2-1 鎌倉殿と政子としののめと

 この日。しののめは、鎌倉の大倉御所にいた。

 頼朝が政務を行っている、いわば官邸である。


 珍しく、殿からの呼び出しを受けたので、しののめは中原家から歩いて鶴岡八幡宮東側に建つ御所へと参上したけれど、一介の女房風情には呼び出しの声がかからなかった。

 ひとり、またひとりと御家人たちが御前へ呼ばれるのを尻目に、さらりと受け入れるしかない身の上が悲しい。


 鎌倉殿・源頼朝は、悩みが深い様子。


 武士の頭領である征夷大将軍の地位を得てなお、憂いが二重三重に頼朝を襲う。都との駆け引き、御家人どもの内紛、残党の始末、身内の整理。ため息も漏れるだろう。


 武家の頭領となった今日でも、苦悩は尽きないのはなぜだろうか。日々、頼朝は鬱屈を発散しきれずに悶々としているらしい。幕府のためとはいえ、親類や義弟を処分し、股肱の臣にさえ厳罰を下さざるを得ない身分に立ってしまった己に苦しんでいるようだ。

 頼朝は脇息に寄りかかって自分の頭を揉んでいた。


 しののめの拝謁がようやく認可されたのは、日が傾きはじめたころだった。

 正妻の政子の外出を確かめてから、頼朝はしののめをようやくそばへ呼び寄せたようだ。すでに人払いを済ませたようで、室内には誰もいなかった。広い空間で、西日に照らされて長い影を従えた頼朝ひとりがぽつんと座っている。


「そなた、変わりないか」


 しののめが入室すると、戸は締められて夕陽も閉ざされた。広間には、燭台にはすでに火が灯されている。

 こうして殿と向かい合い、ふたりだけで話をするのは、確か五年振りぐらいだろう。女房名の『しののめ』の名は、殿よりいただいたものだ。頼朝……『朝』の発想より、朝、東、『しののめ』と。


 深く情を交わした仲とは思えないほどに、しののめは畏まった。かつては、こういう慎ましやかなところを好ましいとささやいてくれたものだが、今はどうだろう。

 権勢を揮う殿を慕う女ならば、いくらでもいる。政子は嫉妬深いけれど、常に監視の目を光らせているわけではない。現に今も、しののめは人払いをした殿と過ごしている。


「はい。殿も、ますます御壮健でなによりでございます」


 重なる疲れのせいか、頼朝の目もとは窪み、頬肉が削げ、髪にも白いものが混じっている。齢五十を越し、見た目はやつれたが、しかし風格は増していた。もともと、都になじんだ暮らしをしていただけに、その高貴さは隠せない。


「なにが壮健だ。悩みばかりだ。こうも、訴訟が多くては」

「みな、殿の御裁断を待っておられるのですよ」

「いくさが終われば、多少は静かになると思っていたが、そうではなかった。むしろ、この体制を維持するほうが難しい。跡継ぎの頼家よりいえは、武士らしく血気盛んなところはよいが、考えが若過ぎて任せられない。その上、目下の敵は身内なのだから」


 乾いた笑いを浮かべた頼朝は、脇息に寄りかかった。


「みな、金。土地。己の利益ばかりにとらわれている。欲が、湯水のように湧いてくる」


 これまでは平家一派なり、奥州の藤原氏なり、倒すべき共通の敵がいた。所領は分捕ればよかった。今は、そうではない。幕府内での地位争い、所領の安堵など、目を内へ内へと向けなければならないのだ。


「さあ、こちらへ」


 少し身を起こした頼朝は手招きをし、しののめを近くに呼び寄せた。頼朝の衣にた

きしめられている沈香が強く薫った。


「して、佐治原の若者は、どのような様子か」


 頼朝は、朝春を危険視している。三幡姫に執着し過ぎているためだ。

 佐治原の家柄であれば、同じ家格の娘を娶るべき。同族か、御家人の娘を。武士の跳梁・征夷大将軍の姫を欲するなど、図々しいにもほどがある、と。


「とても熱心でございます。ここ数日は、毎日のようにお見舞いやお文をくださっております。細やかな気配りで、姫はたいそうお喜びです。おふたりは見るからに、相思相愛……」

「絶対に会わせるな。邸にも入れてはならぬ。文も突き返せ。佐治原家は幕府の忠臣。頼家の後見でもある。三幡姫との噂が外に流れでもしたら、厄介だ。これ以上、佐治原家に力が集まれば、余計な疑いを生む。そもそも、あのふたりは結婚できない。そなたも承知だろうに」

「はい。姫君は、女御さまです」


 しののめは頼朝に賛同した。頼朝も、我が意得たりと満足そうに深く頷く。


「そうだ。三幡は、いかにも女御。くれぐれも間違いが起こってはならないぞ」

「もちろんでございます」

「朝春に対しては、それなりの策は練っておく。して、姫の具合はいかがだ」

「日によって、よい日もあれば寝込む日もあり、安定いたしません。お心の負担になりそうなことは、私たちが取り除いているつもりでございますが」

「見舞いにも行けなくて、済まないな。静養を理由に、姫を中原の者に押しつけたままにしている。実の娘だというのに、多忙を理由にかこつけるなど、つれない父だと思うか」

「殿は、武士の頭領にございます。三幡姫も、よく分かっていらっしゃるかと。今日の殿のおことば、姫にもお伝えいたします」

「上質の朝鮮人参が手に入った。姫に、持って帰れ」

「ありがとうございます」


 頼朝は、大きく息をついた。頭をかかえ直したので、鬢のほつれにまた、ひと筋白いものがあるのをしののめは見つけてしまった。


「……そなたと話していると、気が楽だ。たまには訪ねて来い」

「はい」

「今日は一日、面会を待っただろうに。そなたは、無理なことをけっして言わない。不満も垂れない。昔から、少しも変わらないな。病でなければ、姫を今日にでも都へ送ってしまうのに。もしや、仮病ではないのか。入内を嫌がるあまりに。大姫といい、三幡姫といい、まったく」

「いいえ。姫は、原因の分からない病にございます。おかわいそうな姫です」


 空虚なことばにも、しののめは丁重に応えた。

 そこに、かつての情はなかった。歳をとったと言えばひとことで済んでしまうけれど、今の頼朝は生きる屍のようで、対峙しているだけで息苦しさを覚えた。


 しののめは近習の者より、見舞いの朝鮮人参を受け取るとそそくさと帰ろうとした。御所は気づまりだ、長くいたくない。自然と、しののめの脚運びは速まった。


 しかし、そんなときに限って、しののめを阻む存在があらわれる。


「もし。三幡姫にお仕えされている、しののめさまとお見受けいたしました。北の方さまがお呼びでございます」


 有無を言わせない口調で、古女房はしののめを案内した。この女房には、見覚えがある。頼朝の北の方……政子付きの女房である。

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