将軍就任も無事に済みました。ただ、幕府の重職には諸氏が乱立し、嵐の予感ですね。揉めなければよいのですが」
なんと、気遣いができる子なのだろうか。
感動のあまり、しののめは落涙した。朝春の大きさに、しののめごと、いや鎌倉ごとすべてが包まれている気さえする。
「朝春さまは、穏やかで、おやさしいお心を手に入れられたようですね」
「まだまだこれからです。しののめさまにはご挨拶もなく、鎌倉を離れてしまって申し訳ありませんでした。しかも、鎌倉を糺すなどと広言した覚えが。浅はかなことです、忘れてください」
「とんでもありません。殿があなたさまのことを明らかにされてから御落馬まで、さほど時間がありませんでしたもの。苦労なさったでしょう。殿の死については、朝春さまも疑われたのですよ」
「おそれいります」
朝春は深々と頭を下げた。
「あなたさまと、殿の一件は、無関係と信じてよろしいのですね」
「あれは天罰でしょう。前の殿は立派なお方でしたが、命を奪い過ぎました」
朝春は胸を張って答えた。先ほど垣間見た気がする妖艶さはすっかり消えていた。清らかな僧侶がそこにいた。見間違えたのだろうか。しののめは己の目を疑った。
「では、こちらを。実は、わたしが調合した薬です。師匠も認めてくださった薬ですので、安心して服用ください」
そう言いながら、朝春は小さな袋を取り出した。
「姫にお会いしたいのはやまやまですが、今はやめておきましょう。姫の心を乱してしまいそうです」
「ええ、ええ。そうですわね。ありがとうございます。姫には、朝春さまが兄君だということを伝えていないのですよ。身体が弱っていて、真実には耐えられそうにありません」
しののめはぎこちない笑顔で、しかし恭しく薬を受け取った。飲ませ方を聞き、しかと心に刻んだ。
往診の支度ができ次第、丹波医師も急ぎ姫の家へやって来るという。忙しいようで、朝春はすでに腰を上げかけて帰り支度を整えている。
しののめは迷っていた。
聞きたい。今を逃せば、次はないかもしれない。朝春が自分をどう思っているのか、知りたい。
「あの、朝春さま。しばらく会えないならば、ひとつ、この婆の話を聞いてくださいませ」
「なんなりと」
朝春は身体の前で両手を合わせて合掌し、軽く頭を下げた。ひとつひとつの動作が洗練されており、思わず見とれてしまう。
「あなたは、殿の御子。では、実の母について……なにか、ご存知?」
声が震えていた。最後はかすれてしまっていた。朝春が口を開くまで、いやに長い時間が流れたように感じた。
「はい。故殿より、すべて聞かされております。まさか、わたしのいとしい姫も、慕っていた憧れの女人さえも、あのお方のものだったと知らされたときは、憎くて憎くて。前の殿を呪いました。不幸な運命って、あるのですね。しかし、あのお方はもういない。もう、どこにもいないのです!」
「朝春さま……」
「わたしは認めない。わが身が、あのお方……殿の子ということについてはともかく、あなたを母だなんて思ったことは一度もありません。かつて、わたしはあなたに憧れていましたが、殿に穢されていたなんて。あなたも、今ごろになって母親面ですか。ずっと黙って、報われない恋に身を焦がすわたしの様子を見て、陰では嘲笑していたのでしょうに」
「そんなことはありません。ただ、ひそかに見守るだけで」
「呼びませんよ。あなたを母だなんて、一生口にいたしません。わたしにとっては、今ではあなたも憎むべき相手です。恨みます。いくら修業を積んでも、心の傷は消えません。しかし、姫は別。あわれです。昔のわたしを見ているような気がします。なにも知らされずに、生きて……生かされて」
「では、やはり殿のことは、朝春さまが」
堂々とした朝春の態度に、あやうく飲まれてしまうところだった。
若武者だったころの朝春は、弓も馬も巧みだった。つい、疑念を向けて見てしまうが朝春はしののめの心を無視した。
最後に、朝春はこう言い残した。
「……古今東西の秘薬を使っております。常にない反応もあるかもしれませんが、それは薬の作用。必ずや好転いたしますので、しばし静観を」
「お待ちください。やはり、姫の御見舞いを。薬だけではなくて、朝春さまのお顔を。行かないで」
なじられてもなお、しののめは朝春を引き留めた。愚かな母親心が、一度開いた傷口をいっそう広げてしまうだけと分かっていても。
気が昂ってしまった様子の朝春は膝を進めると、しののめの身体を強く抱き締めた。突然のことに、しののめはされるがまま、朝春の広い胸に吸い込まれた。
懐かしい香りがする。この香は、殿が好んで使っていた沈香である。抵抗ができない。しののめは、出逢ったころの殿を思い出した。北の方政子に嘘をついて忍んできたときや、朝春を身籠ったと話したときのことを。
「今さら、姫と会ってどうするのですか。あれほどわたしたちの仲を引き裂いたあなたが。子いとしさゆえに、わたしの修業の妨げをするつもりですか」
「そんなつもりはないの。では、姫が快復したら、会ってくださいますか。きっと喜びます。あなたに会うためならば、姫は薬を飲むでしょう」
「なるほど、そうですね。気丈な姫のことです、どうぞわたしのことを餌にしてください。姫が助かるならば、力になりましょう」
薬を置くと、朝春は足早に立ち去った。
なかば、喧嘩別れになってしまったものの、朝春は生きていた。無事だった上に、出家して薬師を目指し日々、励んでいる。
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