5-1 不穏な雲が流れ、

 頼朝は、手厚い治療のかいもなく、あっけなく亡くなった。


 新年が明けて早々、出家して功徳を期待したものの、はかなくなったのは正月十三日。鎌倉全体が殿の喪に服すことになった。

 将軍位は長男の頼家が継ぎ、やや専横さを感じさせる政治をはじめたが、一連の仏事も終えて表面上幕府は平穏に戻った。


 けれど、奇妙な静けさだった。


 みな、納得しているようで、どこかに不満を抱いていた。

 新しい将軍は若く、荒々しい。あるのは、勢いだけだ。幕府では、頼家乳母の実家で婚家でもある比企氏が発言力を大にしている。


 三幡姫の母である政子も、次男千幡を擁して北条氏の力を拡大させるのに夢中で、姫の存在を忘れてしまっているかのように沙汰がない。遠くの都・入内対策よりも、近くの鎌倉・勢力抗争に力を注いでいた。


 他の有力御家人たちも勢力拡大へ動いている。このままでは、終わらないだろう。


 不安の火種が、いよいよ点火されたと捉えていい。


 連鎖する動揺。焦燥。


 仮病を捨てたはずの三幡姫だったが、すっかり寝ついてしまった。はやり病でもないの。衰弱してゆく一方だった。秘蔵の薬も懸命の看護も、祈祷も効かない。


 確かに、仮病だったはずだ。なのに、朝春が去って以来、姫は悪くなる一方だった。


 いっそのこと、真実を伝えられたら。


 高熱と悪夢にうなされている姫を看病するたびに、しののめは後悔に襲われる。苦しくて、胸が締めつけられた。姫の代わりに、自分が病を背負いたいほどだ。


 新将軍は、予定通り強引に三幡姫を都へ送ろうとしたけれど、褥から頭も上げられない姫に、都までの長い旅は到底無理な話だった。父の葬儀にも、いっさい出席できず、しののめが代参した。


 すこやかなときならば、しののめの世話など受け入れないだろうが、姫は静観を保っていた。ただし、あたたかいことばもない。


『朝春さまはどこなの』


 うつろな姫の目は、そう物語っていた。

 しののめは首を横に振る。朝春の行方は、ほんとうに知らないのだ。


***


 しかし、朝春はあらわれた。

 異形となって。


***


「お久しぶりにございます、しののめさま」


 全身、黒づくめの僧体。頭髪もすっかり剃り上げてしまったせいか、おとなびて見えた。それに、だいぶ痩せたようだ。


 五月。

 頼朝の落馬直前に姿を消した朝春を、下手人だと思い込んでいる輩も多いというのに。


 しののめは、一瞬ことばを失った。朝春が、我が子が、無事に生きていたことに。たとえ大罪を犯していても、子のかわいさは変わらない。半年ぶりの再会に、しののめは逸った。


「このようなところへ来ては、危険です。しかも、明るい時分から堂々と。人目があります」

「心配は不要です。今は、一介の僧侶。鬼巽きせんと名乗っております。鬼巽法師とでもお呼びください」

「鬼巽……と。出家なさったのですか」


 巽とは、辰巳。東をあらわすことば。東とは陽の出る方角。暁。つまり、朝。朝春は、すべてを捨てていないようだ。


「師匠に命じられ、姫に薬をお持ちしました」

「師匠?」

「今は、多くの命を救うために、丹波たんばさまのお手伝いをしております」


 詳しく聞けば、鎌倉を出たのちは京で薬師を目指しているという。

 丹波時長ときながは、女御・三幡姫の治療のために幕府が京より呼び寄せた当代一の名医である。朝春は、丹波時長らとともに、鎌倉入りをした。顔を隠すこともなく、堂々と。


「姫や佐治原の父母、誰にも言わずに鎌倉を出奔したことは、心苦しく思っています。しかし、言えば必ず止められたでしょうし、それがし……いえ、わたしは自分の選択を悔いてはおりません。権力を握って姫の入内を阻むより、姫のお身体を治すことが最優先かと。姫のためならば、身分を捨てても構わないと思った次第にございます。ひそかにいだいていた野心さえも、今では恥ずかしい。わたしは、どうしたって姫とは結ばれない定めにございますゆえ、わたしに代わって、薬を姫に!」


 勢い余ってか、朝春はしののめの袖にしがみついた。


「姫だけではありません。わたしにとって、しののめさまは憧れの女人でした。しののめさまが姫のそばにいらっしゃらなければ、姫に恋しなかったでしょう」


 髪を剃り落とし、涼やかな頭頂とうなじをあらわにした朝春からは、あやしいまでの色気が漂っている。袈裟を身にまとった清冽な僧体であるにもかかわらず、以前よりも格段にあだめいて映るのはなぜか。

 しののめの胸はざわついた。


 それに、朝春はしののめが母であることを知っているのだろうか。頼朝とは、とうとう最期まで話ができなかった。聞いてみたいけれど、怖ろしくてできない。


「……お手を、どうか引いてくださいませ」


 やっとのことでしののめが懇願すると、朝春はあわてて腕を引っ込めて下がり、平伏した。

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