3-2 奔流する激情の源は

「そうよ。私は、病におかされているの! その名は、恋。恋なのよ! 恋ゆえに、嘘をつくの。それができなかった姉姫さまは、とうとう亡くなった。そんなの、私は絶対にいや。私は生きたい。生きて生きて、生き貫きたい」

「姫は、長生きします。わたくしがお守りいたします」 


 いっそうの笑顔で宣言する姫の清々しい表情に、しののめもつい頷きそうになってしまった。甘い態度に出ることが、いずれ姫をより苦しめると分かっているので姿勢を正す。


「ですが、朝春さまとのことは諦めてくださいませ」

「いや。私はあのお方が好き。朝春さま以外のお方とは夫婦になりません。しののめは結婚したことがないから分からないだろうけれど、私は朝春さまと生きたいのよ。身分なんていらない。ささやかな暮らしでいいの」


 いかにも、何不自由なく育った姫君の言いそうなことだった。三幡姫は大切に育てられた征夷大将軍の娘。冷たい水にも触れたことがないし、火を熾したこともない。苦労をともなう極貧生活など不可能なのに。


「姫は、わたくしがかつて結婚していたことも、子を生んだことも、ご存知ないのですね」


 つい、口にしてしまった。しののめは過去を語ったことがない。御家人と短い結婚をしていたことは乳母ならば知っているだろうが、姫は目を丸くして驚いている。


「それは、ほんとうなの? しののめは、恋をしたの?」

「短い恋でした」

「でも、結ばれたのでしょう。私なんて、邸に閉じ込められて、遠い都へ行かされる。まるで人質だわ。ねえしののめ、私の苦しい心を分かって。朝春さまに逢わせて」


 姫は己の不幸に酔っている。


「それはできません」


 静かに拒否すると、とうとう姫の怒りが爆発した。三幡姫は、しののめの左頬をしたたかに打った。


「しののめの、意地悪! ずっと一緒にいて、私をかばってくれたのに。朝春さまのことだけは父の言いなりで、どうして許してくれないの。いいわ、もう。あなたには頼まない。声も聞きたくないし、顔も見たくない」


***


 殿が入内を推し進めると、政子も動いた。


 政子は、朝春からの文を己の名を騙らせ、乳母宛てに届けるように工作していた。命じても働かないしののめを見限り、姫大事の乳母を味方につけたらしい。


 確かに、母・政子より届く文が頻繁になっていると感じていた。しかし、相手は殿の正室にして、姫の母親。しののめには入る隙がないと認めていたので、気がつくのに時間がかかってしまった。


 中原家で殿の命令を守っているのは、しののめのみと言っていい。


「もし。ご使者殿、お待ちください」


 見慣れた朝春の従者が、政子からの文を携えてきたので、不審に思ったしののめは文を取り上げ、中を改めることにした。

 呼び止められた使者は、突然のことに動揺していたけれど、しののめは許さなかった。おかしい。なにか、隠れている。ひそんでいる。


 表の差出人の名はいつも通り、政子である。端整な字も、本人のものだ。しののめもよく知っている。しかし、開いた文の中身はやはり、朝春の手跡だった。

 そこには三幡姫への恋情が連綿と綴ってあり、目に入れるだけで胸が苦しくなる内容だった。手に手を取って逃げようだとか、叶わぬ場合は海に跳び込もうかなど、まるで物語である。


 なんと酷薄な。

 残される者のことをまったく考慮に入れていない。姫の評判は地に落ち、佐治原家も処分されるだろう。

 郎党は主人を失う。その家族も路頭に迷う。嫁入り先が没落ししまっては、志水の娘も笑い者だ。その程度の未来図は、冷静になれば誰にでも分かるというのに。無邪気な若さとは怖ろしいものだ。

 しののめが乳母を問い質すと、文通の事実をあっさり認めた。


「文の件に関しましては、殿に報告いたします」

「まあ、そんな。殿のお言い付けとはいえ、なぜそこまでしののめどのは、若君を嫌うのでしょうか」


 嫌ってなどいない。むしろ、好ましいと思っている。毎日でも会いたい。しかし、しののめには許されない。


「なりません。誰のためにも」

「これは、若君さまだけの暴挙ではございません。北の方さまの意を含んでいるとなれば、状況は変わるでしょうに」

義高よしたかさまのことを忘れましたか」


 かつて、大姫の婿として鎌倉に送られてきた木曽きそ義高。

 義高は木曽義仲《よしなか)の嫡男であり、人質だった。義仲が平家を蹴散らした勢いに乗って都でも狼藉を働いたため、鎌倉殿はこれを討った。

 ただし、義高は途中まで逃げ延びた。誰が逃がしたのか。それは紛れもない、義高と大姫の仲に同情した政子だった。しかし、結局は義高も討たれた。


 鎌倉殿・頼朝は、武家の頭領として常に冷ややかな視線を持っている。長女の小さなしあわせを砕き、御家人の統率を選んだ。非情な判断だと考えられがちだが、武家を統べる者としては正しかった。


「もし、姫と朝春さまが結婚なさったら、佐治原家が強大になり過ぎます。世の乱れは、殿が嫌うもの。義高さまだけではありません。九郎さまを思い出してごらんなさい。よろしいですか、殿を信じましょう」


 さらに、しののめは九郎……義経よしつねに言及した。源九郎義経・殿の異母弟。いくさの上手でありながら、冷静を欠いていたがゆえに滅ぼされた。

 鎌倉で、義高や義経を語ることはほぼ禁句であるが、しののめはあえて例に引き出した。朝春が、そうならないとは限らない。

 生かしたい。明るい将来がひらけているあの子を。


「それは、しののめさまの取り越し苦労というもの。若君さまは鎌倉殿も大いに認められておりますし、実力を備えておいでです。いずれは鎌倉を背負ってゆかれる立派な御家人におなりでしょう。それに、見目麗しい若武者ぶり。こちらの心も洗われるようで」


 しののめの心に逆らい、乳母は朝春を讃えた。


 朝春は、近年稀に見る素晴らしい若者。それはしののめも認めている。けれど、我が姫と結ばせるわけにはいかない。姫は都の女御なのだ。


「殿は、上京の準備を進めていらっしゃいます。中止にはできません」

「ならば、しののめどのはあくまでも、殿にお味方なされるのですね。この乳母は、北の方さまにつきます。女なら、姫の思いを叶えて差し上げたい」


 これ以上、取り合っても無駄だった。姫を思えば思うほど、朝春との縁は諦めなければならない。しののめは退出した。


 上京……入内を急がねばならない。姫大事の乳母が、どのような手段に出てくるのか読めない。政子に泣きついて姫の寝所へ朝春を手引きしかねない。


 殿に、文を書こう。


 心苦しいけれど、ついに姫を裏切るときが来てしまった。『姫は仮病』と、殿に伝える日が。

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