文披31題【筆】

千石綾子

夏なんか、嫌いだ

 夏には僕の苦手なものが多い。暑いのも嫌いだ。強烈な太陽の日差しには身体が焦げそうな思いがする。

 

「こんちはー」


 玄関に人がやってきた。僕は身構えて息をひそめる。居留守なんてカッコ悪いが、僕にはこうすべき理由があるのだ。


「こんちはー、四條さんちの管理人さん。靴あるから居るんでしょ?」


 ──靴! 靴まで見るとはさすが百戦錬磨の我が敵だ。僕は諦めて玄関へ向かう。


「ああ、やっぱり居た。家事忙しいところ悪いけど、こっちもお役目でね」


 バベルハイツの住民は皆人外だが、近所の住民たちは皆普通の人間ばかりだ。そもそもこのアパートは「あちら」と「こちら」の境目に作られていて、「あちら」から勝手に有象無象の輩が「こちら」に入り込むのを防いでいる。つまりゲートになっているというのだ。


 しかし僕は、アパートの住民たちよりも近所の人間達の方が恐ろしいと感じる事が多い。彼らは腹の中では何を考えているか分かったものではない。薄笑いを浮かべておべっかを言いながら、僕を笑いものにしているに違いない。油断は禁物だ。



「……どうも、お疲れ様です」


 僕はお盆に乗せたコップ1杯の麦茶を差し出す。


「自治会の当番なんて嫌なものだね全く」


 白髪交じりのポロシャツ姿の男はコップを掴んでぐいと麦茶を飲む。


「ぷはーっ、これは美味いね」


 当たり前だ。時間をかけて程よく煎り、大きなヤカンで僕が丁寧に淹れた麦茶だ。美味しくない訳がない。

 だが待てよ。そもそも彼は麦茶が好きではないかもしれない。社交辞令で褒めたものの、実際はアイスコーヒーが欲しかったと思っているかも知れない。そして後で近隣の仲間たちに「あの家にはコーヒーも出さずに麦茶を寄越したケチな管理人がいる」と吹聴するのだ。きっと。


 ──いや、落ち着け。考えすぎだ。夏の暑さは僕をより疑心暗鬼にさせる。


「いつもの事なんでね。もう分かってるかと思うけど……」


 男が取り出したのは何か長ったらしい文章が印刷された紙と、領収書だ。


「今年も神社で例大祭があるんでね」


 僕も白い封筒を出した。予め大家の四條から預かっていたものだ。中には一万円札が入っている。それを取り出して男に渡すと、男は白い歯を見せてぺこりと小さく頭を下げた。


 寄付で実際に懐が痛むのは四條だから、これは問題ない。問題なのは──。


「じゃあこれ」


 芳名帳というのだろうか。詳しくは良く分からないが、いつものあれが出てきた。そして差し出される筆ペン。

 僕の背中を冷たい汗が伝わる。こんな時に四條が留守だなんて。


 和紙に縦書き用の枠が印刷されたその帳面には、既に何人かの名前と金額が入っている。ああ、そして何という事だろう。彼らは皆恐ろしく達筆なのだ。


 僕はといえば子供のころから書道の時間が苦手で、字も下手くそだ。ましてや使い慣れない筆ペンでなど、まともに書けるわけがない。

 男は僕の手元をじっと見ている。次があるから早くしろ、といった顔だ。


「僕だけ下手くそで、恥ずかしいですね」


 いつものことだ。分かっている事だがつい言ってしまう。


「いいんだよ、読めればいいの」


 男は雑にそう言って手をひらひらさせる。いいから早く書けということか。ええい、ままよ。僕はおもむろに筆ペンを持ちかえて勢いよく「金 壱萬円也  四條臣十しじょう おみと」と代筆した。


 その出来栄えたるや、実に惨憺たるものだった。滲み、掠れ、歪んだ文字の列は右に左にと曲がっている。


「はいはい、どうもありがとうね」


 僕が書き終えるなり、男はそそくさと帳面と筆ペンをしまうと玄関を出ていった。


 恐るべき近隣住民たちよ。達筆揃いの強者よ。今僕が書いた下手くそな文字はこの後回る家々で回覧されてしまうのだ。きっと「あら、四條さんとこは随分個性的で」だとか色々言われてしまうに違いない。

 

 大体何故一万円なんだ。「壱」とか「萬」とか、ボールペンでさえ上手に書くのが難しい字じゃないか。


 そう思っていたら、さっき自分が書いた字が頭に浮かんできた。なんという醜態、なんという恥辱。

 恥ずかしさに僕は頭を掻きむしる。そうしてやりきれない思いを言葉にできない声で吐き出した。


「うわあああああああああああ!」


 これからあの男は喜々としてあの帳面を町中に見せて歩くのだ。町中が僕の事を笑うのだ。


「うわあああああああああああ!」

「うるさい黙れ」


 ざばーん、とボウルに入った氷水をかけられた。


「……四條」

「読書の邪魔だ」


 そう言って踵を返してさっさと書斎の方へと去って行く。有り難う四條、おかげで頭が冷えてきた。僕を飲み込もうとしていた被害妄想の真っ黒な雲が何処かに消えていったよ。


 しかし四條よ。家に居たなら何故出てきてくれなかったんだ。お前はとてつもなく達筆じゃないか。

 僕にわざと恥をかかせようとしたのか。そう思いかけたが、四條はたとえ不満があってもそんな回りくどい事をする奴ではなかった。

 例えば頭から冷水をかけたり、目に唐辛子を吹きかけたり、そんな感じだ。

 僕は一瞬でも四條を疑った自分を恥じた。済まない、四條。今度は嫌悪感で心が真っ黒に覆われてきた。


 ああ、やはり夏は苦手だ。僕をより情緒不安定にさせるから。



               了

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