這い上がってくる恐怖

 徐々に遠ざかっていくジョーの足音。

 それを聞きながら……



「あーあー…」



 ディアラントが、がっくりと肩を落とした。



「強がっちゃって、もう…。本当は、謝りたいくせに。」

「へ?」



 予想外のディアラントの言葉に、キリハは素っ頓狂な声をあげる。

 そんなキリハに、ディアラントは困ったように笑った。



「本当に罪悪感の欠片もないなら、あの人はすっごくいい顔で笑うよ。笑えなかったってことは、あの人は間違いなく、今回のことを後悔してる。想定外だったとはいえ、キリハを危険にさらしちまったからだろうな。認めちゃえば楽になるのに、変なとこで頑なで不器用な人だよ。」



 ジョーが消えていったドアをあおいだディアラントは、次に真面目な顔でキリハに向き合った。



「キリハ。お前、オレが気絶させるまでに何をやらかしてたか、覚えてるか?」



 訊ねられ、瞬く間に頭の中が真っ赤に染まる。



 ただただ赤くて、ただただ熱くて、もう何がなんだか分からなくなって。

 その中でずっと、腰に下がったままの《焔乱舞》が、激しく震えていることだけを感じていた。



 そして……





 そして―――このまま、この炎が全部焼き尽くしてくれればいい、なんて……





 ぼんやりと、そんなことを思って。



「俺……」



 キリハは唇をわなわなと震わせる。



 自分は、なんてことをしていたのだろう。

 今になって、恐怖にも似た思いが背筋を駆けのぼっていく。





『別に、ありえないことではあるまい?』





 ふいに脳裏で木霊こだまするのは、オークスの言葉。



『何らかの因果関係から、君がドラゴンに決して敵対しないと見抜いたのか……もしくは、そうあるように洗脳できる人間を、適合者として選んだのか。』



 だめだ。

 これ以上は考えるな。



 自衛的な本能が警鐘を鳴らす。

 なのに……



『君の中の何がそんなことをさせるのか……―――あるいは、《焔乱舞》の何が君にそんな言動をさせるのか。』



 恐怖を増長させるように、オークスの声が大きくなるばかりで……





「―――キリハ!!」





 力強く呼びかけられて、右手を取られたのはその時だった。



「……あ…」



 血の気が引いた顔で呟くキリハに、ディアラントはうれいに満ちた表情で、重たげな息をついた。



「お前、まだその癖直ってないのか…。やることが違うだろ。」



 諭すようにそう言ったディアラントは、うなじの後ろ髪を掴もうとしていたキリハの手を、そっと自分の胸へと引き寄せた。



「不安な時はそっちじゃなくて、こっちに手を伸ばすの。本当にお前は昔から、肝心な時ほどそうやって、不安を自分の中に押し込めようとするんだから。」



「だって……」

「だってじゃない。」



 ディアラントはキリハの言葉を遮り、その肩に手を置いた。



「大丈夫だ。お前は何も悪くない。」



 断言するディアラント。



「フールも言ってた。こんなことは初めてだってな。多分、ドラゴンのために本気で怒ったお前の心に、ほむらが呼応したんだろうって話だ。大丈夫。誰も怪我なんてしてないし、お前がオレたちに危害を加えようとしたなんて、誰も思ってない。」



 優しく、できるだけ刺激しないように。

 ディアラントは丁寧に言葉を紡ぐ。

 それでもキリハの表情が晴れないと知ると、彼はさらに言葉を重ねた。



「心配するな。本当に大丈夫だから。今回の件でお前が焔を暴走させたことについては、ターニャ様とジョー先輩が協力して、情報を揉み消してくれるそうだ。今回のことは、想定外が想定外を呼んだ事故だったんだよ。」



 ディアラントは、言葉の途中で何度も〝大丈夫だ〟と言ってくれる。



 でも―――



 キリハは今にも泣き出してしまいそうな顔をして、ふるふると頭を振る。



「無理……無理だよ。だって、俺は覚えてるもん。事故だって……そんな風になかったことにされたって……俺は………俺は…っ」



「分かってる!!」



 一際大きな声で叫ばれ、条件反射のように喉が痙攣けいれんして、声が出なくなってしまった。



 キリハの言葉を遮ったディアラントは、身をすくませたキリハの頭に自分の額を乗せた。



 そして―――深く、深く、長い時間をかけて息を吐き出す。



「分かってる。キリハはまっすぐすぎて、受け止めなくていいことも、全部受け止めちまう奴だって。でも、今はこらえろ。今回ばかりは……こうするしか、お前を守れる方法がない。だから―――」



 キリハの肩を掴むディアラントの手に、震えるほどの力がこもる。





「お前の中で、なかったことにしろなんて言わない。受け入れていい。受け止めて、受け入れて―――飲み込め。オレも一緒に受け入れてやる。一緒に飲み込んでやるから。」





 その言葉が、限界間近でき止められていた感情が決壊するきっかけだった。


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